数学人間学 期末試験問題

数学人間学 期末試験問題

 問題

ある正三角形の重心を軸として頂点をずらしながら同じ大きさの正三角形を書き重ねていくとその都度、ある多角形ができる。さらに書き重ねていくとある瞬間その多角形が円形にしか認識できなくなることもある。しかしそうした多角形は円形に極めて近づくが決して円形にはならない。だが誤認しているわけではない。

 

(1)傍線部の場合の円形を何と呼びますか。

 

 

(2)「ある瞬間」に於いてどのような観点があなたにその多角形を円形だと認識させましたか。

 

 

(3)あなたが認識した円形は私には多角形のひとつに見えます。しかしあなたは円形だと認識しています。あなたが認識している円形-私にとっては多角形のひとつ-が、私にも円形だと認識できるようにするにはあなたはどのような観点を提示しますか。

 

 

(4)この問題の作者はあなたとしては誰だと思いますか。

 

 

                          以上で問題は終わりです。 

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解答用紙                 氏名 セーレン・キェルケゴール

 

(1)は極限です。(2)と(3)は、自分は「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、-それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである」と自著『死に至る病』に書いたので(2)の答えは「人間」、(3)の答えは「自己」です。(4)の答えは「神様」です。

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解答用紙                 氏名 佐々木 悟

 

(1)極限。

(2)と(3)を答えるにあたりまずこの問題の仕組みを図式的に表してみました。

Aがある。AはCとBという非対称の二観点から問いの対象Ⅾへ。問いの対象ⅮへEが否応なしに触れてくる。触感Fから瞬時にAはGとわかる。わかった後にGを二つ目の答えKへと至らしめているものを知りえようとして二つ目の観点IやそのGへの触感JからIを見つける。その傍らにこの作業をしていた人がいる。(ただしG≠KかつG=K)

よって(2)は「E(良い)」、(3)は「I(愛)」です。(4)は「人」です。というのも次のように考えたからです。

ところでなぜAがあるのか。連鎖が切れているからではなかろうか。その意味で今はAのみならずBから人までそれぞれただある。連鎖が切れる以前は連鎖が切れてAのみがあった。ただしどのような連鎖が切れた結果なのかはわからない。それはつないでみることによってどのような連鎖が切れたのかが初めてわかる。それ(Gに相当とする)がわかると知りえること(K)があり、知りえると瞬間的に黙さざるを得ないこと(J)がわかり、それを起こさせないために何(I)ができるかが自ずと見つかり、その何を別方へと向ける手(人)も定まる。

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こんな物語を考えていると数学人間学だけではなくて経済人間学でも医学人間学でも人間人間学でもいいのですが、教科名に「人間」をつけると勉強が今以上に楽しくなりそうだと思いますね(物理人間学は量子力学のような気もしますが)。

それにその勉強で身につける表現の枠組みはいざという時に自分の身を救いそうです(はぐらかすようにして)。白黒つけたい方には不向きかもしれません、あるいは嫌がられるかもしれません。

道徳の授業の指導案の予想される生徒の反応の欄に書かれていそう風にしてみた

A「佐々木さんは日本人なので北朝鮮から出て行ってください」

B「差別は禁止です。嫌ならAこそ出て行ったらどうですか」

Ⅽ「差別禁止を押し付けるBが私は怖い」

Ⅾ「そういうあなたは佐々木さんに対するAの差別を肯定するのか。自分も差別は禁止だ」

E「そういうあなたは差別する自由を侵害するのか」

F「(ホント、私たちは自分以外に踏み込んだり踏み込まれたりして生きているよね。呼吸の比喩してる)」

G「差別する自由はありです。多様性の一部です。しかしその多様さは対等ではないです。現実的には非対等です」

H「なぜ?」

G「否応なしに身にしている歴史がそれぞれにあるからです」

H「そんな歴史、改竄しちまぇ」

Ⅰ「改竄しなくてもしても歴史と現在は連続していないよね。そこにはあいだがある。そこをどうというところに…」

J「改竄しちまぇというと改竄され返されるぞ。その歴史がしかし今日をこれから生きるにも大切なはず。Hだって起きたら素っ裸で戦場にひとり放り出されていたらどうするんだ。寝た時はフカフカのベッドだったのに」

k「とすると差別される側にも問題があるとでもいうのか。炎上するよね」

Ⅼ「いじめられた側にも問題があるというと炎上するように…」

J「でもいう。あえていう。だが半分はいう。つまり差別されるような佐々木さんは今の状態ではいけません。しかしA、B、Ⅽのいう通りにも私のいう通りにもなる必要はない。他方、私はこれから佐々木さんがそのままでもいらわれるようにかわる。ごめんね」

Ⅿ「私には佐々木さんがよくわからないのです。こうした議論、かつて校内暴力が吹き荒れていた時代、生徒抜きで深夜まで先生たちによって行われていた生徒指導会議のようなもので、独りよがりではないですか?」

N「そうそう。最近はオープンダイアローグの時代だからね。当事者のいないところでは当事者について話してはならないんだよね」

O「(ああ、また会話が元に戻りそう。終わりなきマウンティングを生きよ、か)」

P「(うん。見かけは違ったけどまただね。もう帰りたいよ)」

Q「お兄ちゃんが、家でげんしょうがくてきかんげん、げんしょうがくてきかんげんってぶつぶついってた。それしてみようか」

R「なにそれ。宗教?」

Q「違う。違う。自然的態度の一般定立の徹底的変更ということ」

S「武装らしきを一旦解除して佐々木さんに会いに行こう」

T「言うは簡単。そうやって一旦、武装解除をしました。会いましょうというあなたのような人間を信じてどれだけの…強いて呼べば謎人物が面談中、殺されてきたか。あるいはあなたのような人物が殺されてきたか。佐々木さん会ってくれないかもな。当然、直接的には会ってくれないだろうね」

U「昭和天皇が亡くなった時の様子を父が話してくれた。近いうちに亡くなりそうな天皇の容体がテレビに刻一刻と映し出されていた。多くの人が自分の仕事をしながら気にかけていた、と」

Ⅴ「たくさんの覗穴から覗かれるジョシコウセイの生活を公開しているビジネスみたいだね。いいね。いいね。超いいね」

Q「逆パノプティコン

R「またわけのわからんこと言った。専門用語つまりジャーゴンはここでは禁止だ」

Q「しょうがないでちょ。そんなことできない。そういうあなたが勉強してよ。前田くん」

W「禁止の禁止令(ボソ」

S「わかった。佐々木さんに会わないように会えればいいんだよ。佐々木さんはいつもの通り。でもその傍らには私たちがいる」

T「そんなことできるの? どんな風に」

S「佐々木さんにも生まれてこのかた見ている風景があるはずだよね。その風景を人工的に全部つくりかえちゃうの。つくりかえる以前と全く同じに。そして私たちはもともとの風景とつくりかえた風景のあいだに隠れるようにして佐々木さんに会うの」

T「よくわからないな。佐々木さんの人間関係に協力してもらって佐々木さんの人間関係の見かけと中身を四分の一ほど私たちと換えてしまい、換わった中身として会いに行く、それも換わっていないように飾ってということ? 面談中の殺人は起きそうもないよね」

Ⅹ「そんなことできるの?」

Y「演劇関係ではすでにやっている人たちもいる」

Z「佐々木さんの人間関係が協力してくれるかどうかだよね」

Y「頼みに行こう」

皆「協力してください。お願いしますm(__)m」

佐々木さんの人間関係「わかった」

 

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こういう書物は読む人の心にいろいろと巻き起こるでしょうね。

 

「ホイミ」の如くを唱える

「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「ある環境に依って生きている自分」』に於いて「確かにあると感じている存在」(=「ある環境」)がありえると、同時に「そのひとらしさ」も誕生する。それがある以前は「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「ある環境に依って生きている自分」』として生きていた。

なぜありえたか。「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』の手に負えなかったから。これは手に負えなくなった理由は二方向から考えられるということです。「確かにあると感じている存在」はその生にとって障害存在といえます。ただし取り込むことも排除することもできないです。取り込もうとしたら毒を取り込むようなものでありますし、排除したらこの先、再度、生きようとした場合、根底的に生きられなくなります。

再度、生きようとするのならばあれこれとして生きられなくなった「環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』がかわらないといけない。どのようにかわるか。障害存在はそのままにしてしかしそれが障害存在でなくなるようにするのです。障害存在が障害存在になる前に戻るということです。難しいことではないです。例えば字がぼやけて見えなくなったらメガネをかければいいというようなことです。しかしそれだけでは不十分でそうして障害存在を障害存在でなくした道具ならば道具が「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにもしなければなりません。

ともするとここで再度、生きている気がするが間違いですね。ここまでして初めて再度、生きられる準備が整ったのです。というのも「確かにあると感じられる存在」がありえた理由はそれまでの「環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』に手に負えないというようにして現れており、手に負えるようにするには「環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』に生きていた自分が今までにはない生をあらしめるようにしてかわらなければならないからです。それはしかし極めて「そのひとらしさ」事です。

そうして「環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』に生きていた自分がかわると「確かにあると感じている存在」も違って(かわって)ありえます。初めて「確かにあると感じている存在」がありえた時の「環境に依って生きている自分」=「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」に生きていた自分とは違っているのですから。するとかわった自分が障害存在(=現在、障害存在ではない存在)に発見してしまうことがあります。必ずあります。その発見したことにかわった自分としてはどう関わるか。そしてなぜその関りなのかを「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにする。ここまでして再度、「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「ある環境に依って生きている自分」』として生きています。

私は幾度かこうしたいうなれば「死と再生の如くの道筋」について書いています(呼び名もその都度かわっている気がします)。なぜなのでしょう。どうやらなんかあった時の後に書く傾向がありますね。じゃあ、この道筋に沿って具体的に書けよとも我ながら思うのですが、ちょっと違う。いや、書いてもいいのですが、それとは別にこうした道筋をことある毎に書く理由はいうなれば回復の呪文を唱えるようなものです(ドラクエでいうところの「ホイミ」ですね)。回復へと向けて呪文を唱えるのですが、いつも同じではないです。ちょっと違ったり同じだったりする。同じものを書きたいのですがブレる。このブレは私は書くことが苦手ということがあるかもはれないです(数学だとブレの予感は少ない気がしている)。

 

あるいはわざわざ書かなくても身体はこうした道筋を常にすでに生きている気がします。こうした道筋を身体的にできる人は体調が崩れてもすぐに未知の回復へと戻ることができるかもしれません。私は脳で生きているようです。何かの拍子に脳の調子が崩れるのでしょう。そしてこうして書いて未知の回復へと戻っているようです。

 

このような道筋、教育にとってはとても大切ですよ。このような道筋を通らない教育はいくら努力しても身につき難いでしょうね。その場ではできても、しばらくしてもう一度しても、できなくなっている。そしてまた…ということを繰り返しそうです。ただそもそも言われなくても常にすでにしているかもしれませんので道筋を筋よく整えていく(増幅する手立てを講じる)ということはありだと私は思います。

ただしこの道筋に進むには基本的には先ほどの‘「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「ある環境に依って生きている自分」』に於いて「確かにあると感じている存在」(=「ある環境」)がありえると、同時に「そのひとらしさ」も誕生する’、という個所の「確かにあると感じている存在」がありえないと始まりません。ありえるときはありえてしまうしありえないときはありえないままです。それでは教育が始まりません。だから逆手に取って…ということも教育の手法として想定できるのですが、そこまでしていいものかどうか迷います。例えばともすると精神病になるかもしれない種の芽を出させるようなものですから。けどこの一点はというところではありでしょうね。

 

もっと難しい事はいわゆる「自分」はいても「環境」や「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」がいない人もいるようです(いわゆる「サイコパス」とでもいうのでしょうか)。

閉じた言葉体系で生きていそうです。言葉が通じるからといって関わると二度と出ることができない森の如くに入り込むことになりそうです。

時代の方針に生きつつも、同時に、いつでも現状以前に戻れること、そしてそこからもう一度、生きる準備もする

 怒鳴られなければ静かにできない児童生徒がいる。その児童生徒は怒鳴らない教員の授業では騒がしい。授業にならない。こうした児童生徒は教員の授業の力量に問わずいる。

しかし怒鳴る教員と怒鳴らない教員が覇権争いするようなことはない。「私たちは怒鳴ることをしているか怒鳴らないことをしているという異同の共同体だ」と基調認識している。そして問題は「児童生徒の家畜羊化」だと気がついている。「児童生徒か主体的に勉強に取り組んでくれたら私たちはこんな仕事のための無料感情労働をしなくてもいいのに」と合意する。そうした児童生徒に「なぜ勉強する意味はあるのか?」と問えば「勉強する意味なんてないですよ。勉強するそれ自体のために勉強しているのです。そしてそれ自体も意味にはしていません」と答えるかもしれないと夢想している。

それから教員は児童生徒が主体的に勉強できるようにあれこれしはじめた。

だがそれでもしない(できない)児童生徒がどうしてもいる。「自己責任だ」と切り捨てることなく全員が主体的に取り組めるように尽力した。とうとうある日、すべての児童生徒が主体的に勉強しているようになった。教員の授業の力量は瞬くまに上達していった。千回の研究授業を経験するよりとても短期間で力量がついた。主体的に勉強に取り組んでくれる児童生徒のおかげだ。

仕事も早く終わるようになりいい感じで日々過ごしていると、ある子が「佐々木先生がいる意味は何ですか?」「これなら佐々木先生でなくてもいいですよね」といった。「やはり全体化は不可能か…」とおもいつつ教員は絶句した。確かに児童生徒は主体的に勉強するようになったが、これは児童生徒を羊ではない別種の家畜に家畜化しただけではないのかとの思いが頭をかすめた。しかしすぐに「これ以上は教員が関わることではない」と開き直った。児童生徒は卒業を迎えた。

主体的に勉強している児童生徒が卒業して十年後、ゆとり世代のマスコミが彼らを指して「反ゆとり世代」と呼び始めた。いくぶん皮肉かかって聞こえた。それを見ていた当時よりいくぶん老化した教員は「十年前、主体的に勉強している児童生徒を放り出さずに、後にしかわからないその子らの末の扱われ様に事前に対応できていれば・・・」と後悔した。でも何ができたというのだろう。「テロが起きる前にテロを避けるが如くの能力」を児童生徒につけることなどできるのだろうか。が、そうだとしてもそれだけではやはりまた違う別種の家畜にするだけだろうと思った。時代の方針-例えば「主体的に勉強に取り組む」ならば主体的に勉強に取り組む-に生きつつも、同時に、いつでも現状以前に戻れること、そしてそこからもう一度、生きられる準備もしてあれば、いざという時からも皮肉られるようなことなく生きることができるかもしれない。それには自分のなかの裂け目らしきを塞いではいけない。

満足して死ぬか、死を忘れたまま死ぬか

どんなに努力しても対象の全てを知ることは不可能。ひとつはどうしても知りえない。しかしそのひとつは対象を知ろうと望み、実際に知っていくうちに、知ろうとしている対象にないものとして知ることはできる。ただし知ったことを再現することに力を注ぐと知りにくい。そうしてどうしても知りえないひとつを知ったら、そのひとつを充たすようにして作品をつくる。その作品が対象にとって何であるのかわかるような添え物もわかるようにそえて。

こうした生き方を芸術作品制作的生き方と呼べば、その生き方で生きている若い人は、芸術作品がよいのみならず例えば全国一斉学力検査で容易に高得点が取れる気がします(ただ「なんで知ったことを再現しなくちゃならんのだ」「高得点採れるけどテストつまらない」などとぼやいているかもしれないですが)。

こうした生き方で生きることがなぜ(若い)人の多くに定着しないのでしょうね。既出のキャラに成りて生きることで来世もその次もというように永遠に生きようとしているのですかね。芸術作品制作的態度で生きると満足して死ねそうです。既出のキャラに成りて生きると死を忘れたまま死にそうです。死を死ぬってなかなか難しいですよね。

〈ぼんやり〉からの脱却

例えば机の上に鉛筆がある。鉛筆を机の上からどかせば机の上に鉛筆は無い。もともと机の上に鉛筆が無ければ「机の上に鉛筆が無い」とはいわない。が、確かに鉛筆は無い。この時、無いものは鉛筆に限らないが、鉛筆が無いことも含まれている。含まれているが、もともと鉛筆があった時の無いと同じでもあるが違う。

「無もない」という無いもある。それは鉛筆そのものとして生きている時-つまり鉛筆使用時。鉛筆を使用している以外は何もない時―のことか、あるいはすべてが出そろってある時のことです。鉛筆使用時以外のすべての時にはその傍らに人がいます。

 

無についてのこの分類が妥当かどうかは無の専門家ではない私には定かでないです。ともあれ仮にこの分類を下敷きにして児童生徒の〈ぼんやり〉化からの脱却の道筋を示してみたいと思います。

 

普通日々、児童生徒は机に座り鉛筆を持ち書き書きしています。

 

児童生徒の〈ぼんやり〉化の第一歩は鉛筆使用時以外の時に出てしまうことです。鉛筆と人(=その児童生徒本人)とに分離してしまうことから始まります。分離しない児童生徒は決してしないのですが、してしまう児童生徒はしてしまうのですよね。意図的に分離しているのならばすぐに鉛筆に戻ることもあるかもしれませんが、そうでないとしたら鉛筆にすぐに戻ることは稀です。鉛筆と人に分離しすぐに鉛筆に戻らないことは机の上から鉛筆をどかして机の上を無にしてしまうようなものです。あくまでも「ようなもの」です。実際には鉛筆はありえています。これは机の上に鉛筆以外の何かがありえる可能性が出てきたということでもあります。例えばカードゲームやお弁当などなどいろいろと出てきますでしょうか。それと飽きるまでとことんまみれることをお勧めします。十二分にまみれたら次を出しましょう。どこまで出てくるかな。頑張ってね。様々なものが次から次へと出てきますね。

 

出切ったでしょうか。

 

ここまでくれば〈ぼんやり〉からの脱却の一歩手前です。見どころは次の瞬間です。次の瞬間その児童生徒が出きったものの何に手を伸ばすかです。一つ一つと十分に戯れ、鉛筆以外すべて出し切っていたら、机の上に鉛筆以外のものがあるとしても、必ず鉛筆に手を伸します。まだ鉛筆とは未決だからですね。

 

机から降りてしまうもありといえばありですがそれはまた別の、です。

 

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こう考えると勉強しない子どもは遊び足りないのかもしれません。勉強ができるようになるには遠回りかもしれませんが納得するまで遊ぶしかないです。しかし再度、勉強に向かった時には受験はもう終わっているかもしれないーつまりタイムアップということ―です。が、その子は確かに勉強は続けていくでしょう。その上、その子の学力は本当に身についています。一生ものです。大多数の日本人が児童生徒学生時代それなりに英語を勉強しているにもかかわらず、大人で英語を十分に扱える人はそれほどいないというようなことにはなりません。

(無題)

教育学部の入試に、面接を取り入れる大学が増えている。今春の入試で面接を課したのは、教員養成課程のある国立大学の半数に達した。精神疾患で休職したり、わいせつ行為で処分を受けたりする教員が後を絶たない中、大学側は受験生が「未来の先生」にふさわしいか見極めようとしている。(毎日新聞)

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教育学部に入れば養成代が発生するから卒後はできるだけ教職に向かわせたい。教職に就いた後で「精神疾患」や「わいせつ行為」で退職を迫ることは難しい。だったら水際でということもあるのでしょうね。

精神疾患」や「わいせつ行為」とまではいかなくても病むこともなく異性に関心を持たず「いつも輝いている先生」に児童生徒は教わりたいでしょうか。昔からいわれていますよね。例えば数学好きの先生に数学嫌いな生徒の気持ちはわかり難いと(そしてあれこれ試みられた)。そんなことが今度は先生と児童生徒レベルで起きるようなことが無ければいいのですね。義務教育はあってもいいけど義務教育ありきみたいな先生にすべての子どもは対応できないかもしれません(公的な分業はインクルーシブ教育推進の流れからすればありえないでしょうしね)。

それにしても自分が不思議な思うことは「教職現場きついよ」ということがそこらでさんざん報告されているにもかかわらず教職を目指す生徒が後を絶たないことです。志望する生徒らはじぶんだけは上手くいくとでも思っているのでしょうか。「教職それほどすばらしいか?他にも素晴らしい仕事はいろいろあるんじゃないかな」

翻ってこれだけ「教職現場きついよ」といわれているのに、確かに徐々に取り組んでいるようですがなせ教職現場の環境がいつまでも改善されないのでしょう。むしろ例えば中学の部活などは昔より過熱している部分もある。「○○部が全国大会出場」みたいな垂れ幕が校舎に掲げられるということは昔は今ほどなかった(その傍らで「△△高校何名合格」という張り紙がされた塾がありその光景は何とも言い難い。反転授業が流行っているけど、とうとう立場すらも反転したのだろうかとい皮肉りたくもなるが、止めておく)。

記し忘れたから「編集」する。「教職は素晴らしいよ。立派な未来の先生になってください」