フッサールの「幾何学」(仮)について9

フッサールの「幾何学」(仮)について9

 『てつがくこじんじゅぎょう』(鷲田清一×永江朗)のレヴィナスの項の引用句にはこうある。

 

「〈同〉の審問は〈他〉によってなされるのだ。他者の現前によって私の自発性がこのように審問されること、われわれはこれを倫理と呼ぶ。〈他者〉の異邦性とは〈他者〉を〈自我〉、私の思考、私の所有物に還元することの不可能性であり、それゆえ〈他者〉の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就される」(レヴィナス『全体性と無限』)

 

その後の対話の箇所では内田樹さんは「レヴィナスは同じ袋の中に複数のレベルのことを入れている。」と述べている個所がある。『現象学辞典』の『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』の項では斎藤慶典さんが、「理性とはこの等質な公共空間を設定しうる能力のことなのである」と書いてある。その「等質な公共空間」が内田さんのいう「同じ袋の中に複数のレベルのことを入れている」に相当すると考える。

 

斎藤さんはその著『レヴィナス』で「このようにして開かれた空間においては、およそ思考しうるかぎりのすべてが、あの「望ましからざるもの」の前に、いわば横並びになる。この空間は一切の方向性・偏差・歪みを許さない均質で透明な空間であり、その中では、決定的な次元の差異をもっていたはずの私と「他者」ですら、「等しい」ものとなってしまうのだ」とし、「そのような空間の内部ではじめて、「正しい」行為と「不正な」行為が、「正義の」人と「よこしまな」人が、裁かれるのだ」と書いている。

この空間において私が「顔」としてあらわれた(あらわれている)「他者」の「よさ」へと向けて計量的に裁きを行う(「顔」は、「「見えるもの」と「ひょっとしたら幻かもしれないもの」とが重なり合った事態」)。しかし計量的といえどもそもそも比較できないことを比較している(=「正義」している)のだからその裁きは暴力といえば暴力。私は正義が虚構であることに覚醒してもいる。

 

斎藤さんはこう書いている「「正義」のこの不可能性は、「よさ」が、「顔」を見てしまったのかもしれないという疑念に取り憑かれた私の「欲望」する理性にとってはもはや取り憑いて離れないいわば「原事実」でありつづけているのと、この「純粋な可能性」から見て「不可能な」正義、虚構として要請されるにすぎない正義が、つまり計量する理性が、むしろ私たちの現実を支配しているように見えるのだとすれば、ここでもう一度問わなければならない。「純粋な可能性」として見てとられたものと、厳として存在している「現実」として見てとられたもの、いったいそのどちらが「幻」なのか。虚構なのか。」

 

こうした思想を幾何学のこととして述べることは、なかなか困難ですが、つなげてみます。例えばレヴィナスは「顔はかたる。顔の〈あらわれ〉はすでに言説である」と書いています。そこにソシュールの「今のところ、一般言語学とは私にとって、幾何学の体系のようなものに思われる」という言葉をつぐようにすれば、「顔」と「言」と幾何学がつながります。

 

レヴィナスは同じ袋の中に複数のレベルのことを入れている。」「理性とはこの等質な公共空間」、というその「袋」や「等質な公共空間」が、「神像筒形土器」と重ね書きしているフッサールの「幾何学」(仮)のことです。その空間に「神像筒形土器」的な思想つまりレヴィナス的な思想が働くという構図です。

 

そして(もう幾度か述べていますが)フッサールの「幾何学」(仮)において「たこ形(二種)」は「他者の顔」に相当します(たぶん)。ベン図的なたこ形の性質と顔の性質が同じということからです。「神像筒形土器」の右肩右の文様では、たこ形=ひし形として表現されているようでして、「幾何学」(仮)においても「土器」においてもひし形には穴性がありますから、その穴に触れるようにして穴からまさに顔を出すようにしてたこ形がありえています。このたこ形が先ほどの思想の「この空間(等質な公共空間)において私が「顔」としてあらわれた(あらわれている)「他者」の「よさ」へと向けて計量的に裁きを行う」その対象です。

で、その顔へのどのような計量的な正義をということに関する「幾何学」(仮)での形は、右下の正方形と長方形です。「土器」の文様でいえば、正方形や長方形が積み重ねられているようなとても細長い文様のところです(この正方形や長方形が積み重ねられているようなとても細長い文様は、顔つまりたこ形への計量的な理性による正義ということに関してもっともらしい表現です。この「土器」の制作者、レヴィナス的な思想に生きていたような気がとてもします)。

 

そしてこの二つつまり顔とその顔への正義は、顔は「見えるもの」だけでなく「ひょっとしたら幻かもしれないもの」でもあり、正義は「よさ」であるだけでなく「虚構」でもあるというような、(いわば)見え隠れするような性質が共通しています。そしてそのこと自体もというところがありました。

 

この顔と正義に関することが、「幾何学」(仮)では、中央下部にある一般四角形から台形までの線におけるたこ形(二種)と正方形・長方形の箇所のことに相当します。「土器」としては、その二つの部分にそれぞれ服の如くが着せられています(「幾何学」(仮)を手がかりとして考えるとわかりやすいということです)。見え隠れするようにして表現されています。そしてそのこと自体が、「土器」の後ろ姿の部分とその右側部分の文様との関係にありえています。

 

顔に触れられていたり、顔に正義をなそうとしている私が居る場所は、後ろ姿(中央下部の長い線)ではひし形であり、後ろ姿右側の文様では斜めの文様においてのようです(斜めの文様は後ろ姿右肩右の文様と右肩右斜め下の文様の間に位置づいています)。

 

そうして顔に正義がなされると、「幾何学」(仮)では、「幾何学」(仮)の初期的の数学的な目的であった新たな一般四角形が三つ描かれるということが起きます。「土器」的には左腕の先の平らな部分に何かありえるはずです。斜めの線、斜めの文様に関しても同様なことが起きるはずです。線的には新たな長方形・正方形・ひし形が描かれる。「土器」的には斜め文様下側の円形に何かありえるはずです。

こうした顔の経験や、顔への正義的な働きやその結果が、それらだけでなく「幾何学」(仮)や「土器」自体においても働いています。「幾何学」(仮)では同じ図でも、ひし形に触れる前と触れた後では図の展開の仕方が違う二枚目の図(触れた後の図)がありえるというように、「土器」的には「神像筒形土器」だけでなく「双眼深鉢」がありえるというようにでしょうか(ここはブツだけでなくそれへと関わっているひとのことも論じなければなりませんが)。

 

(下。前回の図を少し手直しした図。主に手直しした箇所は、形のまとめかたと対応するであろう文様の関係)

f:id:sasakisatoru:20180917001428j:plain

(レヴィナスの思想がそれなりにきちんとわかっている方からすれば、もっといろいろ見えてくることがあるのでしょうね)

フッサールの「幾何学」(仮)について8

書いた後にわかったことも記した図をメモしておきます(部分的に拡大したものも)。それとその下にそれぞれ「神像筒形土器」の対応していると考えている部分の写真も貼っておきます。

 

全体図↓

f:id:sasakisatoru:20180915232951j:plain


f:id:sasakisatoru:20180915172509j:plain

 

頭部と左肩の左の文様↓

f:id:sasakisatoru:20180915143520j:plain

f:id:sasakisatoru:20180915172855j:plain

 

右肩の右の文様↓

f:id:sasakisatoru:20180915180037j:plain

f:id:sasakisatoru:20180915180116j:plain

 

右肩の右の文様の下の文様↓

f:id:sasakisatoru:20180915180157j:plain

f:id:sasakisatoru:20180915180232j:plain

 

背の部分とその下の文様↓

f:id:sasakisatoru:20180915233120j:plain

f:id:sasakisatoru:20180915173445j:plain

 

左腕の左の斜めの文様↓

f:id:sasakisatoru:20180915143706j:plain

f:id:sasakisatoru:20180915175638j:plain

 

自分がなぜ幾何学や土器について考えているかといえば、教育について考えているからです(一応、教育系出身です)。倫理を完成させないと、教育が倫理にのっとられてしまう気がしているからでしょうか。

 

土器の文様の解読のようなことは、伝統的にどちらかというと教育系ではなく、他分野で考えられてきたようです。当然といえば当然ですね。同じものについて考えるにあたり、教育のセンスと他分野のセンスでは、他分野の方がセンスがいいような気がします。あれこれしていて思うことは、教育の人間はその、自分(教員)のことを棚に上げて子供をどうこうしようとする態度や、素早く最新の教育方法を手に入れそれを日々の実務に生かそうとする態度が、物事をきちんと考える上でのバイアス(偏見)になるようです。

 

自分には、完成するまでは残しておいた方がいいと思う作業の跡資料がこれだけあります。

f:id:sasakisatoru:20180915143727j:plain

 それでも結構、捨てました。かなり試行錯誤的な作業です。こんなに「見落とす」のも偏見つまり近代の成果のおかげかしら。縄文時代当時のひとは(なんというか)もっとスマートにかたちにすることができたのでしょうかね。あれだけ考え込まれているように思える文様を、土器を制作しながらつくりつけていったとは考えにくいですが、とすれば、おそらく紙も鉛筆もない時代どこでその下書きの如くを考えたのかなどのことを知りたくなります。それにあの土器の文様を制作したひと、かなり頭が良いようです(それとも当時は私がいう「頭の良さ」が他のひとにとってもスタンダードだったのだろうか)。頭が良いだけでなく手もきちんとしています。

 

岡本太郎さんが縄文の美をいいましたが、こう考えてくると縄文の科学といってもよいと思えるくらい理的に造形しているようです(昔の小学生が読んでいた漫画・日本の歴史の「縄文人」のイメージー土埃のついた未開の原人がウホウホのようなーとはとても違うようです)。また「今のところ、一般言語学とは私にとって、幾何学の体系のようなものに思われる。結局は、いくつかの定理を証明することが問題となるのである。ところで、定理12も、別の角度から見れば、定理33と同じことを言っていることがわかる」とはソシュールが弟子のゴーチエとの対談で言っていたことだと『ソシュールの思想』(丸山圭三郎)にありますが、これだけ幾何学的にしっかりと考えられることがあった地域なので、言語的にも確かな何かがあるかもしれないです。

フッサールの「幾何学」(仮)について7

◎土器部分の見かけから

この土器の各々の文様の特徴は、非対称さにあるようです。非対称といっても、例えばある事物があるとして、その事物もうひとつつくり裏返して、最初の事物の傍らに添えたというような非対称さではないです。

そうではなく基の事物があるとします。その事物を左右逆にして、それでも通るようにして、もう一度左右逆にすると、見かけは違うが同じ働きの事物が別にできます。この二つは別々にあるのですが、同じ働きでして、そうして二つ並んでありえているありようが、ここでいう非対称さで、それは基の事物をいわば隈なくみさせているということです。そのように土器の各々の文様もあります。

とするとこの土器自体を隈なく見せるということはどういうことかという問いが、その土器製作後に起きていたはずです(たぶん。ここまできちんとつくっている土器でもありますから)。

 

冊子『井戸尻』的には答えが出ていますね。先ほどの言い方―「基の事物があるとします。その事物を左右逆にして、それでも通るようにして、もう一度左右逆にすると、見かけは違うが同じ働きの事物が別にできます。」―にならえば、「〈神像筒形土器〉があるとします。〈神像筒形土器〉を左右逆にして、それでも通るようにして、もう一度左右逆にすると、見かけは違うが同じ働きの〈双眼深鉢〉が別にできます」というようにです。

〈神像筒形土器〉と〈双眼深鉢〉があって初めて〈神像筒形土器〉が隈なくみえるのです。

 

では幾何学的には〈双眼深鉢〉に対応する図は何か。

 

幾何学で「双眼」は、最上部文様、3、5、3と記した部分に関係します(あっ。ここ、三段ありますが、下二つ逆ですね。それは単純な張り違えのミスです。変換お願いします。ちなみにここでの議論に影響はないです)。その部分の二段目、三段目の一番左の内接円が、文様側(背の方)からみた「神像」の頭部、一番左の穴に相当します。ここで「神像」の逆に回り「神像」を土器内部の方から眺めます。同時に幾何学の図も逆にします。すると先ほどの左の穴は右の穴になりますが、同じ方向から眺めた〈双眼深鉢〉にはその右の穴の造形が無いです。逆にした幾何学のその部分で右の穴が無い段は一段目です。この一段目は、もとの幾何学でいえば「重要な同じ働き」と付した部分の長い方の線のことです。

 

その線と幾何学で、幾何学が隈なくみえると考えられるということです。

 

だとすると、その線と同じ「重要な同じ働き」をする短い線に対応する土器があるのだろうか。あるいは他の各々の土器の文様(幾何学の各々の線)についても同じことがいえるのでしょうか(『井戸尻』では次のページへと続いていくようです)。幾何学の部分的にはその二つ以外、後三つです。台形に関する部分(左上)、たこ形に関する部分(右上)、台形(等脚台形)に関する部分(右下)の三つです。

 

(以下は驚いたことです)

 

◎「潜在的な意識」について

フッサールが「出発点は必然的に、そのつど直進的に与えられた対象だが、反省は、そこからそのつどの意識の仕方へと遡り、さらに、このうちに地平的に含まれた潜在的な意識の仕方へ、それから対象が可能的な意識の生の統一において同一のものとして意識されることができるような意識の仕方へと遡る。」という、この「このうちに地平的に含まれた潜在的な意識」に、むやみやたらと関わることは例えば臨床的心理学では人権侵害になるおそれがあるといわれている。教育学的には教員といえども少ししか教えられないことだと言われている。これらは余程のことがない限り相手の内面へとずけずけと踏み込んではいけないというようなことです。

この土器でもそのような‘考え’がありえていようです(断言はできない)。土器(幾何学)では、「出発点は必然的に、そのつど直進的に与えられた対象」というその「対象」は、「重要な同じ働き」と付してある長い方のラインの一番左の三つのまとまりに相当します。そして「潜在的な意識」の最も深いところに「たこ形」が位置します。この「たこ形」は土器の文様では右肩の右にある文様に相当します。土器の文様と幾何学の対応を書いていて、その部分の文様だけ、文様の意味が他の部分の文様と統一し難い気がしました(間違いないとして)。例えばひし形は穴の表現ですが、その部分にはひし形がないにもかかわらず、穴の文様がありえている(たこ形がその役割を担うようにして)。あるいは三つのまとまりの表現(鱗的楕円)が、他二つの三つのまとまりの部分では「長方形―正方形-ひし形」というまとまりなのですが、そこでは違うのです(一般四角形三つのまとまりです)。

土器(幾何学)的に「潜在的な意識」(の最奥)は統一できないといえそうです。この統一のできなさを無理にでも統一しようとする人権侵害的な行為になるのでしょう。

相手の内面にむやみやたらと踏み込んではいけないというのは、何かしらの概念―例えば「人権侵害」とか「教員のマナー」―のためが第一義的にあるではなく、土器(幾何学)的にはそういうものですから、痛くもない内面に軽々しく手を入れるというようなことをすると基底的にダメになってしまうということでしょうね。

フッサールの「幾何学」(仮)について6

フッサールの「幾何学」(仮)と「神像筒形土器」の文様との関係の見通しが今度こそ立ったと思うのでメモしておきます。前回までは大筋は良いようですが足りないところがあったのです。ホントよく「間違え」ますね(いつか論文か本にします。今は疲れたので簡単にしておきます。当分、関わりたくない)。

 

まず以下のフッサールの言葉を手がかりとしました。

 

「出発点は必然的に、そのつど直進的に与えられた対象だが、反省は、そこからそのつどの意識の仕方へと遡り、さらに、このうちに地平的に含まれた潜在的な意識の仕方へ、それから対象が可能的な意識の生の統一において同一のものとして意識されることができるような意識の仕方へと遡る。私たちがまだ形式的な普遍性の枠内にとどまり、およそ或る対象を内容的には拘束されず、任意に思われたもの(コギターム)として考え、それをこの普遍性のなかで手引きとみなすならば、同一の対象について可能な意識の仕方の多様性が-形式的な全体類型として-、一連のはっきり区別されたノエシスノエマ的な特殊類型へと分類される。」(フッサールデカルト省察』)

 

この考え方で最近の日本の小学五年生が算数で四角形の関係図をあれこれしました(写真はその際のルールのメモです)。

 

f:id:sasakisatoru:20180913025806j:plain

 

 

そして「とてもとても簡単なガ-ディナーの記号表」みたいな物をつくりました。

 

f:id:sasakisatoru:20180913025826j:plain

 

完成した図がこれです。下に「神像筒形土器」の文様の写真があります。くらべると、そうかもしれないと我ながら思いますね。いかがでしょう。

f:id:sasakisatoru:20180913025854j:plain

 

f:id:sasakisatoru:20180913025927j:plain

フッサールの「幾何学」(仮)について5―ゲーデルの不完全性定理との関係で-

内田「橋の上と四つ辻は世界共通で「異界との通路」なんじゃないかな」(内田樹釈徹宗『現代霊性論』)。フッサールの「幾何学」(仮)からしても確かにそうかもしれないですね。橋が図の真ん中の長い線、四つ辻がその長い線の隅々まで含めた線として、ひし形が「異界との通路」という対応で考える、と。

 

f:id:sasakisatoru:20180831222835j:plain

 

仮に以下の証明がフッサールの「幾何学」(仮)についてなされれば、そのような言説も妥当さを増すかもしれないです。

フッサールは自身の「確定性」の考えがヒルベルトの「完全性の公理」と近い関係にあると言っているが、形式的に定式化されていないために疑義を残していると『現象学辞典』にある。その後、一般的に、ヒルベルトの「完全性の公理」(ヒルベルトプログラム)はゲーデルの「不完全性定理」により諦めざるを得なかったといわれている。しかしそうではないのではないかとゲーデル特集の『現代思想』の対談で数学の研究者、田中一之さんは述べています。例えばここ「むしろヒルベルトのプログラムというのは、非常に逆説的ですが、ゲーデル不完全性定理によって葬られたというか、頓挫した、そこの部分のことをそう呼んでいるというイメージがあります」。

 

同じ雑誌の岡田光弘の論文「フッサールゲーテルから線形理論へ」で岡本さんは、ゲーテルの不完全性の定理を次のように表現しています。

 

「数学世界は公理をいくら追加しても意図して狙っている数学の構造を完全に記述することはできない」(第一不完全性定理

「特に整合的な数学のどんな公理的理論体系もその体系自身の整合性を主張する命題は体系内では証明できない」(第二不完全性定理)。

 

フッサールの「幾何学」(仮)の真ん中の長い線を「意図して狙っている数学の構造」とすれば、確かにフッサールの「幾何学」(仮)でも、それを「完全に記述する」ことはできていないです。「一貫した変形」がなされない非対称の二本の短い線、そのため長い線に接続しないがありえてしまうからです(図の最上部と最下部の線)。ゲーテルは第一不完全性定理について「システムが正常であるときは、それは不完全である」(同書籍、編集後記)とも述べていますが、「完全に記述する」ことができないフッサールの「幾何学」(仮)は、「正常」だろうか?

第二不完全性定理についてはどうだろう。先ほどの対談で田中さんはこうも述べています。「そもそもヒルベルトのプログラムが何だったのかということですが、ゲーデル自身も不完全性定理を証明した後で、ヒルベルトのプログラムが何かということを詳細に検討しているわけですね。その中でゲーデルが発見したというか、強調したのは、相対矛盾性の考え方だと思います。つまり、大きな体系の無矛盾性を直接有限の立場で証明するのではなく、その無矛盾性を小さな、より矛盾がないと思われる堅固な体系に還元するという、そういったことしかやりようがないのではないか、ということです。ゲーデルにとってヒルベルトのプログラムというのは、そういう形で実行されるものです」。ここでいう「大きな体系」をフッサールの「幾何学」(仮)の真ん中の長い線(隅々含む)として、それと関係しながら別にありえている三つの異なる短い線-どれも「一貫した変形」がなされる-を「小さな、より矛盾がないと思われる堅固な体系」とすれば、「大きな体系の無矛盾性を」「証明」できる予想がたちます。

 

(このようにフッサールの「幾何学」(仮)は、ヒルベルトのプログラム(ゲーデル不完全性定理)と親和性があるようです)

 

うまく証明できれば、「フッサールは自身の「確定性」の考えがヒルベルトの「完全性の公理」と近い関係にあると述べているが、形式的に定式化されていないために疑義」がいくらかは、晴れるかもしれないです。

岡田さんはその論文の途中で「視覚化可能なゲーテルの不完全性定理」として次のような図も掲載しています。

 

f:id:sasakisatoru:20180901234715j:plain

 

そうだろなと思いますね。その論文の最後では「様相概念を含まない線形理論の高階構成では実は論理的な強さが増さないことがわかっており、高階概念や虚的対象の導入と線形理論の様相概念との融合こそが言語を豊かにするのに深く関わっていることが明らかになるのである」としています。

フッサールの「幾何学」(仮)について4の補足

フッサールの「幾何学」(仮)について4」で台形、等脚台形、平行四辺形、ひし形、正方形、長方形、たこ形の関係についてのベン図に大きさの関係を導入した。次いで各形が持っている内接円や外接円でつながる線を示すことを試みた。線を示す前の図が図Aです。

f:id:sasakisatoru:20180831221747j:plain

 図A

 そして一般四角形のまとまりを右に進みつなげていった線(一本の長い線)が図Bに示されています。

 

f:id:sasakisatoru:20180831221834j:plain

 図B

図Bとは逆方向に進みつなげていった線が図Cです。

 

f:id:sasakisatoru:20180831221854j:plain

 図C

さて補足するところはここからです。前回は図Cの一般四角形とたこ形についての線(非対称の二本の短い線)しか明らかにしませんでした。しかし見返すとその線の上に台形についての線が引きうることがわかります。その線を前回は明らかにし忘れていました(なぜなのでしょうね。自問)。

台形についても引きうる線を調べまとめた図が図Dです。平行四辺形につて一本、台形について三本、引けそうです。

f:id:sasakisatoru:20180831222111j:plain

 図Ⅾ

 この線についてそれぞれ「線の途中に触れる線」(青い線)と「元の線に加えるようにして少しのばした線の始点と終点をつなげる線」(赤い線)を調べ書き加えた図が、図Eです。

 

f:id:sasakisatoru:20180831222153j:plain

 図E

すると平行四辺形についての一本の線と台形についての一本の線は青い線しか引けませんでした。これが指示することは、その二本の線は形の「一貫した変形」がなされないということです。

さて以上、新たな四本の線が一本の長い線と接続した図が図Fです。

 

f:id:sasakisatoru:20180831222252j:plain

 図F

長い線、短い線とも始点=終点となる形があるのですが、その形から別の線へと接続しています(「一貫した変形」がなされない二本の線は、循環しているため長い線と接続しないですが、一応、一緒に記しました)。左上の短い線が二カ所で、長い線と接続している理由は、短い線にとっての長い線と長い線にとっての短い線ということです。

ここから図を一気に六枚(図G、H、I、J、K、L)載せますが、それぞれの線の始点=終点から出発しどのように移動するのかを示した図です。

 

f:id:sasakisatoru:20180831222332j:plain

 図G

f:id:sasakisatoru:20180831222411j:plain

図H

f:id:sasakisatoru:20180831222457j:plain

図Ⅰ

f:id:sasakisatoru:20180831222537j:plain

図J

f:id:sasakisatoru:20180831222632j:plain

図k

f:id:sasakisatoru:20180831222709j:plain

図L

図Lはまとめたものです。六枚目の図Lからわかることがあります。二つの形(外接円だけある一般四角形と内接円だけある台形)で移動ができていないことが分かります。二つは未通過の形です。

そしてひし形からの両側展開の移動を示した図が図Mです。

 

f:id:sasakisatoru:20180831222805j:plain

 図M

図Mの移動は図Lの移動より三つの短い線を通過しない分は明らかに短くなっています。その短くなった分の線や接続しないようにしてありえていた二本の線もやはり図Mでは接続しないのですが、その二本の線も含めて、もう一度拾うようにして図Мに書き加えた図が図Nです。

 

f:id:sasakisatoru:20180831222835j:plain

 図N

 

 

・・・・・・・・・・

※クレーの「黄金の魚」の構図と?

図Nは、自分にはパウル・クレーの「黄金の魚」と同じような構図に見えて仕方がない(クレーさん、すいません)。大きな魚一匹に、小さいの七匹。大きな魚の鰓やヒレや尻尾など可動域には一般四角形が位置づき、そしてその先にそれらとしての短い線、小さな魚の大きさや色づかいは短い線の長さや性質に対応しているよう。

 

f:id:sasakisatoru:20180831223007j:plain

 

この幾何学を書いていると、何度か「あれ?これはひょっとしてクレー?」と思うことがあるのです。クレーはどちらかといえば抽象画でしょうが、その抽象性を極めたところに、この幾何学が位置づくようです。それで、いつも思うのですが、クレーと構図が似ているからといっても、やっぱりこれは幾何学なのです。幾何学の研究者やその関係者にはこの見かけでいいのかもしれないですが、いくぶんでも絵が描けたらなと思っている自分としては、先ほど例示したまさに「子供の落書き」をちっとでもよくしていきたいと思うのですね。

 

 ※「神像筒形土器」と

・後ろ姿の上部肩の左右の文様について

 結論から行くと。この部分と。

f:id:sasakisatoru:20180831223046j:plain

 

f:id:sasakisatoru:20180831223710j:plain

幾何学のこの部分が対応しそうです。逆も同じで。土器のこの部分と。

f:id:sasakisatoru:20180831223443j:plain

f:id:sasakisatoru:20180831223731j:plain

幾何学のこの部分が対応しそうです。

説明は以下です。

「神像筒形土器」の文様全体の上下左右は、ここでの図Lの上下左右と対応するとする。図Lでは二カ所、未通過の形があった(図では黒の四角の枠で囲っている)。その二カ所は二本の短い線―等脚台形に関する線とたこ形に関するの線-の部分の形ですが、その二本の線が「神像筒形土器」の後ろ姿の上部肩の左右の文様と対応する様です。肩左の文様が図Lの等脚台形に関する線で、肩右がたこ形に関する線のようですね。

肩左の文様の立体的な穴の右側の台形に内接円がある様な文様が、等脚台形に関する線の未通過の形です。肩右の文様の立体的な穴の左側の一般四角形のような文様が、たこ形に関する線の未通過の形です。どちらの文様もその形の下に渦巻きの文様がありますが、それは図では対角線を引いた一般四角形と対角線を引いた台形における「線の途中へ触れる線」の表現であり、その渦巻きに上部的に隣接する文様が肩左の文様では円形、肩右の文様では鱗の楕円の文様ですが、これは図では両方の線とも未通過の形の隣の形の表現です。図における端的な違いは、内接円が必ずあるかどうかです。その違いが図の文様の円形のあるなしと対応しているようです。さらのそれらの文様の隣の文様では、円形のあるなしが逆転していますが、それは図ではたこ形に関する線では今度は、内接円があり、等脚台形に関する線では内接円がないということに対応しているようです(この土器では一般に内接円は二重の円として描かれるようです)。

 

・土器側面、立体的な穴について

f:id:sasakisatoru:20180831223845j:plain

土器側面の立体的な穴の造形は、図では対角線を引いた一般四角形に対応する様です。

f:id:sasakisatoru:20180829013915j:plain

一般四角形は、必ず内接円と外接円を持つ場合―「ねじれ四角形」(図の蝶々のような四辺形)が必ず持つ-と、対角線を引かなければどちらもない場合―いわゆる普通の四辺形-という二つの場合の性質が重なってありえているのですが、そうした二重の性質が土器側面にもかかわらず土器最上部の造形と関わるようにして立体的にありえているようです。

 

・「神像筒形土器」と「双眼深鉢」と

「神像筒形土器」の文様がここでの図Lに、「双眼深鉢」の文様が図Mに対応するようです。どちらの土器も「双眼」であることは同じですが、違いは「双眼深鉢」の双眼の造形の傍らに「神像筒形土器」にはありえている小さな円形の造形がないことです(写真ではなく立体のブツを見てみないとはっきりしたことはいえませんが)。仮にないとすれば、なくて当然かもしれないです。「神像筒形土器」の小さな円は図ではひし形に対応しますが、「双眼深鉢」に対応する図Mはひし形から両側展開しているつまり展開するひし形がないということから始めているからです。「双眼深鉢」の周囲の五つの造形は図Mでは長い直線の周囲に別にある五つの短い線の表現のようです。

フッサールの「幾何学」(仮)について4

○今回のメモは以下の枠組みで本文を書いています

普段通りの生活を一旦やめる。普段通りの生活では気にもとめていなかった事物が確かにあると感じられる(問題の所在)。

Ⅰ【確かにあると感じられる事物】がある。だがなぜその事物なのだろう(他の事物でもよかったではないか)。しかしその事物がある。これは何だろう。答えが出たとする。

Ⅱ、その答えは「これは何だろう」と【問うた自分】からしたら何なのだろう。答えが出たとする。

Ⅲ、ではその答えは【普段通りの生活をしている自分】からしたら何か。答えが出たとする。

Ⅳa、最後、その答えは普段通りの生活において【自分を自分へといたらしめている存在】-〈他者〉-からしたら何であろう。答えが出たとする。

Ⅳb、その答えを〈他者〉にもわかるようにする工夫は、どのような工夫が考えられるだろうか。

 

Ⅰ~Ⅳabは、本文では具体的に次のことです(簡易目次)。

Ⅰ「四角形の関係図」から「四角形の変化・生成図」を誕生させる。

Ⅱ誕生させた自分としての「四角形の変化・生成図」が明らかになる。

Ⅲ自分としての「四角形の変化・生成図」に触れてくる者(第三者的存在)を見つける。

Ⅳabその者に触れられた自分としての「四角形の変化・生成図」が両側(右側がⅣa、左側がⅣb)に展開し終える。

 

 

○本文

「問題の所在」

図1を見てください。

 

f:id:sasakisatoru:20180829013610j:plain

 図1

これは台形、平行四辺形、ひし形、正方形、長方形とそれ以外の四角形の関係を示したベン図です。平成30年頃では小学校5年生の算数で習う内容です。各形の具体的な定義はここでは説明しませんが、ベン図からは、台形の特殊な形が平行四辺形、平行四辺形の特殊な形がひし形、正方形、長方形、ひし形と長方形は別の形ですが、長方形の特殊な形が正方形、ひし形の特殊な形が正方形ということがわかるようになっています。

このベン図は初等幾何学の一部です。幾何学といえば『ユークリッド原論』ですが、そこには、こうした形について次のようにあります。「四辺形のうち、正方形とは等辺でかつ角が直角のもの、矩形とは角が直角で、等辺でないもの、菱形とは等辺で、角が直角でないもの、長斜方形とは対辺と対角が等しいが、等辺ではなく角が直角でないものである。これら以外の四辺形はトラペジオンとよばれるとせよ」(ユークリッドユークリッド原論』)

四辺形と四角形の異同は何かという問題はありますが、ここでは四辺形≒四角形程度に考えて進みます。四辺形で図1を書きなおすと次の図(図2)のようになるでしょうか。

 

f:id:sasakisatoru:20180829013636j:plain

図2 

 ユークリッド以来からでしょうか、私たちは四角形といえば、台形、平行四辺形、ひし形、正方形、長方形について長い間、考えてきました。最近では、それらの形に等脚台形やたこ形が加わりました。台形の特殊な形が等脚台形で、等脚台形の特殊な形が長方形と正方形です。たこ形は台形ではないですが、たこ形の特殊な形がひし形と正方形というように、台形の領域ともつながっています。この形を加えて書き直したベン図が図3です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829013730j:plain

 図3

 しかしユークリッド以来、相変わらず台形等の有名な四角形以外の四角形―「一般四角形」とします-は、考えられていないようです。二千年以上、尻に敷かれ続けているが如くにありえているのです。あるいは実際に一般四角形を書こうとすれば、台形等の有名な四角形を書くことと違い、どうしても思いつきでかく子どもの落書きのような四角形を大人でも書かざるをえません。台形等の有名な四角形との関係で一般四角形を書くことはできるだろうか。

 

Ⅰ、「四角形の関係図」から「四角形の変化・生成図」を誕生させる

図4は図3のベン図に、ある大きさの形を幾つか書き込んだものです。

 

f:id:sasakisatoru:20180829013818j:plain

 図4

 有名な四角形は、「いつものやつだね」とわかりやすいのですが、一般四角形は、普通はあまり見たことのない形があることがわかります。蝶々のような形の四角形や鏃のような四角形もあります。蝶々のような四角形は「ねじれ四角形」、鏃のような四角形は「凹四角形」と呼ばれることもあるようです。「ねじれ四角形」は、角が四つあるという意味での「四角形」ではないですね(ユークリッドにならい「四辺形」と呼んだ方がよいですが、ここでは四角形とします)。

図5は、大きさのみならず、内接円や外接円が必ずある形には、それを書き込んだベン図です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829013915j:plain

 図5

 一般四角形の一部(「ねじれ四角形」)には内接円と外接円―三角形は必ず内接円と外接円を持ちます-、たこ形とひし形には内接円が、正方形には内接円と外接円が、等脚台形には外接円が必ずあることが分かります(ちなみに内接円と外接円、両方もつ四角形は「双心四角形」と呼ばれています)。図5から形を消すと円形だけが残ります。図6です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829013945j:plain

 図6

 これらの円形は四角形の形が無くてもある意味、関係してありえているといえます。

さて、ここでもう一度、形を書き、さらにそれらの形における内接円や外接円の大きさを任意のある大きさに定めて、書いたベン図が図7です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014025j:plain

 図7

 一般四角形には、内接円も外接円も無い形もありますが、その形は対角線を一本引くことで、三角形を二つあらしめ、その三角形において内接円や外接円を考えています。では、なぜ平行四辺形や台形でも内接円や外接円の無い形に、対角線を引かないのかといえば-後では引くのですが-、一般四角形には、「ねじれ四角形」(蝶々のような四角形。必ず内接円と外接円を持つ)もあったからですね(一般四角形は扱いがちょっと複雑なのです。二重の性質があるという、か)。

そして、この各形における同じある大きさの内接円や外接円を通路とするようにして、各形を一本の線でつなぐことを試みます。その際、内接円と外接円の両方がある形は、前の形から例えば、内接円でつながってきたら、その形の内接円へとつながり、その形で外接円へと翻り、その外接円で次の形の外接円につながるというルールに従い移動することにします。そうして一本の線を書こうとした図が、図8です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014101j:plain

 図8

 平行四辺形と台形の内接円も外接円も無い形のところで途切れています。この形に対角線を一本引き、三角形を二つあらしめ内接円と外接円を書き込んだ図が、図9です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014208j:plain

 図9

 次いでつなげた図が、図10です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014243j:plain

 図10

 ここにてベン図に大きさの関係が導入されました。

ここで先ほどと同様に、調べなくても必ず内接円や外接円がある形の形を無くして円形の形だけをみます。内接円や外接円があるかどうか調べなくてはわからない形は、たとえ他方に必ず内接円や外接円がひとつあっても消します。そうして円形の関係がありえている図が図11です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014317j:plain

 図11

 話を戻します。ベン図に内接円、外接円、対角線の力を借り大きさの関係が導入され、各形が一本の線でつながりました。ここで一般四角形のまとまりの右側の形を起点として、右へ進み、対角線の引いてある形の二番目の三角形から来た線へと戻る線と、同じくその三角形から対角線を引いた台形へのつながりの線を明らかにしていきます。図12です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014402j:plain

 図12

 これは、ある大きさを換える手続きを導入するということです。ベン図に大きさの関係を導入して、大きさを換える手続きを導入することで、台形等の有名四角形との関係で一般四角形が書けるかもしれないということです。

図12で来た線へと戻る線を青線、他方の線を赤線で書いています。この二つの線は性質が違います。来た線へと戻る線(青線)は「内部に関わる」ような、そうでない方の線(赤線)は、「元の線に別の線を足して伸ばした線の始点と終点をつなぐ」ような性質があります。(これはマルローのいう「一貫した変形」における「一貫性、歪曲・逸脱」という働きと同じようです。「一貫性」が最初の一本の線で、「歪曲」がその線の「内部に関わる」という意味で青線、「逸脱」が「元の線に別の線を足して伸ばした線の始点と終点をつなぐ」という意味で赤線に相当します)。

図12の一本の線と青線あるいは赤線の交わる部分では形の大きさの換えが起きます。それは、対角線を引いた四角形の二番目の三角形の部分では、例えば前の形と外接円でつながったら内接円に翻り、その内接円の大きさで二番目の三角形を書くのですが、その内接円を書く位置は一番目の三角形との関係で移動することができ、その移動によりつながった外接円の大きさとは別の大きさの外接円を書け、その外接円で例えば来た線へ戻ったその形の大きさを換えるというようになされます。そこでは三日月のようなイメージが蠢いています。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014437j:plain

 

ここにて「四角形の変化・生成図」の主要部分が誕生しました。残りの部分は何か。それは、話はかなり戻りますが一本の直線を書く際の別方向についての線のことです。図13です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014515j:plain

 図13

 一般四角形のまとまりの左側(内接円だけある形)から出て、対角線を引いた四角形を通過し、たこ形の内接円だけあるたこ形に接続する線です。この線は、逆もありえています。つまりたこ形のまとまりの右側(内接円だけある形)からでて同じ線を通るという線です。この二つの線は見かけは同じ線ですが、起点が違うことに注意です。

この線から形を無くすと図14の円形の関係がありえています。

 

 

f:id:sasakisatoru:20180829014556j:plain

 そして一本の線のときと同じく、赤線と青線を明らかにします。図15(たこ形を起点とした場合)、図16(一般四角形を起点とした場合)。

  

f:id:sasakisatoru:20180829014635j:plain

 図15

f:id:sasakisatoru:20180829014707j:plain

図16

最後に、一本の長い直線と、非対称の二本の短い直線の関係を明らかにします(ここは複雑です)。目指すことをまず確認しておくと、三本の直線にありえている形、全部を通る一本の線を書くことです。結論の線から示せば、図17最上部の線です。

 

f:id:sasakisatoru:20180829014917j:plain

 図17

つながりは三つの場合があります。

A、一本の長い直線の一般四角形のまとまりの左側の形を起点として、短い線のうち一般四角形のまとまりを起点とした線の、そのまとまりの左側の形とつながる。

B、たこ形のまとまりの右の形を起点とした短い直線が一本の長い直線のたこ形とつながる。

Ⅽ、一般四角形のまとまりの右側の形を起点とした短い直線が一本の長い直線の一般四角形のまとまりの右側の形とつながる。

なぜそうなるか。細かい説明はここでは行いませんが、図的に示せば、図17の上から二番目からにありえています。

緑の線はAに、青の線はBに、赤の線はⅭに関する移動です。ⓈがスタートでⒼがゴールという移動です。それぞれだけでは、通らない部分がありえてしまいますが、三つを一つとするとすべて通ることができます。

色分けした理由は(後から気がついたのですが)この線の引き方も先ほどのマルローのいう「一貫した変形」の「一貫性、歪曲・逸脱」と同じ働きをしているからです。ここでは「一貫性」(基本となる長い線を書く)が緑の線、「歪曲」(緑の線の途中に触れる)が青の線、「逸脱」(書けた緑の線の始点と中点をつなげる)が赤の線という対応です。

この緑、青、赤、この三つの線を一つで書くと、図18最上部の図になります。ここで一応、「四角形の変化・生成図」が完成しました。

 

f:id:sasakisatoru:20180829015004j:plain

 図18

 一応といったのは、ここから簡易目次のⅡが始まるからです。どういうことか。(仮にミスが無いとして)完成した「四角形の変化・生成図」を眺めると、二つ気にかかることがあります。

ひとつは、全ての形を通るとしておきながら、たこ形のまとまりを起点とする短い線の一般四角形のまとまりの左側の形をひとつ通っていないことです(通れないことです)。他の二つの線ではその形に相当する箇所は通っています。そのひとつの形は通ってはいないですが、全ての形を通る線を引くことで何をしようとしていたかといえば、四角形の関係図(ベン図)に大きさの関係と大きさを換える手続きを導入することで、台形等の有名四角形との関係で一般四角形を書こうとすることでしたが、それが達成されています。そのためその一つの形は通っていないが、それはそれでいいというところがある(その形がなければそうはありえないのです)。

もうひとつ。ひし形についてです。この形は、他のどの形ももちろん先ほどの通っていない(通れない)一つの形ですら、換えが可能となっているのに、ひし形だけは換えがなされていないことです。

ひし形は、他の形との関係で形の大きさが換わるとしても、ひし形から換わるということがない。ひし形から換えようとするのであれば、ここまで産まれたての自分が「四角形の関係図」と自他の区別なくありえていたその関係から、自分と「四角形の関係図」(今は「四角形の変化・生成図」を区別するようにして自分を誕生させ、対象にした「四角形の変化・生成図」のひし形に触れるようにして、ひし形からその大きさを換えることしかできないでしょう(〈ひと〉の誕生の瞬間?)。

そうだとします。そうして自分がひし形に触れる。すると図的に二方向に展開することが分かります。図18の下二つです。図19の図はその二方向展開を一つに図に書いたものです。

 

f:id:sasakisatoru:20180829015100j:plain

 図19

 どちらの展開においても、一本の長い線の途中に触れるたこ形のまとまりを起点とする短い線を通過していないことが分かります。

そして簡易目次Ⅱはこのひし形を巡る経験から始まります。

 

Ⅱ、誕生させた自分としての四角形の変化・生成図が明らかになる

ここまで自分も何もなくただただ「四角形の関係図」に関わってきました。そしてそれを「四角形の変化・生成図」へといたらしめ、それに触れた。触れるさい、「四角形の変化・生成図」と自分とを分離するようにして「四角形の変化・生成図」のひし形に触れた。分離したさい、「四角形の関係図」に関わりそれを「四角形の変化・生成図」へといたらしめたことが、同時に自分の過去になった。つまり対象にした「四角形の変化・生成図」に触れることは、自分の過去に触れるということでもあるということになった。

しかし自分の過去に触れる(=「四角形の変化・生成図」に触れられた)からといってすぐには換わらない。というのも、確かに自分の過去には「四角形の変化・生成図」がありえているが、その図は形を無くしてもありえている円形の関係があった(ある)からです。図20の最上部①の図です。

f:id:sasakisatoru:20180829015235j:plain

図20

この図は確かにありえているのですが、とかく気がつき難いかもしれません。この段階があることがわかっていないと、触れて触れられたらすぐに反応してしまっても仕方がないです。すぐに反応することは、いきなり「四角形の変化・生成図」の両側展開の図を展開してしまうということで、それまでが一切なくなります。特に第三者的な存在(対象にした「四角形の変化・生成図」に触れたかつての自分的な存在)に触れられるという経験がすっぽりとなくなります。〔第三者的な存在=(対象とした「四角形の変化・生成図」に触れることによって)触れてきた「四角形の変化・生成図」〕としてしまい‘チガイ’がなくなってしまうのです。

 

Ⅲ、自分としての四角形の変化・生成図に触れてくる者(第三者的存在)を見つける

対象にした「四角形の変化・生成図」のひし形に自分として触れたら、その触れは自分の過去としてありえている「四角形の変化・生成図」に触れてきますが、まずは図20の①からです。

 そして図21、図22と続きその⑬で「四角形の変化・生成図」が再誕生します(①`は⑬に潜在的にありえています)。

 

f:id:sasakisatoru:20180829015326j:plain

 図21

 

f:id:sasakisatoru:20180829015403j:plain

図22

順に増えて、あっちいったりこっちいたりしながら、もう一度「四角形の変化・生成図」が誕生します。最初にした通りと同じようにはなされていきません。しかし同じに再現されます(試行錯誤的だった最初よりは機械的にありえていきます)。

図22の⑬で再誕生した「四角形の変化・生成図」のひし形に触れてくる第三者的な存在は、対象とした「四角形の変化・生成図」に触れた自分でも、そうして触れたことによって触れてきた対象としての「四角形の変化・生成図」でもないです。それが見つかることがあります。見つけなければならないです(違いをなくさないためには)。

 

Ⅳab、その者に触れられた自分としての四角形の変化・生成図が両側(右側がⅣa、左側がⅣb)に展開し終える

三者的な存在が、自分(の過去)としてありえている「四角形の変化・生成図」のひし形に触れると、「四角形の変化・生成図」は両側展開します。図22の⑭です(右側がⅣaで左側がⅣb)。

 

 

以上で、本文は終わりです。

 

・・・・・・・

今回、あえてフッサールやメルロポンティなどの用語を用いませんでした。その方々の用語に引きずられることを嫌がったからです。高橋哲哉さんはその著『デリダ』の「主要著作ダイジェスト」の『〈幾何学の起源〉序説』の項で「フッサール晩年の遺稿「幾何学の起源」の精緻を極めた読解から、あらゆる「意味」の伝統の可能性の条件であり、同時に不可能性の条件でもあるエクリチュールの働きをとりだしたデビュー作。後期フッサールに「生きられた世界」への帰還を見るメルロ=ポンティ流の解釈に対して、フッサール現象学の超越論的問いかけを突きつめることが大事だという線を打ち出している」とその著について解説を書いています。じぶんの書いた幾何学からすると、後期フッサールはメルロポンティがいうように「生きられた世界」への帰還が見られると私も思いますね。が、それに「対して」というよりも「生きられた世界」への帰還において(じぶんのいう)「「第三者的な存在」とは何か」という点で、デリダのいうように「超越論的問いかけ」が重要だと思いますね。「差異」は大切です。しかし「突きつめる」とか『〈幾何学の起源〉序説』のデリダの言葉でいえば、「起源へと前進」とか「奇妙な行進」というように(あるいはドゥールウズの『差異と反復』も?)、根本的な差異へと向かっていけば、それでいいとは思えないですね(デリダさんドゥールウズさん、違っていたらごめんね)。そうではなく、差異のあと、つまり本文でいうⅣabではないでしょうか。そこはメルロポンティの言葉でいえば「わたしは自分の風景の中で、差異の作り出す勾配に導かれて動く。そしてわたしはここにとどまろうとするなら、あるいはかしこに赴こうと思うなら、この差異を維持し、あるいはこれを縮める必要がある」(メルロポンティ『問い掛けと直観』)がなされています。メルロポンティの『フッサール幾何学の起源』講義』の最後には、「〈大地〉と精神とは、相互内属Ⅰneinanderしており、錯綜しているのである」とありますが、そのようです。

じぶんの書いたこの幾何学は、数学的な妥当さがいつも心配ですが-今回も短い列についての書き直しがありましたが-どう考えても、フッサールやメルロポンティの幾何学のように思いますね。

またこの幾何学は、ひとつだけ通ることができない形がある図の場合つまり三つの線が一つの線としてありえることで成り立った場合の図のありようは「神像筒形土器」の文様と、同じ図でもひし形から両側展開した場合の図は「双眼深鉢」の文様と、ともてもとても近いようです。これですね。冊子『井戸尻』から。

f:id:sasakisatoru:20180829015513j:plain