「問題の所在」なのか、「問題の設定」なのか

f:id:sasakisatoru:20170618123402j:plain

原子力発電が問題を起こすと原子力発電自体に罪はないという原子力発電擁護の意見が出てくる。宗教が問題を起こすと宗教自体には罪はないという宗教用語意見が出てくる。芸術作品が問題を起こすと芸術作品自体には問題はないという芸術作品擁護の意見が出てくる。

擁護意見の通りだと私も思います。それ自体はそれ自体に過ぎません。それらを無かったことにするのは間違いです。だが「しかし…」ところもありえているとも自分は思います。問題を起こした原子力発電によって被害を受けたとか、問題を起こした宗教によって命を奪われたとか、問題を起こした芸術作品によって政治攻撃を受けたとかありますからね。他時では、それらの恩恵を享受してもいますよね。その時、それら自体は意識にすらのぼっていない。

同様のことは男女を巡っても起きますね。男女は平等だといえば平等だと私も思います。しかし現実的には非対称です。例えば添付した記事には親によるその子のお見合いの条件です。息子は有職者でなければならず娘はそう条件づけられていない。これは男女平等でないといえば男女平等でない。が、現行社会で生きようとすればわからないでもない。

現行社会で生きようとしなければ、お見合い成立の可能性はそうでない場合よりも高まるかもしれない。が、その時の社会とは現行社会の中の特殊な社会としてありえる。それもここから双方、手さぐり的につくりあげていかいないといけない。つくりあげてもその社会は現行社会と無関係でありえはしない。これは現行社会を若干でも変化させてしまっているということです。しかし例えば「現行社会を若干でも変化させることを快く思わない現行社会の住人」がいるかもしれない。だが前もってなにがいるかあるいはいないかは決してわからない。(とりあえず)つくりあげたとき、わかることはある。わかれば、それがどうしてくるかのすぐに予感できる。ただこの予感は、純粋な再生産の予感とは違う。予感はそもそも再生産するからこそ予感なのですが、ここでの予感は再生産の予感でありながら再生産しない予感ですね。なぜか。初めてだから。だからあまり口に出していうものではないです。しかしその予感ができれば、予感した「どうしてくる」にたいして手だてをうつことができます。ただしその手だては〈別〉にも接続しうるというようにしても、うたねばならないですね。この予感は必ず外れますから。この予感は再生産の予感ですが、再生産しない予感ですから。

ここでは「与えられた生を生きていたら、にっちもさっちもいかない状況に陥った。生きられなくなった。解決のためにあることをなした。そうして初めてわかることがあった。そのわかりからの予感されることもあった。そこでその予感されたことに配慮した。それもその配慮が〈別〉にも接続しうるという仕方で配慮して、再度、生きた」というようなを辿っています。

しかし前もって「にっちもさっちもいかない状況に陥らない」ことが一番ですよね。親によるその子のお見合いの事例ならば、条件の通り息子は有職者でなければならず娘はそう条件づけられていないままが一番いい。しかしどんなに常日頃から(例えば)コツコツと露払いの如くしていても「にっちもさっちもいかない状況」に嵌る時は嵌ってしまう。そればかりは仕方がない(問題は所在しているものですという態度)。他方、こうしたことが言語化されると「あえてにっちもさっちもいかない状況」に嵌るということもできます。「あえて」常日頃からコツコツと露払いの如くをしない等して。(問題は設定するものですという態度)。ここが別れ道ですね。どちらから入っても目指す先は〈別〉ですが。

それぞれの素材で同じこと伝えようとしている

 

わたしとしてはヘーゲルのいう「意識がなす経験」の「道」をこうとらえたい。(←鷲田清一の記述の真似じゃない。でも見かけは同じですね)。

・・・

いつもと同じに生きている。そう生きていることは生きている自分にはわからない。気がついた時には生きられなくなっている。あると感じられるものがあるだけだった。再度、生きようの望み、そのものが繰り出す問題を理解し、理解している自分に気がつき、不正なしで他に協力してもらい、最果ての地で、少し動き、真の自分らしさを明らかにし、その自分に居着くことなく、来た道と別ルートでかつて生きていた地に戻り、そこで自分にはわかるが自分以外の人にはわからない自分の抱えている事柄を「他者」にもわかるようにする。自分を空っぽにする。「他者」からの応答がやってくる。少なくてもそれを受け取れば再度、生きている。その後は別です。

この道が行き来するように生きているとわかってくる。

・・・

自分は読み慣れているという理由でそれを‘「意識がなす経験」の「道」’としている。「意識がなす経験」の「道」自体は語りえない。「意識がなす経験」の「道」ならば「意識がなす経験」の「道」としてしなければ語りえない。だからそれは折々に「土器の造形」、「法話」、「芸道」、「哲学」等などいたるところに現れる。(以下参照)。

______________________________________________________________________

「筒形の土器に抱きつくような格好で造形された神像ないし人像。頭部は中空で、口縁上に戴かれる。その髪はうなじの左右に太く束ね分ける。肩から背は逆三角形。顔面はふつう、双眼もしくは双孔の眼だけ。これが当時の人々が共通に思い描いていた或る神の風貌である。こんにち土器本体の全形をとどめるもの、また器形をうかがい得るもの一〇例ほど知られる。藤内の作品は下半身の表現がないものの、これらの頂点に立つ」(井戸尻)

 

「三世裁断の名号に帰入しぬれば、無始無終の往生なり。臨終平生と分別するも、妄分の機に付いていうなり。南無阿弥陀仏には、臨終なし、平生なし。三世恒常の法なり。出息入息をまたざるゆえに、当体の一念を臨終と定る也。然らば念々臨終なり、念々往生なり」(一遍)

 

「寿輪・堅輪・住輪・像輪・破輪・空輪・一露」(金春禅竹)

 

「身体は表象に対して、他のものとならぶひとつのものとしてあらわれる。とはいえ身体とはじっさいには、ある存在が空間的なものではないにもかかわらず、幾何学的ないし物理学的な延長とは無縁ではないかたちで現実に分離されて存在する、そのしかた(・・・)なのである。」(レヴィナス)

 

現実界象徴界想像界」(ラカン)

 

「多次元的・相互補完的・相互浸透的」(ルーマン)

 

「生成変化」(ドゥルーズ)

 

「学習という実践は、対象との関係と意味を構成する認知的・文化的実践であると同時に、教室の他者との対人関係を構成する社会的・政治的実践であり、自分自身の自己内関係を構成する倫理的・実存的実践でもある。」(佐藤学)

 

「引用-解釈-自分の論理への取り込み-具体化・例示-引用…二」(山口恒夫)

 

「観光客の哲学」(東浩紀)

 

「すでに触れたように、最も根本的には、一般にわれわれが「無内包の現実」自体を内包化する(事象内容の内部に組み込む)ことに成功したからである。」(永井均)

 

ヘーゲルのいう「意識がなす経験」の「道」については、わたしとしては、未決のものを否応もなく遺しながら、そしていくつかの局面でリヴァーシブルな反転をくり返しつつ、ひたすら認識の初期設定を、あるいは生のフォーマットを換えてゆくプロセスとしてとらえなおしたい。そのプロセスの、足どりもおぼつかない歩行の試みとして、以下の議論はある」(鷲田清一)

______________________________________________________________________

 

ここに登場した者たちは「それぞれの素材で同じことを伝えようとしている」。しかしその者だけに「意識がなす経験」の「道」があるのではない。例えば。「今日は遠足に行って楽しかったです」、と記す小学生の日記にすら「意識がなす経験」の「道」は現れている。その者からすれば大雑把であるかもしれないが確かにある。

 

「意識がなす経験」の「道」といった存在があることを知らないと、おそらく例えば日記に「死ね」と記すものは死ぬまで「死ね」と記し続けるのではないか(あえてそうしているという場合は除く)。「意識がなす経験」の「道」といった存在があることを知ると「人(他者)」とのコミュニケーションが楽しくなる。「コミュニケーション」といっても馴れ合いを確認するためのコミュニケーションに限らない。限らないが、馴れ合いを確認するためのコミュニケーションもまたより楽しくなる。これは個別化する死に向かいつつある身体が間身体性を通して生まれたばかりの身体に戻るというようなものです(生まれたばかりの身体に戻るとは若返るとは違う)。

 

ところがこの「意識がなす経験」の「道」をそのように公示すると「人様に押しつけるな」とか「先回りして妨害してやろう」とか「道を切ってやろう」、「われを忘れさせてあげよう」という生き物(=術語でいう「邪悪な三叉口」)が出てくる。

「わたし」でも「自分」でも「固有名」でも「カテゴリー」で何でもいいと思うのですが、そのひとまとまりにおいて道があると自覚し、その道を歩み切ろうとすることを妨害するものは無視がいいですね。例えば「道とかいうな」という者のいうことを鵜呑みにしてしまったら、一生、日記に「死ね」と書き続けるようなことになります。(←術語でいう「師の三叉口」のアドバイス)

 

生きるにあたり「意識がなす経験」の「道」というものがあるということは知った方がいい。だがそれは「~として」しか現れない。しかしその「~」から「意識がなす経験」の「道」について知ろうとすると必ず邪悪な三叉口に遭遇します。だがこれは神秘的なことを述べているわけではない。言葉がありうる以前には、何もないがある-わからないがある-から、言葉から知ろうとすると知りそこなうということです。その意味では、ことある毎に手のひらを裏返す人からも知りえません。「ことある毎に手のひらを裏返す」ことについては裏返さない人からは知りえます。「ことある毎に手のひらを裏返す人」とはことある毎にそのことすらも裏返す人ということですね。傍からすると「何かあるようだけど何があるのかわからない。自己忘却している?」というような人のことです(映画『沈黙』の「チョウジロウ」のような人です)。

 

裏も表もない存在から「意識がなす経験」の「道」は知りえる。その存在は師の三叉口(賽ノ神)である。なぜ賽ノ神がいるかということがわかるか。経験するうちにわかってきます(これは佐藤学もいっています。不思議な話を真剣にする子供はもっとわかっているかもしれない)。

 

自分も「意識がなす経験」の「道」について書いてみた。生きられなさが増しているからだろう。

タイトルは「三位一体紐論-「南無阿弥陀仏」『「仏」』『無阿弥陀』『「南」』と「環境」を往来する「自分」-」とした。

書いた後、何かと何かが連鎖し紐ができるような事態がいくつか浮かび上がってきた。その最短の紐は「自分」、「自分」の経験している「環境の中の何か」、「環境」であったが、その三つの紐が≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」=)「環境」≫というように一つの紐としてあるところが始まりだった。

各段に付してある「南」「無」などは「南無阿弥陀仏」からの小見出しであるが、宗教については書いていない。書いた後、書いた内容のまとまりがそのそれぞれの漢字の意味と対応していることに気がついたのでそう付した。結果、「南無阿弥陀仏」という漢字列になった。

書いた後、自分にはその内容が「四角形の変化生成図」ととても関わりがあると思った。この意味で、「幾何学的ないし物理学的な延長」とレヴィナスがいう「幾何学的ないし物理学的」とはこの「四角形の変化生成図」のようにも思える(レヴィナスはそういう時、どのような「幾何学」「物理学」を思い描いていたのだろう)

 

_______________________________________

三位一体紐論

南無阿弥陀仏」『「仏」』『無阿弥陀』『「南」』と「環境」を往来する「自分」

 

1、「南」

「自分」がいて「環境」がある。「環境」には「自分」を生かしてくれている「何か」(以下「環境の中の何か」)がありえている。しかし絶え間なくそう意識しているわけではない。意識していない時、「環境の中の何か」を経験するように生きている。「環境の中の何か」を経験して生きている時、≪「自分」の経験している「環境の中の何か」≫だけがあるというように生きている。

ここまでを≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」=)「環境」≫と図式化し、それを「ライン1」と呼ぶことにします。これは「自分」と「環境」といった二元論-例えば二項対立に発展し、脱構築をあらしめた二元論-ではなくいうなれば「三位一体の紐論」です。

 

2、「無」

「自分」の経験している「環境の中の何か」を〈不在としてしか現前しない他者〉が通りすぎてゆくことがあります。すると生きられなくなる。

 

3、「阿」

生きられなくなっている時、≪「自分」の経験している「環境のなかの何か」≫に「ずれ」を感じてします。この時、「ずれ」と「ずれを感じてしまっている自分」以外何もないです。

 

4、「弥」

「ずれ」を感じてしまっている時、「ずれを感じてしまっている自分」を忘れていると、「ずれ」に成ってしまうようにして終わるということがあります。そうならないために「ずれを感じてしまっている自分」から「もうひとりの自分」をあらしめ感じてしまっているという時間を断絶させるのです。そのように再度、生きようと望むのです。ついで「もうひとりの自分」が「ずれ」に触れなおし吟味する。すると「ずれ」には〈不在としてしか現前しない他者〉が残した「跡」があることがわかる。「ずれ」は「ずれ・跡」としてありえていることがわかる。その「跡」から教わるようにして、その「跡」は「存在A」が残した「跡」だとわかる。「存在A」が「ずれ」をあらしめたのだなとわかる。こうして断絶していた時間がつながる。

しかしその「跡」は必ずしも「存在A」が残した「跡」とは限らない。だから「存在A」

が生きられなくさせた犯人とまでは言い切れない。だが犯人ではないとも言い切れない。いうなれば「存在Aは万が一に犯人だとしても冤罪可能性は絶対に否定できない犯人」なのです。

他方、「存在A」がいる理由は、「ずれを感じてしまっている自分」が「ずれ」に成って終わることを防いでいることは間違いがないです。

こうした仕組みで問題なのです。三叉塞がりなのです。

しかし「こうした仕組みで問題なのです。三叉塞がりなのですといっている自分」がそこにはいるというように、その自分から離脱し対象化できれば塞がっていない。離脱した自分は三叉塞がりの外部に立脚し三叉塞がりを丸ごととらえている。三叉塞がりに囚われていない。それが何かはわからないけど仕組みはわかっている。外部に気がついたらその場所から三叉塞がりの問題解決の手立て「存在Z」を発見しうる。三叉塞がりがどのように問題なのかその仕組を呼び水とするようにして「存在Z」は必ず見つかります。

 

5、「陀」

「存在Z」を発見してしまったら、「存在Z」によって問題を解決します。もう一度、三叉塞がりへ戻るということです。しかし「存在Z」は、問題の解決とは無関係です。だがどうしてもその力を借りたい。ここで「存在Zを動かす工夫」を「存在Z」へ施すのです。そうして問題を解決する。

 

6、「仏」

問題を解決すれば「南」の段で生きていた≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」=)「環境」≫(ライン1⦆の様には生きています。

しかしここではその≪「自分」の経験している「環境の中の何か」≫は≪「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫≫という形態でありえています。だから「仏」の段では≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫=)「環境」≫(ライン2)で生きています。

ライン2の≪ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫≫の部分が「南」の段との〔違い〕として「仏」の段にあります。「南」の段にいた時と同じに生きようとしたら、この〔違い〕が、「南」の段にいた時と同じ何かからして何であるとわからなければなりません。この「南」の段にいた時と同じ何かとは身元保証人のようなものです。具体的には「環境の中の別の何か」のことです。「環境」(とその中の別の何か)はここまで変化していません。

まず①「環境の中の別の何か」に移動し、②「環境の中の別の何か」からして〔違い〕が「何」であるとする。しかし〔違い〕=「何」だとしたらそれは間違い。それは「環境の中の別の何か」からしてということでということですから。しかしそうじゃないとひっくり返してしまっては相変わらず〔違い〕があるだけのままになる。それでは「南」の段にいた時と同じに生きられていない。よって③〔違い〕が「環境の中の別の何か」からして「何」であるとわかったら、その「何」はその「何」からして何であるのかというようにして「〔違い〕の違い」を定める。「〔違い〕の違い」は〔違い〕とは異なる。〔違い〕が「南」の段の生とのちがいであるのに対して、「〔違い〕の違い」は「南」の段としての「仏」の段におけるちがいとしてあるということです。ここにて〔違い〕は「南」の段としての「仏」の段において「〔違い〕の違い」として治まりました。こうして「仏」の段で「南」の段にいた時と同じに生きられています。

ラインに焦点を当てて同じことをいえば、①で≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」=)「環境」≫(ライン3)が誕生し、②で≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何=)「環境」≫(ライン4)が誕生し、③で≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・違いの違い=)「環境」≫(ライン5)が誕生しています。

しかしこれは「仏」の段で「南」の段にいた時と同じに生きているだけで、「南」の段で生きているわけではない。「南」の段で生きていたのです。そこへと戻らなければ本来的に生きているとはいえない。

 

Ⅵ、『「仏」』の段

「仏」の段で「〔違い〕の違い」として「南」の段にいた時と同じに生きています。そう生きている「自分」から「別のもうひとりの自分」をあらしめます。その「別のもうひとりの自分」が、「〔違い〕の違い」を起点として、ここまで生きて知りえた≪「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在B・存在Bを動かす工夫≫という技術を用います。この、「自分」の経験している「環境の中の何か」に位置するものが「〔違い〕の違い」です。≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」=)環境≫(ライン6)を立ち上げるのです。

 

Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ『無阿弥陀』の段

ライン6を実行する。すると「南」の段に到達します。しかしまだ「南」の段で生きていない。この時≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫=)「環境」≫(ライン7)としてただありえている。ここでの「跡」から「存在Y」が定まるには、「存在A」の時の様に「跡」に教わるというよりも、確かに「跡」を手がかりにするのですが、「南」の段で生きることに向けてそうなれるように能動的に定めます。「存在B」はこの流れに沿えば見つかります。

 

Ⅰ、『「南」』の段

ライン7の部分の≪ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫≫が以前の「南」の段の生とこの「南」段の違いとしてあり、その違いがこの「南」の段にとって何かわからないと生きていない。わかるための技術も知りえています。「仏」の段と同じです。ここでは①「環境の中のもう一つ別の何か」に移動し、②「環境の中のもう一つの別の何か」からして≪ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫≫が「何2」であるとわかるようにし、その「何2」はその「何2」からして何であるのかというようにして「〔違い2〕の違い2」を明らかにする。

この「〔違い2〕の違い2」を「南」の段にとってわかるようにする。「わかる」とは三叉塞がりの外部に立つようにして三叉塞がりを丸ごととらえるようにその仕組みがわかることでした。それにはここで「第三者的自分」を立ち上げ、つまり「〔違い2〕の違い2」から離脱し、触れなおし≪ずれ・跡・存在光・外部≫まで進めます。(「存在光」とした理由は、「〔違い2〕の違い2」を場所とした「ずれ」が何であるとわかるとは、その仕組みを隈なくみせるという意味でそうした。外部は光を光としてみせる場所。陰)。

すると「環境」からの応答があります。それを受け取って終わりです。

ラインに焦点をあてて同じことを述べれば、ライン8は①に関して≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫・「環境の中のもう一つの別の何か」=)「環境」≫でライン9は②に関して≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫・「環境の中のもう一つの別の何か」・何2=)「環境」≫、ライン10は③に関して≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫・「環境の中のもう一つの別の何か」・何2・〔違い2〕の違い2=)「環境」≫です。

ライン11が≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫・「環境の中のもう一つの別の何か」・何2・〔違い2〕の違い2・「第三者的自分」の経験している〔違い2〕の違い2=)「環境」≫、ライン12が≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫・「環境の中のもう一つの別の何か」・何2・〔違い2〕の違い2・「第三者的自分」の経験している〔違い2〕の違い2・ずれ・跡・存在光・外部=)「環境」≫ということです。

 

_______________________________________

※補足

「解字」(『漢語林』を参照)

南…春になってしのび入り、草木の発芽を促す南風の意味から、みなみの意味をあらわす。

無…舞(まい)の意味を表していたが、借りて、ないの意味を表す。

阿…「阝」(こざとへん)+可(かあ)というつくり。「阝」(こざとへん)は丘や丘状に盛り土したものの意味。可(かあ)は丘の曲がったところの意味。丘の曲がったところ、くまの意味を表す。

弥…弓+日+爾というつくり。弓はゆみの象形。日は太陽の象形。爾は、はなやかに咲きほこる花の象形。時間的にも、空間的にも、のびやかに満ちわたるの意味を表す。

陀…阝+它というつくり。「阝」は丘や丘状に盛り土したものの意。「它」は、身をくねらせ尾をたれるへびの形。甲骨文では、特に上部に足を付して、人の足にかみつくへび、マムシの意味を表し、転じてわざわいの意味をも表す。

仏…それらしくありながら、はっきり見えないさまを表す擬態語として用いられる。イ+弗というつくり。「イ」(にんべん)はひとを横から見ている。「弗」(フツ)はからまるひもを二本の棒でふりはらうさまから、はらう・のぞきさせるの意味をあらわす。

 

※各段落について                                                                    

「南」の段

ここがいわゆる「現実」と呼ばれている場所です。現代的には例えば、産まれて、育って、学校行って、就職して…などと生きています。しかし「自分」と「環境」があって、「自分」が「環境」に関わるようには生きていない。すでに「自分」の経験している「環境の中の何か」とし生きている。「環境の中の何か」と「自分」を分離できれば、「無」の段に進みえる。しかし分離できにくい。「環境の中の何か」にはとかく翻弄されやすい。陰ながら生きている身体の原初的状態がわからなくなっているのです。分離へのコツはあります。例えば以下のように。

_______

大学教授が学生に「まずはひとりの偉大な思想家の思想を理解してごらん。簡単なものは卒業後にいくらでも読めるよ」と助言を与えたとする。学生はその助言に従った。ところが学生は理解できない。読解力が低いわけではないが理解できない。理解しようとしている思想に翻弄されてしまい理解できないのです。オオっとおもったりムカッとしたり。これは理解しようとしているその思想にじりじりとつき合う軸が学生の側にないということです。だとしたら例えば理解しようとする前に、手持ちの知で精一杯、その思想家と同じようなことを考えまとめてみる。そうして軸をつくるのです。どんなに稚拙なものでもいいですし、立派ならそれに越したことはない。それが無理だというならば軸を借りてくる。例えば偉大な思想家の思想と似た内容の絵本を軸としてもいい。それから一旦、それを脇に置き、読み始める。違いがわかる時がくる。とすると翻弄されていない。

________

 

「無」の段

「南」の段で例示した「(偉大な思想家の思想を)理解しようとする前に、手持ちの知で精一杯、その思想家と同じようなことを考えまとめてみる」「それから一旦、それをわきに置き読み進めていく。すると違いがわかる時がくる」というのは、「台風(雨)の過ぎ去った後の風景はくっきりと見える」という事と理的には同じです。どういうとか。脳内は大気と同じで「塵」(←半分比喩)に覆われやすい。軸をつくり、一旦、脇に置くことは、塵を意識し、塵をまとめ、片づけることに相当します。注意することは、それでまったく「塵」がなくなるというわけではない。意識から逃れる「塵らしき」があるということです。その「塵らしき」が、違いの発見に力を貸します。

 

ちなみに、ここでの「自作であれ、借りてきているものであれ、その軸を一旦、脇に置いた自分」や「台風」のその共通の性質が〈不在としてしか現前しない他者〉性といえそうです。

 

台風が通り過ぎた後の風景はいつもよりくっきりと見えます。くっきりと見えている風景が「ずれ」(違い)です。「跡」は「空気中の塵が一掃された空気」(意識から逃れた「塵らしき」のこと)です。その空気を纏うようにしていつもの風景があり、その風景がいつもの風景との「ずれ」として認識されている。

しかし「空気中の塵が一掃された空気」は必ずしも台風がもたらすとは限らないです、例えば「超巨大空気清浄機」が働いたかもしれないです。こうして不在の「台風」の代わりに「超巨大空気清浄機」に、責任をとってもらおうといった発想を可能にします。ただし「超巨大空気清浄機」に責任とれといったら「超巨大空気清浄機」は困ると思います。「いきなり何を言っているのですか」と。しかしどうしても「超巨大空気清浄機」に責任をとって頂きたかったら、それなりの何かしら(=それが「超巨大空気清浄器」にもわかる工夫)を「超巨大空気清浄機」に施しましょうねということです。

〈不在としてしか現前しない他者〉は自然的なものに多いです。しかしその条件さえ満たせば人為的にもありえます。人為的に「ずれ」をあらしめることができる。例えば匿名通報の制度です。匿名で警察に通報された本人以外の周り(警察も含む)が、それとなく変化すれば本人はいつもとの異なり(=「ずれ」)を感じるでしょうね。本人が「ずれ」の「跡」からたとえその匿名通報者が誰であるとわかってもどうしようもないです。誰は匿名通報制度に守られていますから。万が一にもその者のところへ行き「あなた通報しましたよね」と問い詰めても「していません」といわれれば、それが本当の本当に嘘でも、絶対にしていないですね(それ以上、追求すると殺し合いが勃発しそうです。そしてやっぱりなというように逮捕される)。

このように人為的に「ずれ」をあらしめることはできるでしょう。しかし例えば冤罪や人権侵害に終わるかもしれないという危険さは必ずあります。良識ある人があまりすることではないです。だがどうしてもという時があります。例えば、一流の専門家が、ふっとその人は気がついていないかもしれないが、このままではその人まずいことになると判断した場合です。皮肉ではなく真に一流の専門家だからその知には根拠も証拠もないけど、ここだけはしなければ「まずいこと」になるとそう判断した場合は、例えば人権侵害的な結果になるかもしれないという覚悟でしなければならない場合というものはあります。程度にもよるでしょうが、間違ったら謝るしかないですね。間違いでなければ「まずいこと」にはならないかもしれないですが、たとえそうならなかったとして、いつものままです。例えば感謝はされないでしょう。その上、それでよかったのかなという不安が何時までもつきまとうかもしれない。その一事例だけでなく、もうひとつ同じような事例があれば、その知は普遍的な知になるかもしれません。

こうした人為的な介入はそれほどないかしれませんが-他には「サンタクロース制度」「おせっかい教育論」などがあります-。

 

「阿」の段

「阿」の解字はこうでした。〈阿…「阝」(こざとへん)+可(かあ)というつくり。「阝」(こざとへん)は丘や丘状に盛り土したものの意味。可(かあ)は丘の曲がったところの意味。〉

「阿」の段では、「ずれ」と「ずれを感じてしまっている自分」以外ありませんでした。この「ずれ」が「阝」(こざとへん)に、「ずれを感じてしまっている自分」が「可」(かあ)に相当します。

ここでの「ずれ」について、「南」の段の起点を「三位一体の紐」ではなくて「自分」と「環境の中の何か」という「二元」にもとめると、「ずれ」はどちらの「ずれ」かという問いが立ちえます。「自分」が「環境の中の何か」とずれたのか、それとも「環境の中の何か」が「自分」とずれたのか、はては同時にずれたのか(ずれとずれのずれが「ずれ」としてありえているのか)。しかしこの考えは、植物人間、脳死的人間が「環境の中の何か」に相当する場合、限界にぶちあたります。ぶちあたり「三位一体の紐論」へと舞台を移すこともあります。

 

「弥」の段

「弥」の解字は〈弥…弓+日+爾というつくり。弓はゆみの象形。日は太陽の象形。爾は、はなやかに咲きほこる花の象形。時間的にも、空間的にも、のびやかに満ちわたるの意味を表す〉でした。

この「弥」の段ではともするとここで道が途絶える傾向があった。「ずれ」に成ってしまい終わる。あるいは「存在A」の(簡単にいえば)「支配空間」から出られないまま終わる、つまり「存在A」の支配空間ではない場所へ出られない、出られなければ問題解決の手立てを見つけられないで終わるのでした。そう成らないためにまず「ずれ」を感じたら、「ずれ」から身を翻すようにして距離をとり、時間を断絶させるのでした。まさに「弓」は引けば、棒と蔓のあいだに間が誕生するが如くに、です。次いで「存在A」がわかったら、その場の仕組みを理解し、理解している自分に気づくようにして「存在A」の支配空間から傍らへと離脱するのでした。すると「存在A」の支配空間を隈なく見えるようになる。「日」は、物事を隈なく見えるようにするのです。そして外には「花」が咲いている。その「花」とは問題解決のための手がかり(=存在Z)ということです(例えば九鬼周造の金木犀)。もう少し細かいいえば「花」は「亻」(にんべん)+「艸」(くさかんむり)+「ヒ」(さじ)というつくりです。「にんべん」はひとを横から見ているということをあらわし「くさかんむり」は草をあらわし、「さじ」は人が形を変えるの意味から変化するの意味をあらわしています。この「ヒ」(さじ)の部分が「花(はな)」に相当し「存在Z」に相当します。「花(はな)」は、変化しますよね。「亻」(にんべん)は「存在A」の支配空間から離脱した自分に相当します。そして仕組みが呼び水となるようにして「存在Z」が見つかるのでした。つまり離脱したからといって即見つかるものではありませんでしたが、見つかる。このことを「亻」(にんべん)と「ヒ」(さじ)に蔽いかかっている「艸」(くさかんむり)があらわしているといえます。「艸」(くさかんむり)は、「花(はな)」の茎や葉をあらわしていないということです。発見は草の中でのことということです。

このように「弥」という漢字はここでの思想をとてもコンパクトにあらわしています。

 

「陀」の段

「陀」の解字は次でした。〈陀…阝+它というつくり。「阝」(こざとへん)は丘や丘状に盛り土したものの意。「它」は、身をくねらせ尾をたれるへびの形。甲骨文では、特に上部にたちどまる足の象形「止」(とめへん)を付して、人の足にかみつくへび、マムシの意味を表し、転じてわざわいの意味をも表す〉

もう少し細かく解字すると、「它」の部分の「ヒ」(さじ)の部分は人が形を変えるの意味から変化するの意味でした。「宀」(うかんむり)の部分は、おおうもの、やねの意味をあらわします。とすると「它」の部分の「宀」(うかんむり)の部分が、たちどまる足の象形、おおうもの、やねといったいわば「覆いをかぶせるようなもの」の部分で、その下の「ヒ」(さじ)の部分が、身をくねらせ尾をたれるへびの形、人が形を変えるその形の部分といえそうです。そしてその傍らに丘や丘状に盛り土したものいわば「斜めのもの」の意である「阝」(こざとへん)がある。

この「阝」(こざとへん)は「ずれ」に相当しました。ではこの「ヒ」(さじ)が何に相当するかということですが、これは「存在A」です。「陀」の段は「存在A」の支配空間に於いてのことです。「宀」(うかんむり)が「存在Z」に相当します。さて「宀」(うかんむり)と「冖」(わかんむり)は同じ意もあります。それとどちらも「おおうもの」という意です。違いは「宀」(うかんむり)にはやねの意があります。「´」(てん)の部分といえるでしょうか。「宀」(うかんむり)と「冖」(わかんむり)は、同じ漢字をあらわす場合にも用いられます。例えば「富」と「冨」です。その漢字に限らず同じ漢字であれば「冖」(わかんむり)の方は俗字とされています。「宀」(うかんむり)の方が正字です(これは昔の中国での辞書編纂時の影響によるらしいです)。その「宀」(うかんむり)には「冖」(わかんむり)にはない「´」(てん)がついている。「´」(てん)は「ちょぼ」ともいい、「ちょぼ」はサイコロの目のふり方や、「ちょんぼ」というように麻雀のいかさまというようにギャンブル系と関係している。基本的には問題解決と無関係な「存在Z」を問題解決のために動かすための工夫はある意味、ずるいといえる。そうまさに「´」(ちょ(ん)ぼ)なのです。

さて、なぜ「陀」の「ヒ」(さじ)が「存在Z」ではないのか。「花」では「ヒ」(さじ)が「存在Z」だったではないかという問いがあると思います。事後的にいう「陀」の「ヒ」(さじ)から逃れるようにして、その「ヒ」(さじ)に立ち向かう手立ての「花」の「ヒ」(さじ)を発見している。というように両者の「ヒ」(さじ)は関係しています。ここでは同時に事後的にいう「陀」の「ヒ」(さじ)に困っている自分とその「ヒ」(さじ)に立ち向かう手立ての「花」の「ヒ」(さじ)を発見した自分は内の自分、外の自分というように変化しています。その変化にともない「ヒ」(さじ)もまた変わっているということです。「陀」の「ヒ」(さじ)に対処する「花」の「ヒ」(さじ)という構図ですから、そのことを「陀」でいえば、「陀」の「ヒ」(さじ)の上の「冖」(わかんむり)が「花」の「ヒ」(さじ)に相当します。その「冖」(わかんむり)に対処とは無関係の「花」の「ヒ」(さじ)を動かす工夫の「´」(ちょ(ん)ぼ)ということです。

「陀」の「ヒ」(さじ)は、「斜めのもの」の意である「阝」(こざとへん)が傍らにありますから、変化するもののうちでも真上から見る場合と、真横から見る場合があるといえそうです。その上、「陀」の「ヒ」(さじ)には困らされている。とするとそれは、円形あるいは螺旋形、例えば、蛇、疳の虫、うねる火、湧き出る水といった類の存在に相当します。

「花」の「ヒ」(さじ)は、変化するもののうちでも真横からしか見えないものです。直線分形の変化です。例えば花-花は蕾、花咲、散るというように変化-、筍、稲などです。

この二つの「ヒ」(さじ)の関係は非対称で一致するというものです。その他の例では例えばウナギと梅干というように(科学的には食べ合わせは悪くない)。「蛇」の「ヒ」(さじ)と「花」の「ヒ」(さじ)は内外反転的非対称の関係で一致している。そこでは篆文の「口」の字をなしているように、です。ではなぜ「ウナギと梅干は食べ合わせが悪いか」といわれれば、ウナギの問題を梅干で解決するな。梅干は無関係だ。解決して欲しかったらそれなりの工夫を梅干に施しなさいということなのでしょう。こうしたことが他の例でもありえる。

 

「仏」の段

「仏」の漢字の「解字」は、〈仏…それらしくありながら、はっきり見えないさまを表す擬態語として用いられる。イ+弗というつくり。「イ」(にんべん)はひとを横から見ている。「弗」(フツ)はからまるひもを二本の棒でふりはらうさまから、はらう・のぞきさせるの意味をあらわす〉

「イ」(にんべん)は「ずれを感じてしまっている自分」に相当する。「イ」(にんべん)は甲骨文や金文では、「イ」の「l」の部分が下から伸び少し曲がり「ノ」に接続している。その曲がった部分が「胴」のあたり、その下が「足」に、「ノ」の左下が「手」に右上が「頭」にあたるといえる。「弥」の段で、まず「手」が「存在A」を明らかにするように活躍し、次いで「胴」が-「胴」の解字はつつ形の太陽の意味をあらわす-が「存在A」からの離脱を促し、離脱先で「足」が「存在Z」を見つけ、「陀」の段で「頭」が「存在Z」を動かすために働いた。そして「仏」の段にいたる。

「弗」(フツ)の「からまるひも」は、次の三つのラインです。≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫=)「環境の中の何か」≫(ライン3)、≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何=)「環境の中の何か」≫(ライン4) 、≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・違いの違い=)「環境の中の何か」≫(ライン5)。

「二本の棒」は、「環境の中の何か」と「環境の中の別の何か」に相当します。

 

『「仏」』の段

「五色糸残欠」の「五色糸」がライン1からライン5までの五本のラインに相当するでしょうか。

 

『無阿弥陀』の段

ここは技術に従って進んでいくだけです。ただし「南」の段に戻るといっても「仏」の段に至った道を後戻りするようにして戻ってはいけない。戻ってもいいが、そこは同じ「南」の段でも違う「南」の段です。例えば、いつもと同じに生きていたら突発的に怪我をして、とりあえず一命をとりとめた時、ふと怪我した当時のことを思い返したら、一命をとりとめるまでに至った過程が、そこに無機的にすべて描かれているようなものです。それはそれまでのここということです。問題はとりあえずとりとめた一命を再度、いつもへと戻すということです。別ルートで戻る。それが「技術的」-とはある手順に従えば誰でもできるということですが-技術的にできます。

 

『「無」』の段
「無」の段に到着したばかりの時の状態はライン7でした。≪「自分」(=「自分」の経験している「環境の中の何か」・ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫=)「環境」≫。そしてこのラインの≪ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫・「環境の中の別の何か」・何・〔違い〕の違い・「別のもうひとりの自分」の経験している「〔違い〕の違い」・ずれ・跡・存在Y・外部・存在B・存在Bを動かす工夫≫が以前の「南」の段の生とこの「南」段の違いとしてありえています。その違いは、「南」の段からしたら「怪我なき傷跡」とか「受精なき妊娠」という類言の「傷跡」「妊娠」に相当するものとしてありえています。「南」の段からしたら「自分」が落ちて戻ってきたことはわからないのですね。いつもと同じ「自分」とみなしている。にもかかわらずその「自分」には「傷跡」があったり「妊娠」していたりする。「南」の段からしたら「どういうことだろう?」ということです。その疑問に答えるようにしなければならないということです。それがわかるようにということです。すると「環境」からの応答が来るようにして以前と同じに「南」の段で生きています。

 

・・・・・・

※メモ

○「三位一体紐論」とレヴィナスの思想

「無」の段について。〈不在としてしか現前しない他者〉に遭遇するということは、レヴィナスのいう「顔」と同じだろう。

 

○「三位一体紐論」と諏訪の神々とご神体・守屋山

・「弥」の段について

「存在A」を明らかにする際の守り神

←モレヤ(石木の神)。

「存在A」についての三叉塞がりからの出入り際の守り神・

←ミシャグチ(白蛇神)、ソソウ(青蛇神)。

ミシャグチは守り神だけでなく祟り神の側面もある。

「存在Z」を発見し、動かす際の守り神

チカト(狩猟神)。

この三つ、四つ自体の守り神・ミシャグチ(賽ノ神)。

この四神「モレヤ、ソソウ(ミシャグチ)、チカト、ミシャグチ」は、ハイデガーが「大地を語る時、われわれはすでに他の三者のことも考えている。その四者が折り成す「一つの襞」には思い至らないまでも」(『建てる・住まう・考える』)というときの「四者」のことのようです。「大地を語る時、われわれ」が「三叉口(ミシャグチ)」です。

 

・「仏」の段について

「環境の中の別の何か」が、ご神体・守屋山

 

なぜ諏訪か。地形が関係していそう。

 

○「三位一体紐論」と神隠し

「三位一体紐論」は、生きている「南」の段から「無」の段を介して「弥」の段まで落ちるのであった。その時、「南」の段には居ない。この意味で「三位一体紐論」は神隠し説話と似ている。ある日、突然あの人がいなくなるという点で。

神隠し説話において櫛は必須アイテムであるものが多い。「三位一体紐論」で櫛が関係する段は二カ所。ひとつは「弥」の段。「存在A」=ヤマタノオロチ、「存在Z」=櫛名田姫。もうひとつは「仏」の段。三つのラインを整える「弗」(フツ)に関する「二本の棒」。しかし例え棒といえど二本では櫛とは言えない。櫛は「弥の段」に関わるだろう。とすると「二本の棒」のうち一本である「環境の中の別の何か」は、スサノオに倒されたヤマタノオロチから出てきた剣(くさなぎのけん)に相当するといえる。

 

○「三位一体紐論」と悲劇、戦争

「ずれ」を感じてしまって、その「ずれ」に成ってしまうことを悲劇とする。例えば「人間が、半分つぶれた虫のように地面でもがくことになるような類の衝撃を受けた人々は、自分の身に起こっていることを表現する言葉がない」(ヴェイユ『神を待ち望む』)とヴェイユがいうときの「半分つぶれた虫のように地面でもがくことになるような類の衝撃を受けた人々」のこと。そこでもうひとりの自分を立ち上げるように時間を断ち切り、「存在A」-「衝撃」を「人間」に与えたものの仮の姿-が定まれば、悲劇にはならない。しかし今度は戦争になりやすい。

①「存在A」を犯人と断定し責任を取らせようとする場合。

②「存在A」は犯人でないと断定し寝首を欠かれる場合。

③せっかくの「存在A」を排除し自ら「ずれ」に成ってしまう場合。

④、①~③に気がついていても、その気がついている自分に気がつかないままでいる場合。

 

事件発生→犯人の確定→処罰という現代人的マインド、直情的に動く現代人からしたら①の場合が多い。「存在A」が犯人でない可能性は消しきれない。だからイロイロする。しかし消しきれない。②に移行するようにして、直情的に動いて緊張していた身体の緊張がとける時、「存在A」に寝首を欠かれる。

 

これはヒトラーポルポトの戦争のように戦線が拡大―あれも敵かもこれも敵かもという理由で-わしていくわりには、あっけなく終わる戦争。その意味では「歴史」のサルトルがヨーロッパ思想界の主流を占めながらあっけなく終わったことと同じ。ヒトラーポルポトは「学問」を嫌った。ヒトラーであればユダヤ人の学問を嫌った(この意味では、ユダヤ人でなくてもよかったのかもしれない)。で、「学問」に踊らされ戦争した。サルトルは「歴史」を好いた。で、「歴史」に踊らされるようにして終わった。入学時と卒業時は学外との接点という意味で同じ。しかし入学時と卒業時の子供の状態は違う。それが「学問」とする。それは「歴史」でもある。とすると「学問」も「歴史」も蛇的な存在であるといえる。

 

③の場合は、救いの可能性を自ら捨て、悲惨な現状に身を任せた者。

④の場合は、獄死した知識人。

 

○「三位一体紐論」と子供

子供は蛇のことになると夢中になるし、火をたくことにも夢中になる。ぐるぐると渦巻くものに惹かれるのかもしれない。とかく「危ない」といって指導的な大人が禁止するが、子供はそうした危険な存在との遊びを通して、自分勝手にならない感覚を身に着けているかもしれない。子供が「渦巻く細長い生き物」的な存在である「歴史」と遊び、「歴史」を自分勝手にならないように扱えたらもう立派な大人かもしれない。ところが残念なことに子供は「歴史」のような目に見えなくて動きもしないものにはなかなか関心が持てない。だとしたら子供に火渦巻く戦争映画をたくさん見せて、それについていろいろとお話すればよいのかもしれない。それが「学問」といえるかも。指導的な大人は嫌がるでしょう(ここが『ハウルの動く城』の評価は真っ二つだったという理由か)。

 

○「三位一体紐論」と「四角形の変化生成図」の関係(基本)

「南」の段

≪「自分」=「自分」の経験している「環境の中の何か」=「環境」≫

←四角形の変化生成図の①、②、③に対応。

「無」の段

〈不在としてしか現前しない他者〉←④

「阿」、「弥」、「陀」の段

≪ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫≫

←⑤・⑥・⑦・⑧・⑨・⑩

「仏」の段

≪ずれ・跡・存在A・外部・存在Z・存在Zを動かす工夫≫が「南」の段にとっては何かをわかろうとしている者←⑪

≪「環境の中の別の何」≫←⑫

≪何・違いの違い≫←⑬

『「仏」』の段

「別のもうひとりの自分」←⑭

『無阿弥陀』の段

技術的過程←⑮~⑳

『「南」』の段

特に⑳は「怪我なき傷跡」「受精なき妊娠」といった類言の「傷跡」「妊娠」に相当。

その「傷跡」「妊娠」に相当の謎を「環境」(の中の?)にわかるようにしようとする者←㉑

≪環境の中のもう一つの別の何か≫←㉒

≪何2・違い2の違い2≫←㉓

「第三者的自分」←㉔

≪ずれ・跡・存在光・外部≫←㉕、㉖、㉗、㉘

 

○「三位一体紐論」と学

各段に学を対応させてみる(例)。

「南」の段、社会学、医学、食物学…生れ落ち生きている世界を扱う。

「無」の段、教育学…成熟は〈不在としてしか現前しない他者〉への遭遇から。

「阿」の段、芸術学、建築学…あると感じられる事物とその傍らの自分から始める。

「弥」の段、心理学…連続した時・空間に裂け目を入れ、再度つなげることで回復を目指す。

「陀」の段、政治学…動かしたいが決して動かせない者をいかにして動かすか。

「仏」の段、宗教学…救われるとはどういうことか。

『「仏」』の段、哲学、繊維学…考えかたというものがある。

『無阿弥陀』の段、理学、法学…方法にのっとる。

『「南」』の段、文学…折り合いのつかなさをどうするか。

 

昔、医学の分野が細分化・専門化しすぎていることへの様々な批判があり総合医をという議論があった。同じことが学のレベルでも起きているかもしれない。学部(科目)をわけているため「南無阿弥陀仏」『「仏」』『無阿弥陀』『「南」』といった総合性に学生は気がつきにくい。(カリキュラムの問題)。

 

○「三位一体紐論」と現実

南無阿弥陀仏」『「仏」』『無阿弥陀』『「南」』と「環境」を往来する「自分」という舞台から降りることができないとしたら、今どこに自分がいるのかということ(どこの現実か)は知りうる。

 

(終わり)

「呼びかけ」「呼び戻し」について

君、あなた、お前、汝、ワレ、奴、など(←「カテゴリー」の言葉)。

佐々木悟、安倍晋三、など(←「名前」の言葉)。

 

佐々木悟は相手を「名前」で呼ばず「カテゴリー」で呼んだためか、失った人がいくにんもいる。失いたくなかった。

 

「ことばという関係の本質は呼びかけであり、呼格であるからである。他者は呼びかけられたとたん、その異質性において維持され確証される。他者にことばで語りかけることができないと語るにせよ、他者を病人と分類する場合であるにしても、また他者に死刑を宣告するときでさえ、そうである。他者がつかまれ、傷つけられ、蹂躙されるまさにそのときにも、他者は「尊重」されているのである。召還された者は私が理解する者ではない。召還された者はカテゴリーに属していない。召還された者とは私が言葉で語りかけるものである。自己にのみ関係し、なに性を有してはいない。」(レヴィナス『全体性と無限』熊野純彦訳)

 

ここでレヴィナスは「ことばという関係の本質」は「呼びかけであり、呼格である」としている。「呼びかけ」と「呼格」は違う働きでしょうか。「呼びかけ」られた他者は「尊重」されている。他方、「呼格」の他者は「召喚された者」であり「私が理解する者」ではない。そのものは「カテゴリー」に属さず「私が言葉で語りかけるもの」です。この「呼びかけ」と「呼格」の違いは、同じようなことを述べているジャックデリダの説を聞くとわかりやすい。デリダはこういう。

 

「固有名というものは、言語ないしは-実はそれが条件づけている-通常の言語機能には属さないとするならば、また別のところで示そうとしたように、固有名は他の語のようには翻訳できないとするならば(PeterはPierreの翻訳ではありません)、歓待についてそこからどのような結論を引き出せばよいでしょうか。歓待はその純粋な可能性における固有名の呼びかけないしは呼び戻しを前提とする(それはお前のものだ、私が「来たれ」「入れ」「ウィ(oui)と語るお前自身のものだ)と同時に、この同じ固有名の末梢をも前提とします(「来たれ」「ウィ」「入れ」「お前が誰であろうと、お前の名前、言語、性、種が何であろうと、人間であろうと動物であろうと、神であろうと……」(デリダ『歓待について』廣瀬浩司訳)

 

ここでデリダのいう「固有名の呼びかけ」はレヴィナスのいう「呼びかけ」に相当し、レヴィナスのいう「呼格」が「呼び戻し」に相当するととらえると「呼びかけ」と「呼格」の違いがわかりやすいと私は思います。この接続は間違いだろうか。

 

「呼びかけ」と「呼び戻し」、これらは具体的にはどのようなことだろう。

私たちはその人がそっちに行くと危険な目に会いそうなときは名前を呼ぶ傾向があるのではないか。例えば「悟、そっちに行くと危ないぞ」というように(ここで「君、そっちに行くと危ないぞ」と言ったら、その声は名前を呼ぶ時よりも届かない気がする)。これが「呼び戻し」の例でしょうか。

では名前を呼ばないときというのはどういう場合か。ある問題状況に陥りにっちもさっちもいかなくなっている時、助けを求める場合ではないか。「誰か助けてー」と叫び声をあげる(なぜだろう。助け声が届くかもしれない者の人数を多くしようとして名前では呼ばないのだろうか)。これが「呼びかけ」の例でしょうか。

 

「呼びかけ」は「名前」ではなく「カテゴリー」で呼ばれ、「呼び戻し」は「カテゴリー」でなく「名前」で呼ばれる。

 

話を戻す。失うということは呼び戻せなかったということだろう。それは相手を「名前」で呼ばず「カテゴリー」で呼んだ報いともいえる。佐々木悟はこうして大切な人の「名前」を呼ばなかったために、大切な人を次から次へと失ってきたのだろう。

 

でも、それが私にはわからなかった(みんな私より先にレヴィナスを理解していたのだろうか。ずるい?)

 

このレヴィナスの考えがわからないということは、マジで佐々木悟は「名前」を呼ぶように「カテゴリー」で相手を呼んでいたということだ。例えば「悟、そっちに行くと危ないぞ」というところを真剣に「君、そっちに行くと危ないぞ」と言っていた。が、そんな「信」は通じなかった。「言」の方が強かった。で、みんななくなっていった。そんなところなのか。

 

これは自業自得なのか。〈生まれながらの犯罪者は「犯罪者」なのか?〉。

 

この逆転は根深いです。言葉の問題だからです。理屈ではレヴィナスがまっとうだと思っていてもいわば気遣いの瞬間にはやはり「悟、そっちに行くと危ないぞ」ではなく「君、そっちにいくと危ないぞ」といってしまっている。気遣う瞬間、ぐっとこらえて、裏返して気遣うという技も想定できることはできる(その「ぐっ」との一瞬に気遣う相手が死ななければいいが)。

言葉のこうした力について言及している者が鷲田清一さんだとおもいますね。鷲田先生はその著『ぐずくずの理由』の「あとがき」の冒頭でこう述べています。「言葉はこころの繊維であると思う。言葉がこころの襞をつくる。言葉なくしては、ひとはじぶんが浸されている感情の何であるかも、たぶん理解できない」と。

 

自分がレヴィナスにあってしまったからこんな目にあっているのか。あってしまったことは仕方がないとすれば、この、なかなかかわらない自分の言葉が自分の言葉ながら憎い。 次の瞬間からいきなりフランス語をペラペラ話せるようになればとも思うが、そう簡単にはいかない。

 

「言葉ひとつ足りないくらいで 笑顔ひとつ忘れただけで ほんの少しのすれ違いだけで 全部あきらめてしまうのか 愛されるばかりが能じゃないだろう さあ見つけるんだ 僕たちのHOME」(B’z『HOME』)

 

この曲いいですね。励まされますね。自分はこの曲聴きながら、佐々木悟の言葉を別の言葉へと換えようとしています。

プリンセスプリンセス・村上春樹・太陰太陽暦

プリンセスプリンセスの曲『M』は、なぜMなのでしょう。

その歌詞「あなたの声聞きたくて 消せないアドレスMのページを 指でたどっているだけ」の「消せないアドレスMのページ」と「星が森へ帰るように 自然に消えて ちいさな仕草も いつまでもあなたしか見えない私も」の「あなたしか見えない私も」と『Diamonds』の「冷たい泉に 素足をひたして 見上げるスカイスクレイパー 好きな服を着ているだけ 悪いことしてないよ 金のハンドルで 街を飛びまわれ」の「好きな服」と「金のハンドル」はそれぞれ対応していそう。「消せないアドレスMのページ」と「好きな服」の働きは村上春樹にとっての「うなぎ」の働きと同じでしょうね(〈不在としてしか現前しない他者〉のためにある)。なぜそういうものが必要か。否応なしにありえてしまうものがあるから。「あなたしか見えない私も」と「金のハンドル」。村上春樹にとっては「たき火」。

この「あなたしか見えない私も」・「金のハンドル」・「たき火」はどちらかといえば夜の領域(それしか見えていないという意味では悲しい領域)のもの。対して「消せないアドレスMのページ」・「好きな服」・「うなぎ」は昼の領域(選択の余地があるという意味では明るい領域)のものと分類できそう。とするとプリプリのその曲や村上春樹のそうした小説はいうなれば「太陰太陽暦的世界観」に生きている。

太陰太陽暦はその字の通り月と太陽、両方の運行を暦にしている。その暦では閏月を入れて一年13ヶ月になることがある。

アルファベッドのⅯはAからして13番目だが、何かしら関係があるのだろうか。それとも偶然か。

パスカルの格言は何度も繰り返される?

夏休み小学生の時、銛を使って川で魚を採っていたら、見知らぬ少し年上らしき男子が遊びに加わってきた。東京からだという。そしてひと言。「この川で銛を使ってはいけないはずだよ」と言った。遊んでいた僕たちはそれは知っていた。しかし伝統的にみんな使っていた。怪我人もなく魚を取りすぎるということもなかった。大人も漁協も特に何も言ってなかった。だから使っていた。しかしその態度の強さにその場にいたみんなは白けながら使うことを止めた。

別日、近所の小川で網で小魚をすくって遊んでいたらその小川の傍らの田んぼだった場所に家を建てた住人のオジサンが出てきて「この小川で魚を採ることを止めろ」といった。理由はわからなかったが-たぶん家周りが汚れるとか子供がうるさいとかだろうか-、その小川は広い田園の中の小さな小川で、そこでもまた子供たちは代々、遊んでいた。変だと思ったが止めた。またか、と思った。

ここでの「見知らぬ少し年上らしき男子」や「小川の傍らの田んぼだった場所に家を建てた住人のオジサン」の類人が都会では、例えば公園での子供のボール遊びは迷惑だというような理由で行政に通報し、行政はそうしたいわば「〈枠組み〉というものがあるということを知ろうとしないで枠組みらしきに安住しようとする実質四人ほどの者たち」の意見に耳を傾け、公園でのボール遊びを禁止してきたのだろう。この手の問題は全国津々浦々とても多い気がします。

ちなみに〈枠組み〉というものがあることを知ってそれを研究し、その枠組みに安住しようとする者が僕たちですね。僕たちだって枠組みに安住しようとしているのですよ。しかしその枠組みは國體や憲法や人類ミナきょうだい法とは違う。強いて言えば、國體の〈國體〉とか憲法の〈憲法〉とか人類ミナきょうだい法の〈人類ミナきょうだい法〉という時のその〈〉(括弧)内のことです。それを総称してここでは「枠組み」と表記し「わくぐみ」と呼んでいます。

さて行政はどのような過程を通して判断しているのだろう、行政はその通報者の名前を公表しうるのだろうか。行政が無知とまさに共謀して「海抜六十メートルの断崖の手前に四角い幕それも素晴らしい夢がぎっしりとかかれた幕を張り、そちらへと住民を導いた」ということをしなければいいが(かつての長野南部の満蒙開拓団のように)。この件は大丈夫そうですね。

f:id:sasakisatoru:20170513094820j:plain

〈読む〉ことを通して精神的生命力を取り戻す

なぜ子供たちはあまり読書をしないのだろう。理由を挙げてみる。解決策も記したよ。

・本がない。

(←本屋や図書館や研究室に行けばあるよ。他にもあるかもね。探してごらん)。

 

・本はあるが読める状況にない。例、読もうと望まない。忙しくて読めない。読みたくても字が読めない、など。

(←基本的には気持ちひとつで読めます。読もうと望み、実際に読むのです。それでは少し無理がかかる。自然に読めるようになりとすれば、そう読めるように自分の抱えている問題なりをどんどんと片付けていかねばならないですね。ひょっとすると一生、読めないかもしれませんが、自分の抱えている問題を〈読む〉ように片づければ、読書経験と同質の経験をすることになります。)

 

・本の内容に囚われてしまう。例、内容に読み流される。内容に深く感化されてしまう。例えば国語的に正しい内容理解に留まっている。内容を娯楽用品の様に次々と消費してしまう、など。

(←それはそれでよいといえばよいのですが、内容の逆側の「内容」といったいうなれば内容もあるよということに気がつくと、もとの内容理解が深まっていきます。たまに国語の先生は「行間を読め」と指導しますよね。それ聞いて「は? 何も書いていないから読めないんですけど…」といぶかしがるかもしれないですが、その先生の言う通り行間を読むのです。子供でも‘決まりきった仕事がきちんとできる社会人風’になると、内容の外に出ることに恐怖を感じるかもしれませんが、もっと子供の頃、あなたは外に出ていました。さらにいえば実は、この世が外なのです。この世の外はないのです。)

 

・精神的生命力を取り戻すような読み方を知らない。その代りに例えばテストで点を取るための読み方、例えば実用を身に着けるような読み方に嵌ってしまっている。

(←内容には外があるということに気がついたら、遠回りかもしれませんが「読むとはどういうことか?」を考えてみましょう。様々な読み方がありますが、そのうちのひとつに「精神的生命力を取り戻すような読み方」があるとわたしはおもいます。)

 

・生命力を取り戻すような読み方を知っていて、実際にそう読んでいるが、ところどころで躓いてなかなか進めない。

(←躓く点について、問題を明確にし、解決のための手立てを考え、そうして問題が解決された自分を、生命力を取り戻す読み方のラインへと戻ることができる工夫もなすことで、ひとつずつ躓く点を超えていきましょう。大切なことは、問題が解決された≠精神的生命力を取り戻す読み方のラインに戻った、ということです。問題が解決された後、もうひと手間かけなければ、精神的生命力を取り戻す読み方のラインに戻れません。)

 

・精神的生命力を取り戻したが、周囲からの応答が以前と違い困るからそのような読み方は嫌だ。

(←様々な応答に触れてしまうことは仕方がないですね。以前の親友の裏的面-例えば邪悪な面-を見てしまうかもしれないです。別もありますね。もっと親友らしくうつる場合もある。今的には「キモく」(千葉雅也)なるのですが、キモくなるだけではないのです。しかし基本的にはどれも無視です。根本的にあなたはそのままでいいのです。だから無視ですが、ここで「これからも生きるぞ」と望むのであれば、わたしとしては次の三人の言葉を紹介します。ひとり目はミルトン・メイヤロフです。メイヤロフはその著『ケアの本質』でこう述べています。「このような全面的な序列化をする際には、ある種の事柄や活動をあきらめなければならず、そのため服従という一要素も含んでいる。しかしながらこの服従は、工芸家が自分の規律や材料に自ら進んで合わせるように、基本的には自分を解放し、確信を与えてくれるものなのである」と。二人目は「「忘れなあかんこと、忘れていいこと、ほいから忘れたらあかんこと」(河瀬直美監督の映画『沙羅双樹』のなかの言葉)。これを後ろ髪引かれる想いでどうにかさばいてゆくのが人生だとすれば」とその著『老いの空白』で記述する鷲田清一さんです。三人目はニーチェです。「だが、これが-私の趣味である。-よい趣味でも悪い趣味でもなく、私の趣味である。私は、私の趣味をもはや恥とせず、ましてや秘めることはない。私に「道」を尋ねた者は私にこう答えた。「これが-私の道だ-、-きみたちの道はどこか?」と。万人向きの道など、存在しないからだ」(『ツァラトゥストラはこう語った』「重力の精」2)。)

こられが以下の文章に触れた自分としては、子供たちはあまり読書をしない理由だと思いその解決策も提案してみました。

バリー・サンダスーはその著『本が死ぬところ暴力が生まれる』で「識字の奇跡」は「未来時制」と「反‐事実」の二つであり、「この二つが衰退し死に絶えなら、私たちがもはや大人として、未来について目的をもって夢を描くことができなくなったら、すべてが失われる。その時、識字は確実に文化から流れ去る。そしてこの本は、見当違いの夢以外のなにものでもない」と述べています。

ここでの「識字」とは文字を読むこと、「奇跡」とは神的な力の働きと理解します。では、「識字の奇跡」である「未来時制」と「反‐事実」とはどのようなことでしょうか。

ここで〈読む〉という行為を以下のように仮に決めます。

・・・・・・

〈対象〉と〈対象を読む人〉と〈対象を読む人がいる場所〉と〈対象を読む人がいる場所以外の何処か〉があるとする。

〈読む〉とは〈読む人がいる場所〉で〈対象を読む人〉が〈対象〉の輪郭の逆の部分を起点にある素材を用いて表現物を制作することです。〈対象〉の輪郭が凸なら表現物の起点は凹ということです。パズルと同じです。パズルとの違いは表現物の終点には定まった形がないということです。しかし表現物が(仮に)完成した後、〈対象を読む人〉が〈対象を読む人がいる場所以外の何処か〉に外出するようにして間をとり、見渡すと終点を発見することができます。そしこの終点が表現物の終点たるように表現物を制作しなおして完成です。こうして完成した表現物は人工物でありながら〈対象を読む人〉(生物)らしさも湛えています。

ここにて〈対象を読む人〉は製作からは離れます。注意することは〈対象を読む人〉はこの製作を通して、〈対象〉をどのように認識するのかその認識様あるいはそう認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型をかえているということです(※)。

________

(※)製作する以前は〈対象〉への認識は〈対象〉の輪郭が例えば対象という黒字の内側線ならばならばその線形であり、その線形に認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型は「たいしょう」と呼ぶことでした。なぜ〈対象〉をその認識様で認識するのかという理由は、そう認識するように初期条件として定められているからであり、その認識様で認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型の先に何がくるかは別問題です。あれがくるかもしれません。という前後二点まで〈読む〉という行為は表現します。

・・・・・・

この仮説での〈読む〉は表現する・表現しなおすことと不可分です。そして二つ特徴があります。一つ目の特徴は、想定されている表現物には起点はありますが終点がないため未来志向的であるということです。この性質がサンダスーのいう「未来時制」に相当すると思います。

二つ目の特徴は表現する・表現しなおすといっても、表現者がすべてを統御するようにして製作できないということです。これは(仮に)完成するということ、そして一旦離れるということ、戻ってきて再度触れた仮の完成物に終点を見つけ、仮の完成物を一変させるようにして完成させること、という過程があるからです。この過程は「自分の死後、自分がよみがえり、生前、自分が製作した作品を見直したら、そこにある添え物が添えられていることを発見し、その添え物が作品の見どころになるように作品を制作しなおす」様なものと喩えられます。この過程は事実的には考えられないのですね。この性質がサンダスーのいう「反‐事実」に相当すると思います。

この仮説が実際に「読むことの授業」の枠組みとして採用されているとしたら、例えば一発完成を心底望む表現者(学ぶ者)の表現物は、不在としてしか現前しない指導者によって表現物の見返しがなされ手入れがなされるのです。しかしこれは横領や改作とは違います。そして別日、手入れがなされた表現物をみた一発完成を心底望む表現者は「え?誰か僕の作品いじった?」というかもしれません。しかし誰もいじっていない。ここでその表現者が精神病親和的表現者だと病気にのみ込まれてしまう可能性が高いです。独裁親和的表現者だと陰謀論を唱えるかもしれないです。とすると指導者にはカウンセリング的能力も望まれますが、学ぶ者を自分で危険な状態に陥れ、素知らぬ顔で、今度は自分で救うようなことにならないためにも、指導者には(やはり)スーパーヴジョン的な存在がいなければならないのです。

新しい日々がはじまる

教職に就くとわかりやすいのではないでしょうか。児童・生徒・学生を総称して「子ども」と呼べば子どもには様々な人がいるということが。そのうちのひとりには教職に就いた自分が、自分が担当するクラスの例えば児童だとしたら「意識の届く範囲、届かない範囲あれこれと試みたがこの子と関わることは無理だ。逃げよう(防御しよう)」という児童もいることもあるでしょうか。村上春樹の術語的には「生まれながらの殺人者」と形容されそうな子どものことです。

しかし子ども同士ではそうした判断はし難いかもしれない。殺されるあるいは殺すまで生まれながらの殺人者的子どもとも関わろうとする例えば仲よくしようと(教員と同じように)意識の届く範囲、届かない範囲あれこれと試みて関わり続けるかもしれないです。〈外〉がない場合、あるいは「級友みんなと友だちになろう」という同調圧力あるいは「同調圧力をなくす」というドウチョウアツリョクが強い場合はそうし続けるかもしれません(←音はわかりやすいのです。それは難しいつまり同じように関わり続けてしまうということです)。特にいわゆる優等生がそうなりそうです。

優等生がそれでもなお、その生まれながらの殺人者的級友と仲よくしようとしたら、一旦、その級友と関わることを止め、壁をつくるなりなんなりして身を守り、壁ならば壁の内側(自分のいる側)で「生まれながらの殺人者」が生まれる以前に赴き、そこで何か手ごたえあるようにしてみつかることを発見するのです。それが‘元凶’です。しかし発見だけで十分です。やり過ごすのです。そこで何かしてはならないです。何かすれば二度と元に戻れなくなります。例えば「生まれながらの殺人者」が「善良な市民」に生まれ変わるようにと「生まれながらの殺人者」が生まれる以前の時(=自分のつくった壁の内側での歴史)を組み替えたくなりますが、そうしてはならないです。が、しかしなのです。発見した段階で、発見しているのですから何もしないということは不可能なのです。それならばむしろイロイロとした方がいいとわたしは思います。イロイロしてもあるいはしなくても結局、元に返りますから。

この仕組みを引き受けることが自覚的に壁の内側の外の場所に行き戻ってくるということです。つまり壁の内側の外の場所で何か発見したら、色々として、最後は元に返すのです。そうしてその場所へと赴く以前へと翻り、壁を取り除く。すると「生まれながらの殺人者」と関わりたいように関われます。仲よくならば仲よくできてしまいます。なぜか自然とできてしまいます。ただし‘元凶’もこちらの時へと(どこからか)やってきます。が、それは‘元凶’ではありません。一度触れていますが、初めての存在として出会います。(U)

・・・・・・

(追記)

これを書いた後、J.ラカンの「精神分析技法における、解釈の共鳴と主体の時間」を読み始めた。冒頭に次の二つの引用があった。「男と愛のあいだに 女がいる 男と女のあいだに 世界がある 男と世界のあいだに 壁がある」(アントワーヌ・チュダル『二〇〇〇年のパリ』より)、「実際わしはこの眼でシビュラが瓶の中にぶらさがっとるのを、マークエで見たよ。子どもがギリシャ語で彼女に「シビュラよ、何が欲しい」と訊くと彼女はいつも「死にたいの」と答えていたものさ」(『サテュリコン』四八)。ラカン、おもしろそう~。