凝固点が低いから融点も低いという訳ではない(当然な者には当然かもしれない、が)

溶媒を水とする。水と水溶液(=水+溶質)それぞれ冷やすと、水溶液の方が低い温度で凍る。これは凝固点降下が起きて凝固点が下がったためです。他方、その氷が融ける時は、確かに水溶液の氷の方が早く溶け始めるのですが、それは凝固点が低いからではないと私は思う。なぜ「私は思う」をつけたか。いくつか資料をみると凝固点が低いから融点も低い(=早く溶け始める)ととらえている者が多い気がするからです。自分と同じように凝固点が低いから融点も低いとはとらえていない者もいることにはいます。

凝固点は水に溶けている溶質の粒子の個数に影響されます。粒子の種類は関係ないです(が教科書的定説)。だから同じ濃度でも電離する無機物の方が電離しない有機物よりも凝固点は下がります。これは凝固点降下といい、なぜそうなるかはルシャトリエの法則から説明できます。

さて無機物も有機物も水和していますが、凍り始めるところは水和していない部分からです。なぜか。氷ができるとはそこにある構造を持った水分子のつらなりができるということですが、水和している部分の水分子と構造している水分子は構造の方向性の関係から構造化しにくいためです。

さらに、このつらなりの隙間に入ることができる物質はフッ素や塩素などと少ないです。これは構造の隙間に粒子が入りにくいということです。つまり溶質を取り込むようにしては氷はできていないことの方が圧倒的に多いです。

こうして水和していないところか氷の部分が増えていくと他方に溶質粒子も集まり始め、最後には水と溶質粒子がわかれてひとまとまりの氷になります。(その時、水和している部分の水分子はどんな状態なのだろう。不格好ながら氷の構造の一部に連結しているのだろうか?それとも?)。

 

ここまではいいだろうか。いいとしよう。さて問題は融ける時のことです。

 

結論からいえば水溶液の氷の融ける早さは①「溶けている粒子の個数と大きさ」、②「溶けている粒子の性質」、③「溶媒の比熱」の三つが影響していると考えられます。ここでは溶媒は水のみで考えているので③は考慮に入れません(溶媒が水の場合や例えばアルコールの場合など他いろいろな溶媒の場合でも実験するとしたら溶媒の比熱も考慮しなければならないです)。

②「溶けている粒子の性質」は教科書的定説としては凝固するときには関係はありません。それはルシャトリエの法則から説明できるということでした。しかし融ける時は、溶けている粒子の種類によって異なる熱伝導が影響すると考えられます。熱伝導の高い粒子が溶けているとそれだけ熱を伝えやすいと予想できるからです(他方、しかし本当に凍る時には熱伝導は影響していないのだろうか。影響しているとしても無視できるあるいは観測できないほど小さいのだろうか。そんな疑問があり「教科書的定説」としていました)。ともあれ融ける時には、熱伝導が影響しやすいと考えられます。そうだとすると同じ量の水に無機物の粒子が例えば2個と有機物の粒子が同じく2個溶けているとしたら、凝固点は同じですが、融点は違ってくるといえます。

さらにここに①「溶けている粒子の個数と大きさ」が影響してきます。なぜ影響するか。それにより起きる対流の起きやすさが違うからです。起きやすい方がどんどんと溶けていきます。無機物の粒子は同じ一個だとしても有機物の一個と大きさが全然違います。有機物一個の方がとても大きいです。どちらの方が対流がよいかといえば無機物の方です。このように粒子が同じ一個でもその大きさの違いのために対流の起きやすさが異なるため、無機物の方が早く溶けるということです。

こうして同じ量の水に無機物の粒子が例えば二個と有機物の粒子が同じく二個溶けているとしたら凝固点は同じですが、融点は無機物の水溶液の氷の方が低く、融けるまでの早さも無機物の水溶液の氷の方が早くなるといえそうです。

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融点の側は凝固点降下(ルシャトリエの法則)では説明できないことによって影響を受けているのです。

 

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↑こうしたことを教えてもらえる先生がいる中学生や高校生の頃であればー理学専攻の大学生の頃でもいいのだが、理学専攻の大学生としては簡単な内容かもしれない―、「先生、ここどうなっているのですか。教えて頂けますか?」などと尋ね教えてもらうこともできるかもしれないが、先生がいない大人で理学専門ではなかった者が、こうした疑問に引っかかり、じぶんで何とかしようとするととても大変。結果に対してもびくびくもんです(理学専門のネトウヨみたいのが現れて、絡まれたらどうしょうとか)。逆にこれを鵜呑みにする良い子がいたらどうしようとか。それも心配。

「先生がいるということはとてもありがたいことです」と先生のいない知力も衰えつつある私はせつに思いますよ。

そのうえ、小説よんでケタケタ笑ってる自分からしたら、こうした理系的なものに集中できる方は、なぜそうできるのかと疑問に思いますね。正直、小説からしたらそれは色気も味もない。じゃりっじゃりっと砂を噛んでいるような感じです。自分の場合は理が通っているかどうかを第一に考え、これを考えてみましたが(理を大切にしているから、小説が面白く読めるというところもあるのですが)。

「見えているwriter’s dying words」あるいは「見えていないwriter’s dying words」から始めよう?

デカルトの〈我思う故に我あり〉は、そう言い切っている自分も含めて表現するならば「〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり」となる。さて自分自分ひとりで自分だろうか。自分自分させている他者自分にはいるのではないか。いるとすれば「〈〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり思う故に我あり」となる。他者は幾人いるだろうか。無限。少なくても自分だけは含めたい、言葉に乗っ取られたくないとすれば、〈我思う故に我あり〉は「〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり」で完結する。ただしその最後の「我あり」の後には表記されていないがありえているものがありえている。(私は見えないと忘れがちなので)それを☆と記せば「〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり☆」となります。この星の如く存在は、数人の他者あるいは無限の他者の後にもありえています。それぞれ違います。働きは同じです。それにはそこから何かが始まる可能性がありえています(ゆえに最後は例えば数字に親和性があるともいえます)。

 

さて文章には作者がいます。しかしその文章の読者にはその作者は時にうっとうしい。なぜか。作品を読むという行為はまずは個人の取り組みだからです。作品に何か見つけたらそれを自分だけではなく他者にもわかるように表現します。それまでは作者には死んだようにして黙っていてもらいたいのです。「読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない」というバルトも私と似たようなことを考えていたかもしれません。

 

ここで作者=自分とすれば自分が単体で存在しているとすればその作品は「〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり☆」の如くで完結します(とすれば「作者なき作品という作品」も考えられます。作者=言葉の場合です)。作者=自分とその他者、であれば「〈〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり〉と思う故に我あり☆彡」の如く作品で完結します。

 

先ほど、そのどの場合も、最後の「我あり」の後には「表記されていないがありえているものがありえている」として、それを「☆」や「☆彡」で記しました。作品を書いている者が作者だとしたら、その記は「作者の死体」でしょうか。違います。「作者の死体」をいうのであればそれは最後から2番目(記の一つ手前)です。それは通常、「作者の死体」ではなく「作者のサイン」と呼ばれるでしょう。「☆」や「☆彡」といった記は「作者のサイン」の後にありえています。強いていえば「writer’s dying words(辞世の言葉)」です。

とすると、バルトのいうように「読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない」としても、そういうよりも「読者の誕生は作者の半ば死によって贖われなければならない」といいたくなります。その意図するところは、作者は死んでも「writer’s dying words」としては生きているからです。

 

「writer’s dying words」を記した場合、その「writer’s dying words」は呪術性をともなっていそうです。それにはその人のすべてがありえているにもかかわらず、その人はそこから離脱しているにもかかわらず、その人のすべはそこにありえているからです。例えばだからそれを例えば踏むと(かつて作者だった)者が生きていればどこかで「ギャー」とかわめいているかもしれません。死んでいれば自然の音が激しく聴こえるかもしれません。できればそこには踏み込まず問うようにして、詩人の如く態度でそこに語られなかったことを他者にもわかるように表現した方がよいのでしょうが、どうしても踏むというのであれば愛撫するようにお願いしますといったところでしょうか。他方、それが記されていなくてもつまり見えていなくてもそれはありえていますから、見えていなくても見えている時と同じ態度でそれに挑んだ方が怖い思いをしなくてすむかもしれません。ただ、見えていないと文章の残響、残り香、残温もりといったものに触れなおすあるいは問うということですから、それはとかく視覚に頼っていると困難だともいえます。

 

よほどの天才でない限り、いきなり作者ということはありえないです。基本的には後の世の作者もまずは読者から始めます。この意味で小説の普遍的スタイルなどと呼べそうなものがあるとしたら、冒頭、「見えているwriter’s dying words」あるいは「見えていないwriter’s dying words」から始める、といったものになるかもしれません。

「ある」からありえる別の可能性を損なわない科学の仕方について

同じ現象を経験しても、ない人にはないのだが、ある人にはありえてしまうようにしてその現象の内容についての問いが発生する。ないかあるかは、身体を熟させているか否かと、熟させているとしたらその現象を経験している時、その熟さを一旦解除できているかどうかにかかっているだろう。もっとも「熟させている」などといわずとも身体は「そもそも熟している」。進化論的に喩えれば身体には(例えば)自身が原始スープだった頃の宇宙のきらめきの記憶が保たれているように常にすでにすでに熟している。ただし生れ落ちた時代の文化に深く囚われているとそれはわかりにくい。わりにくいが囚われるなとも言い難い。むしろ囚われることが好ましいのかもしれない。その文化は、是非はともかく、先人から「あなたたちは幸せに生きてね」と祈られるようにして贈られたプレゼントによってありえていると私には思えるからです。例えば現代の文化は飢え死にで何万人も死ぬような文化ではないですよね。そのようにです。
ここで私が「問い」だと思うことは、問いがありえる場合の、問いの解決の仕方についてです。
問いに、極めて妥当な答を与える仕方のある学は、ひとつに科学です。ここでその仕方は、問いに対して仮の答えを立て、その仮の答えの正しさを証明する実験を構築し、実験がうまく行けば、仮の答えの正しさが証明され、仮の答えは答になり、その答を生かすようにして文化がかわる、という仕方で考えています。
しかし・・・と私は思ってしまうのです。この仕方においてふたつ気にかかることがあります。ひとつはこの仕方だと、問いからうまれる別の答えの可能性を奪ってしまうということです。どういうことか。例えば「鉛筆」は確かに書くための道具ですが鉛筆はときに人を傷つける道具にもなります。他の用地ならば用途もありえるかもしれません。この例の鉛筆に問いを相当させて考えると、問いの答えは一つではない可能性が問いにはあり続けているでしょう。たとえ妥当でも「これが答えだ!」としてしまうだけでは、その可能性を塞いでしまいます。塞ぎたくないと私は思っています。
もう一つ気がかりなことは、科学はその答えを生かすようにして文化をかえますが、その科学の態度は、宗教が神話を生かすようにして文化をかえていく宗教の態度と区別がつかないということです。時に科学は宗教を最も嫌うはずですが、なぜ同じ態度を?、という事が気がかりです。
私は、問いであれ、答えであれ、「ある」からありえる別の可能性を封じることなく、問いには答えを与え、答えは文化をかえていくというという仕方の、科学を考えているのです。

「ただ私だけが生きている」から

九人いても誰もいなければ誰もいないまま過ぎていく。ただ私だけが生きている。

誰かいる時はいてしまう。こればかりは私のことながら私にはどうしょうもない。誰かいる時は、いると感じている自分も誕生している。

その時、その誰かをある観点から誰とすることで誰かと誰かがいると感じている自分の区別を誰と自分というように明確にしないまま、誰かいると感じている自分が誰かに関わるとあるいは関わらないと感じている自分が誰かに「侵害」することになる。とすると、そもそも誰かをある観点から誰とすること自体が誰かいると感じている自分の誰かへの侵害といえる。しかし誰としなければ「侵害」を行うことになる。が、誰としても侵害していることに変わりはない。この侵害を「侵害」と区別し「根源的侵害」とする。

一体、自分には誰かと感じている自分を誰と自分に区別した理由があるのだろうか。あれば半分は根源的侵害はなくなる。が、あったとしても誰からすればその理由が残り半分の根源的侵害を補強しているともいえる。しかしその理由がなくては全力の根源的侵害をなすことになる。自分としてはそれは避けたい。行き詰まった。

というのであれば、その理由が誰でも自分でもない第三者の生存にとってなくてはならない理由とするようにデザインすることで残り半分の根源的侵害をなくしたら?と私は自分へと提案した。自分はその提案を受けた。

こうして私は誰、自分、第三者から成りつつも同時にその守護でもある存在へと変成した。

あたりには6人いた。

「自分」の存在様態をかえる

例えば。「自分と自分に親和する誰かには親和性がある。違いはそれぞれのらしさ。親和性はあの第三者(達)にも見出せる。この、基本三者の関係を調節する管理者がいる。管理者の相談にのる管理者がいる。管理者の始祖がいる。この〈基本六者の関係を調節する管理者〉、〈その管理者の相談にのる管理者〉、〈管理者の始祖〉。その他としての【別人】がいる。ここでの登場人物は基本十人。関係づいている。しかし例えば前三者と後三者は別々に、前三者でも自分と自分に親和する誰かは一緒にあの第三者は別に、後三者はそれぞれ別に住んでいるというように、個々がありつつ、全体としてはつながっているが、切れているところもあるようにしてつながって生きている。」とする。

すると例えば自分が傷つくと、その影響は残りの者にも及ぶことになる。そしてそれぞれ連係プレーをするようにして動き、全体的再生へといたるということもあるかもしれない。その時、自分も回復している。

こうした役割は例えば入れかわる場合もあるし、例えば十人の内の数人が別の十人と同じように連携していたりする場合もある。他の場合もとてもある。つまり極めて複雑で重層している。

現代的な自分の存在様態は、あるひとつの名詞(名前)を与えられたこのただひとりとしている。しかし自分の存在様態を、示したように複数で存在しているとすることもできる。それは伝統的には、家族、親族、職人集団、芸能集団などとしてありえていたかもしれない。しかし必ずしもそうでなくてもありえる。むしろ家族等であっても現代的な自分の集まりとしてそれらをとらえていたら、複数で存在している自分を生きられなくなる。

 

善良な心をリーガルマインドから守るには?

新見南吉『ごんぎつね』(昭和7年)と安倍公房『プルートーのわな』(昭和27年)から。

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『ごんぎつね』の要約。

雨上がり穴から出たごんは河原に行った。兵十の漁にうなぎをみつけて逃がすといういたずらをしていた。そこへ兵十がやってきた。ごんは逃げた。兵十はごんがうなぎを盗んでいると思った。数日後、兵十の母が亡くなったことを知ったごんは、あのうなぎは母に食べさせるものだったのだろうと推測し、いたずらしたことを後悔した。

ゴンはつぐなうためにいわし屋からいわしを密かにつかみ出し兵十の家に投げこんだ。兵十はいわし屋から盗人扱いされ酷い目に会う。それを見たゴンは反省し、拾った栗をそっと兵十の家に頻繁に届ける。栗が届けられることを不思議に思った兵十は加助に相談する。加助は「それは兵十のことを心配する神さまのしわざだ。神さまにお礼したほうがよい」と兵十に助言する。それを聞いたゴンは「つまらない。神さまにお礼が行くのでは、引き合いに合わない」と思った。それでもゴンは栗を持って行く。

その姿を見た兵十は盗人ごん狐がいたずらしに来たと思い銃で撃つ

ごんに近寄った兵十はごんか栗を持っていることに気がつき、ごんに「お前が栗を持ってきてくれていたのか」と尋ねる。ごんはうなずく。兵十は銃を落とす。銃口からはまだ青い煙が出ている。

プルートーのわな』の要約。

倉の二階に、オルフォイスとオイリディケというねずみの夫婦が住んでいた。オルフォイスは偉大だった。他のねずみ達はオルフォイスに「王様になってくれ」と頼んだ。オルフォイスは拒否した。その代り「君主ではない元首を持っている政体」(共和国)を薦めた。採用された。オルフォイスが初代元首(大統領)に選ばれた。倉内は繁栄した。倉外には猫たちがうようよしていた。ある日、倉の持ち主の人間が倉に入ってきて、倉の戸を半分開けっ放しにして出て行ってしまった。倉の中にプルートーという名の残忍で名高い老猫が入ってきた。他のねずみ達は怯えた。

プルートーに鈴をつけさせよう。誰が行くのか」と議論した。「それは無理だ」とオルフォイスは説いた。しかし誰もきく耳を持たなかった。説得をあきらめたオルフォイスは「交渉の余地がないわけではない、それが皆の総意ならばやってみよう」と壁越しに交渉に挑んだ。首に鈴をつけるという取引に成功した。オルフォイスが鈴をつけに行こうとすると、万が一のことがあってはと他のねずみ達がとめた。オイリディケがプルートーのもとへ向かうことを志願した。いくら待ってもオイリディケは帰ってこなかった。オルフォイスもプルートーのもとへ行った。オルフォイス「オイリディケを返してくれ。どこにいる」プルートー「いるところにいる。おれが知っている」。プルートーは、倉の二階に帰るまで後ろを振り向かなければ、後ろからオイリディケをついていかせる、振り向いたら殺すと条件を出した。オルフォイスは振り向かずに二階へと進み始めた。

途中で後ろにオイリディケがついてきていない、だまされたと気がつき振り向くやいなやオルフォイスはプルートーに殺された

プルートーは「おれが悪いんじゃない。約束を破ったオルフォイスが悪いのさ」といい、二階を見上げ、水を飲みに外に出て行った。

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この二つの小説、内容や展開が似ている。解決すべき問題が否応なしに起きてしまう。問題の解決が試みられる。解決しそうな瞬間、「殺行為」(要約傍線部)が起きる。「悲劇」感を醸し出すように終わる。というように似ている。

なぜその終わりに「悲劇」を感じるのか。兵十もプルートーも無自覚的か自覚的かはともかくルールを守ることを最優先することで「殺行為」がなされる。当然だが、当事者たちは何のためらいもなくまさに当たり前にその行為をなす。その当たり前さには問題を解決しようとしている者の善良な心が隠されている。手遅れになってからその心に気がつく。こうした理屈からだろうか。

 

こうしたことが『ごんぎつね』と『プルートーのわな』では裏腹的に描かれている。

 

「統合失調は先駆的に物事を憂う。狩猟生活と馴染む」「うつは後の祭り的に物事を憂う。農耕生活と馴染む」というようなことを木村敏さん、中井久夫さんがどこかで書いておられた。

 

この二つの小説はどちらかというと「後の祭り的」な終わり方をしている。当時の作家は「うつ的な者」が多かったのだろうか。ごんやオルフォイスが「善良な心」でありつつも「悲劇」に終わらないためには、問題解決の手段を講じた直後(あるいはうなぎや猫を見た段階で)、すぐさま統合失調親和者的にこのままではまずいことが起きるかもしれないと憂い、もう一つの手立てを講じることができていたら、小説は違った内容で、その価値を損なわず書かれうるかもしれない。

 

「頭の良さ」の根底には「泥臭さ」があるはず

私たち日本人が最初に「証明」について学習する機会は、近年では中学二年生の数学における「合同な図形」の証明だろうか。この証明の仕組みは概ね、まず合同条件の確定があって、それは一旦おき「図形Aと図形Bは合同だろうか」という問題にあたったとき、その二つの図形に合同条件(証拠)が見出されば、その二つの図形は合同であると証明されるという道筋ですね。

ところでこの合同条件自体は、この数学の証明の仕組みにおいて正しさが証明されるようにしてありえているのか、それとも何度も何度も実験的に検討がなされた結果、「これはおそらく妥当」というようにしてありえているのか。

 

少なくても授業においては「合同条件」とは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果としてだろう。証明的に示そうとしたら、まだ学習していないことを用いてこれから学習することを学習するという矛盾に陥るからですね。「合同条件」くらいならば、そう何度も何度も実験的に検討しなくても確定できる気もします。

しかし数学の証明の仕組みをすでに習っているとしたら「合同条件」も数学的に証明しうる。が、とするとこの数学の証明の仕組みはどのようにして身につけたのか。他分野から借りてきたものか、それとも数学独自のものなのか。独自のものとすれば、その妥当さの確定は「数学の証明の仕組み」とは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果としてだろうか。

 

社会学と数学はつながることがある。このつながりは、あるとされる問題について、多くの情報を手に入れ、素早く選別し、組み立て、答えを導き出す、他者にもわかるように導きだすというという「頭の良い仕方」による。どのように社会学において数学がどのように働いているか。社会学はともすると社会学を専攻するものの個人妄総学に陥りやすい(も妄想かもしれないが勘弁)。が、その妄想さが社会学の原動力になっているかもしれない。しかしやはりそれは妄想だ。だからか妄想を語りつつもその妄想を補正するようなかたちで極めて客観性が高い数学を援用するのかもしれない(数学だけではというところもあるが)。

 

「合同条件自体は、この数学の証明の仕組みにおいて正しさが証明されるようにしてありえているのか、それとも何度も何度も実験的に検討がなされた結果、「これはおそらく妥当」というようにしてありえているのか」という問いに惹かれている自分は、この「頭の良い仕方」が退屈なのかもしれない。知についての活動の現場では、ある問いについてそれは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果、その問いに対するその答えは妥当という答えの出しかたでの活動の仕方が、もっと胸を張ってもいいと私は思っている(そんな私はファラデー‥ファラデーの法則のファラデー‥をリスペクトしている)。