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オ・ペダナ・ナ・コメフ・ト・デダナ・ト・コメフ

物-例えば石-は音をたてない。たてるとすれば、音をたてるように人工的につくられた物の音か、幻聴だ。が、音をたてるはずのない物から音を聴いたという報告の内容を「幻聴」に分類し、薬を処方するだけが精神科医の仕事だろうか。

古代のキリスト教会では自国語の他に「異言(いげん)」が語られていたと中山元は記している。自国語にとっての他国語という異言と、解釈する者がいなければ他者には全く理解できない言葉(パウロ)という二種類の異言があったという。

こうしたキリスト教会は当時、どのような様子だったのだろうか。日々、神父と信者で行われているキリスト教を支える言語が自国語だ。その教会の外から少なくてもひとりは信者でない者が二人やってくる。二人とも自国語でない言葉を話しているが、そのうちひとりの言葉は聞いたことがあるという者-おそらく商人の血筋の者―が信者の中から名乗り出て、通訳をすることで、意思疎通ができただろう。しかしもうひとりは全く聞いたことのない言葉を話していた。すべてを知るという博学者に尋ねてもわからないという。だが話しかけられているとはわかる。ここで中山元はその言葉の者としてアントナン・アルトーを挙げている。アルトーその残酷劇で「オ・ペダナ・ナ・コメフ・ト・デダナ・ト・コメフ」といった「舌語」を多用しているという(「舌語」とは喃語的、統合失調症の患者の言葉的言語のことです。音楽でいう「倍音」のようなことですしょうか)。この言葉は通訳できない。解釈はできる。解釈は試論的だ(正答がないのだから)。だからどうしても最後に「~と私は思う(あなたは?)」というように解釈の後に「あなた」の余地を用意するいうなれば[印]―ここでは「~と私は思う」-をつけたくなる(試論を通論のように話すわけにもいかないし、仲間と生きている以上、絶対的な自身があるわけではないから)。

「舌語」といえば、かの『天空の城ラピュタ』の「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」(われを助けよ、光よ甦れ)や「バルス」(閉じよ)を思い出さないだろうか。これらも「舌語」と仮設する。シータが「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」というと、死んでいるようだった太古のロボットが動き出す。ハズーとシータが「バルス」というと、究極の科学の城ラピュタが一瞬にして崩壊していく。

中山元は「この意味で、舌語は、普通の意味伝達の役割を放棄した詩的な言語に近いものとなる。詩的な言語は、シンボルと社会秩序にひびを入れ、「切り刻み、語彙、統辞さらには単語さえ変形し、その舌から、声と身振りの差異がもたらしてくれるような欲動を取りだす」ことを目指す」(「異語と舌語」)と記しているが、ラピュタの例はまさにそうだといえると私は思う。

こう考えてくると、音をたてるはずのない物から音を聴いたという報告の内容は「幻聴」ではなく「舌語」を聴いたかもしれないと考えられないだろうか。だとすれば、音をたてるはずのない物から音を聴いたとすれば、かわらなければならない。アクション。死んでいるようだった太古のロボットが動き出したように、究極の科学の城ラピュタが一瞬して崩壊したように(「バルス」には閉じよという意味だけでなく再生という意味も込められているという説もあるが、そうかもしれない)。こうした変化・生成を支えることもまた精神科医の仕事ではなかろうか。

もうひとつの手もある。聴いた音を無視する。無視しても無視しても聴こえてくるのであれば、黙らせるという手もある。こちらは、とかく「助け声を無視するなんてひどい、暴力だ」となる(なぜ「助け声」か。声が出ている時は助けを求めている時だという傾向があるということですかね。もっとも溺れる者は藁をも掴むということもありますね)。ともあれ例えば建築のように何かつくっている時は、聞こえるはずのない音を聴いたとしても、いちいちかわっていたのでは、いっこうに完成しないということもある。あえて無視する。あえて黙らせる。ただしプロは、建築づくりの際に音楽が流れていても、聴こえてこないですね。

最後に。「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」「バルス」が「舌語」だというのであれば、「音をたてるはずのない物から音を聴いた」「幻聴」もまた「舌語」ではないか。これは多様な自国語を認めようと述べているのではない。話された言葉が明らかに自国語だとしても、そして聞き手がいるとしても知っている者がいなければ、それは舌語だという意味で。

ならずになる(変化-生成する)

時折、「この人、凄いな」と思う人に出会いませんか。その時、その人の「凄さ」が自分でわかっているということですよね。だとすると自分でもそう成れそうな気がしないでしょうか。しかしなぜか成れない(成れていない)とも思いませんか。一度くらいは自分もそんな「凄さ」の境地に到達したくないでしょうか。どうしたら到達できるのでしょうね。「そう問うているうちは駄目だ」とか「ある意味、もう到達しているよ」という応答は禁じ手という条件で進めていきます。

「〈幸福〉について考えないでいられるときが幸福だ」と聞きますが、その如くな状態の時、まさに「凄さ」の境地に到達しているといえます。そのためにまずは「進んで盲(めしい)の如くに生きること」が大切だといわれています。ここで「盲の如く生きる」とは「自分はどのような現実に生きているのかのそのどの、自分は誰なのかということのその誰を忘れて生きる」こととします。これは始まりは何でもいいといえば何でもいいということですね。それ、が始まりということです。しかしそう生きている自分は自分のことながら自分ではわかりにくいです。だが必ずしもわからないということではないです。例えば「考えながら・動く」といった同時に別々の行為をなしうれば可能ですが、通常的にはその行為はし難いです。事後的にわかろうとすることはどちらかといえばし易いです。「事後的にわかろうとする」とは、「自分はどのような現実に生きているのかのそのどの、自分は誰なのかということのその誰を忘れて生きた」後に、そう生きた自分の跡-ここでは「それ」でした―を、そう生きた自分から離脱した自分で、味わうようにすることから初めて、そう生きた自分が何であるのかわかろうとすることです。

しかしそう生きた自分の跡に「おや?」と思えてしまうような違いがありえなければ生きた自分の跡をいくら味わってもそれは生きた自分の跡にすぎません。ありえればわかるかもしれないです。基本的にはないです。しかしあるときは否応なしに見つかります。けども「探そう!」とするとむしろその探そうとする意識が邪魔してありえないこともあります。味わうとは難しい行為なのです。味わう対象に過不足なく接し続けなければならないようです。けども違いがありえればわかりうる。ここでは「部分がわかれば全体がわかる」という考え方に従っています。

ありえてしまった違いの扱い方は、ありえてしまった違いを非対称の二観点からそれが何であると具体化され、その具体化されたものはこういうことだと例示されると、それらではない存在としてありえてしまった違いの違い性が際立つというものです

ありえてしまった違いをそう扱えたまさにその時、離脱した自分は、自分が望む始まりに生きています。その始まりが「凄さ」なら「凄さ」たるように、ここまでの過程をデザインすればよいのです。それにはまず「自分はどのような現実に生きているのかのそのどの、自分は誰なのかということのその誰を忘れて生きる」のです。しかしそのままではダメです。何度もいいますが「成るというのは間違いです」。(『影との戦い』のオジオンもゲドに「鷹になってはダメだ」と忠告していますね。成ってしまうと例えば『沈黙』のガルぺ神父の結末の如くで終わりです)。

群論的操作(例えば「ルービックキューブ」)は視野をシェイクし・再構成する

中井久夫さんはその著『こんなとき私はどうしてきたか』で次のように述べています。「境界例の患者が入ってきたりすると、治療方針をめぐって病棟が割れることがしばしばありますね。そんなときにはスタッフに休んでもらうのも必要です。車を走らせてぱぁっと野遊びをするのも一法です。短時間で済みます。自動車の席で話をするとふしぎに争いの程度が減ります。自然な眼球振盪が役に立っているかもしれません」、と。

視覚による認識(視野)は揺るぎ難い。朝起きて町の風景を見たら町の風景がガラリと変わっていたということは通常はありえない。争いはその最奥で視覚による認識に支えられているかもしれない。だとするこの視覚による認識がゆるみ、(別、外、他など、と)混じり再構成されたら、ひょっとしたら争いが未知のステージに移行するようにしておさまるかもしれないということだろうか。

が、それは解決すべき争いが起きている時のことだ。普通的には、そうした視野の揺ぎなさを享受して昨日も今日も同じ自分として自己同一性を保ちながら生きることができている。毎日コロコロかわっていたら例えばコーヒーの味もないでしょうね。(だから建築家は古くてもよい建物を保存しようとするのだろう。逆にだから建築は愛国的なものと結びつきやすいともいえる)。

以前、勤めていた中学で喫煙する生徒への関わり方をめぐり職員会が荒れていたことがあった。生徒指導係が「喫煙している生徒がいたら必ず注意してください。見つけても指導しない先生がいるとの報告も来ています。みんな団結して喫煙している生徒がいたら注意しましょう」と宣言したからだ。法律で禁止されている年齢の生徒が喫煙することが解決すべき問題であるということは同意できる。が、その生徒指導係の態度は如何なものなのだろう。喫煙を禁止することは、大人の医療の世界でも容易ではない。喫煙・禁煙については、ちょっとしたことで大激論が起きる。最近では『風立ちぬ』の喫煙シーンは如何なものかなどと。手立てはそれぞれというところがあるのでははないか。解決したいある問題が起きてしまったが、どうしょうもできないでいるとき、おそらく、その問題の解決のために、みんなが同じことをするというのは、解決からさらに遠ざかるのかもしれない。というのも、例示したような視覚による認識をゆるめ、何かしらを介して、再構成すると争いがおさまるかもしれない等という一見すると「極めて個別的な試み」が普遍性をもつという可能性が頭から禁止されてしまうからだ。同じ著で中井先生は次のようにも述べている。「あるとき、医師の治療方針を統一するかどうかで大議論になったことがある。当時は、病院がそれぞれ生活療法とか精神分析治療とか、セールスポイントを打ち出すことが多かった。アンパイヤ役になられたのは慈恵会医科大の児童精神科医・中川四郎教授で、午前二時までつきあってくださって、「いまの皆の話を聴いていると、それぞれが自分の最善と思う方法でやるのがいちばんうまく行くと思う」と言われた。この結論は病院の活気に貢献したと思う」。

こうした組織運営の仕方がありだからRDレインの報告したかの有名な事例もありえるのだろう。「ある看護婦が、ひとりの、いくらか緊張病がかかった破瓜型分裂病患者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。〈だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです〉(『自己と他者』)

この患者さん、これだけでおそらく慢性の病気が治ったのでしょうね(一杯のお茶をいただくことなんてそれまでに幾度もあっただろうに「〈はじめて〉」といってるとしたらそう推測したくなります)。

すると絶対とはいわないけどー普遍性をもつことがあるからー、悪口らしきをいうひとがいるのです。(いうにしたって悪口じゃなくてもいいのにね)。その悪口は「そんなの精神医学の治療ではない」とか。「偶然だ」とまではいわなくても―一応、資格があるからかー「それは唾棄すべき民間療法だ」とか。

そう悪口いうひとにとっての精神医学はどれたけカチカチになっているのだろう。その真面目さは患者としてありがたいし、それで救われた患者もいるだろうが、それが患者を苦しめ続けることもあるだろうし、その真面目さが権力闘争という白い巨塔的世界をつくり、そこで自分が苦しむことに自ら手を貸しているということもあるのではないかな。

中井さんも同じようなことを述べています(もっとマイルドですけど)。やはり同じ著で「私は退院や入院のときは患者さんの手を握ります、男性なら。女性に対しては手を挙げる。手を振る。患者さんは覚えていますね。「あいつは握手で治しているんや」という悪口を聞いたことがありますが、それで治るんだったら、結構なことでありまして。でもそう簡単にいきません」と。

どうやら精神医学に対する忠誠度が中井先生はハンパないのです。(ほかの精神科医はどうなのでしょうね)。

「誤配」なんてありえるのかしら?

怖い夢をみてはっと起きてしまうことがある。夢は体丸ごとでみているのだろう。体丸ごとで夢みているとき、その体はベッドならばベッドの上にあるが、夢遊病者的に多少なりとも動きながら夢みているのだろう。その動きはひとつに例えば「寝返り」とよばれるかもしれれないが、それは寝ていて体が疲れたから無意識的に寝やすいように体を動かしたからではなくて、体丸ごとで夢みているからと考えている。こう考えると夢みているときは起きているときの世界にもいるにもかかわらず、起きている世界のことは自分ではどうしょうもできないでいるといえる。

体には他々の体と生きてきた記憶のいくつもの片割れがあるとする。そしてそれぞれの片割れは他々の体の記憶の片割れへとそれぞれ開かれているとする。片割れと片割れとかがつながっているとき、記憶として再会している。再会しているとき、記憶が最新の現在として再生している。他方、再会していないとき、記憶は再生されない。片割れと片割れは切れるようにしてつながっているといえる。全く無関係であるのではないということです。喩としては丘から丘へと渡る蝶にとっての丘と谷のように、アセチルコリンにとっての各神経単位とシナプスのように、です。

とすると体丸ごとでみている夢の何かしらは、体にある記憶の片割れから他々の体の記憶の片割れへと伝わるのだろうか。蝶が谷を渡るように、アセチルコリンシナプスを渡るように、ある体が体丸ごとみている夢もまた、切れるようにしてつながっているというつながりを通して、他の体へと伝わっているのかもしれない。ただし、だとしても伝わるかもしれない他の体が、そこで、夢を見ている自分の体とではない体と記憶を再生していては、伝わりにくいかもしれない。何かに前のめりになっていると別のことが目に入らないように。逆に瞑想は感じるはずのない存在を感じようとあえてつながりを切る(特に目に関するつながりを切る)。が、再生していても伝わるときは伝わってしまうのだろう。戦争中、ダイモンに呼ばれてポカンとしていたというソクラテスの様に。このような現象は「虫の知らせ」と呼ばれる現象かもしれない。

夢の中に憧れのひとが出てきたら、今度、そっと尋ねてごらん。「あなたわたしの夢みていた?」って。ひょっとすると…。

〈なる〉というのは間違いですよ

先日、以下の書き物した。

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2017-02-21

教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する

例えば善者vs悪者、男vs女、教員vs学生といった二項対立で社会システムを考えていた時代、弱者は悪者であり女であり学生であった。その者らは敵つまり善者、男、教員からの自由を叫んだ。が、自由にした先には何もなかった。見かねた社会学者が「自由とは何々からの自由ではなくて何々への自由だ」と述べた。だがこれは敵への自由という意味だけではない。二項対立が一項では成立しない以上、敵への自由をいうのであれば、弱者への自由もまたいわれねばならない。さて弱者は(弱者からした)敵からしたら弱い敵ともいえる。だとするとオルテガは「自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する」とその著『大衆の反逆』で述べたが、まさにその通りだといえる。

教員にとって最も難しい仕事は授業の場にいるにもかかわらず決して授業を受けようとしない学生の扱いについてではないか。授業の場にいながら授業以外の何かしらに囚われている学生の扱いについてだ。この学生を無視することあるいは追い出すことは容易だろう。その二つを禁じ手とするのであれば、教員は授業中、裏返り、その学生のありさまの変化・生成を試みなければならないはずだ。対話的な場に出なければならないのです。ありさまの変化については何があるのかを問い続けてきた哲学的思考(ハイデガー的哲学)が、変化したありさまからの生成については終わり方に注意し続けてきた芸術的思考(レヴィナス的哲学)が力を貸すだろう(ハイデガー的哲学とレヴィナス的哲学の接続の理論は自分の場合、数学が担っていると考えている)。

こうして学生のありさまが一変すれば、必ずしもではないが授業に取り組むようになるかもしれない。ならなくても何かにとらわれているだけの時に比べたらひとつ成熟したといえる。ここで裏返っていた教員は表返り、今度はそのありさまが一変した学生の存在を起点にそれまでの授業のありさまを一変させる。あるいは一変させないという一変をさせる。こうして「落ちこぼれ」以前のおちこぼれを出さない授業が可能となるのだろうか。

この授業の枠組みはメルロポンティの可逆性的思考による。可逆性的思考において伝統的な哲学的思考あるいは芸術的思考(背後には数学)が生きているということです。オルテガの言葉をもじれば「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」のです。となるのだろうか。

この授業の枠組みはメルロポンティの可逆性的思考による。可逆性的思考において伝統的な哲学的思考あるいは芸術的思考(背後には数学)が生きているということです。オルテガの言葉をもじれば「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」のです。

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すると賛成あるいは反対でいえば、自分としては賛成できる論者―どちらかといえば産経新聞的な書き物に同意しない論者―から「いつもの反応」が返ってきた。どのような反応かといえば「それはしないほうがいい」という反応だ。「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」という態度で授業に挑むと、その態度での授業はかなり教育的な成果を上げることが予感されるが、ファシリテーターが育成されていない現状では、小中の教員のグダグダな説教を垂れ流す事だけになるからやめた方がいいというものだ。産経新聞ならば次の様に報道するだろう。以下は翌日の産経新聞の報道です。(やはり釣れた。比較的大物ですかね)。

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校舎内で女子児童にわいせつ行為の疑い 長野・大鹿小の教員逮捕(産経新聞

 長野県警飯田署は22日、学校内で10代の女性にわいせつな行為をしたとして、強制わいせつの疑いで、同県大鹿村立大鹿小学校の教員、唐沢慧容疑者(31)=松川町元大島=を逮捕した。容疑を認めているという。

 逮捕容疑は平成27年2月20日と同3月17日、南信地方の学校で同地方に住んでいた10代の女性に対して身体を触るなどわいせつな行為を働いたとしている。

 学校関係者などによると、唐沢容疑者は勤務していた大鹿小学校の校舎内で、当時高学年の女子児童に対して犯行に及んだ疑いが持たれている。

 県教育委員会によれば、唐沢容疑者は26~27年度は県教委に、28年度からは大鹿村教委に講師としてそれぞれ任用され、同小学校の教壇に立っていた。

 県内では今年度、教職員によるわいせつ事案が相次ぎ、明らかになったのはこれで8件目。

……

教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」という態度の授業はどうだろうかという事を述べると、普段は産経新聞と仲が悪く見える論者も産経新聞と同じような意見を述べる。この点、産経新聞の方が危険性を具体的に的確に指摘してくれる。そうはいっても新聞社です。

授業において教員が裏返ると、それは教育的にとても成果をもたらしそうなのだが、ともすると論者の懸念や産経新聞の報道にあるように教育関係内で例えば(いわゆる)「公然わいせつ事案」などの(いわゆる)「犯罪」が起きる。ただ見分けは難しい。それは授業部外者からすると明らかに犯罪だが、当事者たちには違う事もある。が、大抵は「犯罪」になる。そうなるのです。当時は違っても後から犯罪になってしまうのです(「〈なる〉というのは間違いですよ」と亡き師はいった)。こうした事例は、少し前では「奇妙な女子学生」を「助けよう」として全裸になった大学講師の事例(本当に助けようとしていたのでしようね)、古くは四国・香川大学教育学部の心理系の教授が研究成果に基づき女子学生の「治療」をなして問題化した事例(本当に治療しようとしていたのでしょうね)などだろう。

境界で活動することの危うさについてはカウンセラー養成の場では十分になされていたし今もなされているのだろう。例えばかつて河合隼雄は、教育と恋愛は似ていてそのような状態にいたることが教育上好ましいのだが、極ごく稀な場合を除き、教員が学生の恋人にならないように教員は注意しなければならない、というようなことについて述べていた。例えば『カウンセリングを考える』(河合隼雄)では「本当にどこまでわかっているかということになってきますと、結局、自分はそういうことをやり抜くだけの資格とか責任とかいうものを本当にもっているのだろうか、ということになってくると思うのです」と述べている。こう考えてくると、かつて教育行政は教員にカウンセリングマインドを望んだが、なまじそうしたマインドを身につけ生徒に関わると、容易に犯罪を起こすからやめた方がいいのではないかと思う。そのうちに教育社会学者が「学び」を掲げている教育地域や教員のカウンセリングマインドの涵養に力を入れている地域の教員とそうではない地域-就職や進学に力を入れている地域―の犯罪について調査するのではないか(もうあるのかな)。ちなみにおそらく政府が主導する愛国的な教育を推進する地域は「学び」やカウンセリングマインド涵養地域よりも犯罪率が高いかもしれない。一番安全な教育の仕事は就職指導や受験指導。けどその背後でね、というところがいつも問題。

ここら辺は(若いと?)悩ましいところだ。東大教授の田中志智は『〈教育〉の解読』でこう問いを立てている。「この〈学び〉やダイアローグの危うさと、〈教育〉の物語=神話の危うさ、私たちはそのどちらの危うさを引き受けるべきなのだろうか?しかしそれは、私たちがそれぞれ個体として選択する問題である。そして倫理なるものは、この選択のなかにこそ生じる決断にほかならない。それは断じて教育的なものではない」。

「個体として選択する」に従えば、わたしが教員で気楽に仕事をするとしたら「〈教育〉の物語=神話の危うさ」にのっかる。授業の場にいながら授業に取り組もうとしない生徒がいたら、すぐにしかるべき手続きに従い教育的指導を行う。その後はいつものように自己実現の人生に向けてどんどん進んでいく(管理職試験なんか受けちゃうかもしれない)。が、というところがれいの背後の問題だ。いくぶん長く生きると田中教授のその言葉のように賢く(?)あられなくなる。反対派の意見は痛いほどわかる。でもその方々の近くには議論の対象としての「弱者」はいるかもしれないけどリアル弱者がいるようには見えない。リアル弱者が身近にいると容易に「〈教育〉の物語=神話の危うさ」にのっかることはできない。のっかているときそれが尻にしている事柄を反対派は確認しているのだろうか。自分はとてもではないがのっかれない(現場、特に子供の生活世界は、ある程度の瞬間、瞬間でどんどんかわっているようです。ガラリとかわっています)。だからどうしても「〈学び〉やダイアローグの危うさ」にも―強調するが「も」―のっかりたくなります。それはリアル弱者あるいは自分のため、どちらの者のためというのではなくてです。こうして両方のっかると、今の自分としては「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」的考え方の教育が望ましいと思います。けど犯罪的なことは決してしません。身を守るようにします。何もしていないのに例えば「犯されました~」などといわれたくないですからね。犯していなくても事実化していきますからね(ここは先ほど確認しました)。これはいうなれば「公式に非公式を公式に行う危険性」ですね。そう言った大学准教授は自分のいう様に犯罪者になってしまったのだろうか。それは嫌だな。元気になってよ。私といえば私は普通です。そんなの当り前じゃないですか。この書き物に惑わされないように。書き物ハンブンいや四分の一程度でお願いしますよ。じゃないとそのうち村上春樹の小説のメイやあゆみのよう這い上がれない穴に落ちてしまいますよ(わたしはひょっとしたらもう落ちているのかもしれないなぁ。それは自分にはわかりにくい。生まれ出ることはできるのだろうか。ヘルプミー)。

教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する

例えば善者vs悪者、男vs女、教員vs学生といった二項対立で社会システムを考えていた時代、弱者は悪者であり女であり学生であった。その者らは敵つまり善者、男、教員からの自由を叫んだ。が、自由にした先には何もなかった。見かねた社会学者が「自由とは何々からの自由ではなくて何々への自由だ」と述べた。だがこれは敵への自由という意味だけではない。二項対立が一項では成立しない以上、敵への自由をいうのであれば、弱者への自由もまたいわれねばならない。さて弱者は(弱者からした)敵からしたら弱い敵ともいえる。だとするとオルテガは「自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する」とその著『大衆の反逆』で述べたが、まさにその通りだといえる。

教員にとって最も難しい仕事は授業の場にいるにもかかわらず決して授業を受けようとしない学生の扱いについてではないか。授業の場にいながら授業以外の何かしらに囚われている学生の扱いについてだ。この学生を無視することあるいは追い出すことは容易だろう。その二つを禁じ手とするのであれば、教員は授業中、裏返り、その学生のありさまの変化・生成を試みなければならないはずだ。対話的な場に出なければならないのです。ありさまの変化については何があるのかを問い続けてきた哲学的思考(ハイデガー的哲学)が、変化したありさまからの生成については終わり方に注意し続けてきた芸術的思考(レヴィナス的哲学)が力を貸すだろう(ハイデガー的哲学とレヴィナス的哲学の接続の理論は自分の場合、数学が担っていると考えている)。

こうして学生のありさまが一変すれば、必ずしもではないが授業に取り組むようになるかもしれない。ならなくても何かにとらわれているだけの時に比べたらひとつ成熟したといえる。ここで裏返っていた教員は表返り、今度はそのありさまが一変した学生の存在を起点にそれまでの授業のありさまを一変させる。あるいは一変させないという一変をさせる。こうして「落ちこぼれ」以前のおちこぼれを出さない授業が可能となるのだろうか。

この授業の枠組みはメルロポンティの可逆性的思考による。可逆性的思考において伝統的な哲学的思考あるいは芸術的思考(背後には数学)が生きているということです。オルテガの言葉をもじれば「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」のです。

体育、音楽、国語、保健室

「勉強はできないけど野球があれば生きていける」と宣言している少年同級生を見ながら僕は「すごいな」と思っていた。なぜか。「大学合格=甲子園出場」で考えた場合、甲子園出場の方が難関だと自分は思っていたが、その難関さにチャレンジしようとしているように見えていたからだ。ピアノも野球と同じことがいえるかもしれない。ピアノを弾く少女の人数に対して、音大に入学する生徒の人数は限られ、さらに入学後、国際コンクールで賞を受け、華々しくデビューする人数はごく一部の者だという意味で。こうしたテーマを扱った作品が体育は重松清『卒業ホームラン』、音楽は宮下奈都『よろこびの歌』だろう。どちらも高校国語教科書に取り上げられている作品だ。

僕は体育も音楽も好きだが体育の授業や音楽の授業での体育や音楽は好きではなかった。先生が嫌いだったからではない。授業での体育や音楽のあり方が嫌いだった。どちらも―これは体育や音楽に限らないかもしれないが―〈評価〉や〈勝ち負け〉がつきまとっていたから嫌いだった。しかし〈評価〉や〈勝ち負け〉をなくした音楽の授業や体育の授業は、炭酸の抜けた炭酸ジュースのようなもので、それはそれなりの美味しさがあるとしてもあまり美味しいとはいえないと自分も思う。ある程度の〈評価〉や〈勝ち負け〉は必要だろうが、その程度がどの程度なのかは基準化できないのだろう(基準化されれば、すぐに逆手利用されてしまう。それは関係者の無能化を進行させるだけだろう)。

〈評価〉や〈勝ち負け〉の傍らにはなにがあるのだろうか。〈評価〉の傍らには〈開放性〉が、〈勝ち負け〉の傍らには〈受容性〉があるだろうか。だとすれば、その場所はひとつに「保健室」だ。保健室くる生徒には何かあるのだろう。その「何か」は、大抵、生徒の現在を縛っている。それがあるから今の自分がこんなになってしまっていると生徒を縛っている。しかし生徒自身のことなのに生徒自身にはどうしょうもできないでいる(その意味で生徒は呪いにかけられている)。ただただ「おかしい」「へんだ」という感じだけが現れている。

平野啓一郎さんが「過去はかえられる」ということを最近、よく述べている。要約すれば「過去があることは仕方がないし、現在は過去に縛られやすい傾向がある。しかし過去と現在を切り離し、未来から現在を生きれば、そうして現在がかわることで過去が違って見えてくる」というようなことを述べていたと思う(間違っていたらごめんなさい。平野さんの本を読んでみてください。ちなみに似た生き方として歴史修正主義的な生き方が挙げられますが、こちらは過去と現在を切り離すことも、未来から現在を生きようとすることもなく、ありえてしまう過去を羊頭狗肉的に取り換えようとするのです)。

この平野さんの「過去はかえられる」的な態度で、保健室に来る生徒も生きられたら、きっと、僕のような体育や音楽は好きでも〈評価〉や〈勝ち負け〉につきまとわれている授業の体育や音楽を嫌いという生徒も、一生、音楽や体育に取り組んでいけるのでしょうね。