終わりについて

何もなければ何もないまま生き続ける。時折、「ある」を実感してしまう。その「ある」を起点に、あれこれすると、‘「ある」を実感’したときの自分と’何もなければ何もないまま生き続け’ていた自分が変わることで、生きながらにして産まれたばかりの無なじぶんにいたる。このフッサール的「幾何学」にはそうした意識の流れが記されている。さて、この図、脇道も含めぐるぐるとつながっている。どこで終わるか。起源への哲学だったフッサールとしては、「何もなければ何もないまま生き続ける」が「生きながらにして産まれたばかりの無なじぶん」に至って終わりだといえる。図の④の形から始まり④の形に終わる。

 

「だか、終わることはまた、新たな始まりでもある。いったいそれは、何の始まりであろうか」(斎藤慶典『フッサール起源への哲学』。そう。終わった④の形から図としては続きうる。続けるのか。続けることには続けるのでしょうね。そうして生きているだけで何も無いのですから例えば自死すらありえない。続けるのだが終わりはどこか。それとも意識果てるまで続けるのか。「生まの存在」とはメルロポンティが最晩年とりわけて愛用した言葉だと聞く。それは「自分自身の文化のうちに取り込まれていないために、それによってかえって他の文化とも疎通しあえる」ような領域だと。この最晩年に愛用したことやその言葉の規定することから幾何学の図を読めば、④の形で終わり終わった④の形から始まり⑨の形で終わるといえる。これはたこ形領域(←「自分自身の文化」に相当)でのことだがたこ形領域は長方形を蝶番とするようにして台形領域(←「他の文化」に相当)とつながりうる。この長方形に最も「生まの存在」のらしさがありえている。

 

斎藤さんは『レヴィナス無起源からの思考』の最後で「もう、あなたにはお分かりだろう。この問いには答えがないのであり、幻とも現実ともつかないものが折り重なり・二重映しにも三重映しにもなる中でひたすら目を凝らし、眠り込まないよう警戒しつづける者、それが思考なのだ。そして思考の本懐は、それがひたすらあなたに向けて差し出される「言葉」たることにある」と述べている。

ここでの「この問いには答えがない」というその問いは答えがないという意味では、先ほどの問いつまり「続けるのだが終わりはどこか。それとも意識果てるまで続けるのか」という問いと同質ですね。終わりは「幻」であったり、意識果てるまで続けるは「現実」であったりもする。そしてそのこと自体は、④の次の⑤の形に示されている。これは⑤⑥⑦⑧⑨と続く線が「幻とも現実ともつかないものが折り重なり・二重映しにも三重映しにもなる」ということに相当するということです。

 

斎藤さんは続けて「目を凝らし」「眠り込まないよう警戒しつづける」としています。これは図では⑦⑧と⑤⑥の②①の部分に相当することです。⑦と⑧の部分を妥当にいおうとすれば、⑭まで進まなければならないです。しかし進めない。だが確かに道順としては通らざるをえない。⑧の部分は⑨との関係でいえることがあるのですが、⑦の部分は全くない。黙するしかない。このことが「目を凝らす」ということに相当するでしょうか。⑤⑥の部分は、一旦区切り、台形領域(←「他の文化」に相当)とつながった後でなければ、いえない。その反対側では②①もかわって、④の自分自身すらもかわる(作者の死的なかわりよう?)。ここらが「眠り込まないよう警戒しつづける」ということによって可能となる。

 

図的な可能性としては電気ドリルで掘り進めるが如くどんどんと進むこともありです。

 

少なくても昭和から平成のあたりを見渡すに、とかく人間がお互い関われないでいる、どちらも個人主義的に自己主張ばかりしている傾向がある様に自分にはみえているのですが、そうした現状からすると、この終わり方は妥当だと私は思います。なぜ関わらなければならないかって、常に既に関わって生きているのに、そのことに目をつむるようにして個人主義的に自己主張ばかりしていたら、ある日突然、生きるにあたりなくてはならないものを失うようにして、その方もなくなるということが起きてしまうかもしれませんからね。それは嫌ではないですか(この主張自体がこの主張のいう「個人主義的に自己主張」だともいえるので言いませんが)。

 

最後にこうしたことが示されていそうな人事を一つ、2つあげておきます。

 

「解禁されたキリスト教は、洗礼のためのドーム付小施設と集会用のバシリカの二つからスタートし、さらにそれぞれを元に本格的な二つの教会建築を生み出す。ドームを頂く円形や八角形平面の”集中式”と、縦長平面の”バシリカ式”である。」(藤森照信『フジモリ式建築入門』)

 

これは建築学科の西洋建築史の授業のテストによく

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出ることですね。もうひとつは次。

 

「当時、私ども同業の者には真の仲間意識がありました。仕事への姿勢に多少違いがあっても、本質的には、いわば「同じ布から裁断された」人々ばかりでしたから。今日は違います。今日では、供をつれたお客様というのがまずもってまれですし、たまにお供がついてきても、それは十中八九、サッカーのことしか頭にない新米従者です。夜も召使い部屋で火を囲むより、農民の紋章亭で-いや、最近の傾向ではスター・インでしょうか-一杯やったほうが楽しいという手合いです」(カズオ・イシグロ日の名残り』)

過去をありのままにみるということ

過去を振り返る時とはどのような時か。いき詰まった時ではないか。その時、今まで生きてきた自分とは別のじぶんが自分と分離される。このじぶんは、過去との連続性で規定されているが、生まれたばかりのようにして何もない。また過去がなければ当然ありえない(これは「過去はあるがないとしてありえている」ということです)。田崎英明さんは「自由は、現象からの引き篭りが現象するかぎりで、実現する。現象の明るさしかないところにも、また、反対に一切の明るさのないところにも自由は存在しない。この自由の実現する場がアーレントにとっての公共領域である」(『現代思想』)と述べているが、このじぶんはこの「公共領域」にいるといえる。

このじぶん、過去をありえたままにみることができないとしたら、まだいき詰まっていないかもしれない(何かしらまだ有りえている)。とかく有りえているのは「自由」です。好き勝手に何でもする「自由」。「自由」からそれこそ自由になっていない。

パソコンでプログラムを組むと循環の部分を組んでしまい永遠、進まないことがある。循環はとかく嫌がられる。他方、身体がありえている人間は、循環に陥っても例えば力尽きるようにして循環から抜け出すことができる。過去をありのままにみるといっても、過去はあるがないようにしてありえていた。循環に陥り、きっかけは何であれ、その循環から抜け出せたとき、眼前に広がるようにしてありえている何かしらが、あったがままの過去なのです。ただし仮設的です。

このようにしてなにもなくなり、過去をありえたままにみることができるようになると、今度は、「過去を振り返る」ことに囚われやすい。つまり循環から抜け出し、仮設的過去をありのままにみることができるようになってもそれだけ。その先に向かうことはし難い。

 

(その先に向かえれば、三度程いき詰まり振り返りがある。最後の振り返りは、過去を過去にしている存在(=過去以前の何かしら)を振り返るにいたる。そうしてもう一度、生きなおす。今度はいき詰まらずに生きられる。終わりはどこか。最初にいき詰りをした時。ただし最初と異なりいき詰まっていないし、三度目のその先へと開けてもいる。そこへいきうる状態で終わる。その時を予感させて終わる)。

フッサール的な「幾何学」の可能性

(アップした四角形についての写真を眺めながら)、フッサール的な「幾何学」の数学的可能性は、有名四角形―例えばひし形、正方形―などと一般四角形―四辺が有名ではない仕方で接続している四角形―を、あわせ考えられることです。この考えの根底には「事物の形が夜のなかに溶解する時、対象でも対象の質でもない夜の暗がりが、現前のごとく一杯に広がる。われわれが暗がりに釘づけになっている夜のなかでは、われわれは何ものにも関わっていない」(レヴィナス『実存から実存者へ』)とレヴィナスさんが述べる「夜の暗がり」を「四角形」の根底にみている(それとしてありえている)ということがあります。「夜の暗がり」から、’ある一般四角形’をあらしめる。それがフッサール的な「幾何学」の図の働きです。それはフッサールの言葉でいえばこうです。「理念化のさいに、空間時間的形態の領域の必当然的に普遍的な内実、あらゆる仮構的な変更において不変な内実が考察されるかぎりでのみ、あらゆる未来と来るべきあらゆる人間世代にとって追理解可能な理念的形象が生まれるのである。」(フッサール幾何学の起源』)

 

(ちなみに自分は社会的な問題ならば社会的な問題に無関心的になり哲学や数学にのめり込んでいるようなことになっているわけでない)。

 

こうしてありえる各四角形の変化生成的なひとまとまりのありようは、数学的には古くはリーマンの『幾何学の基礎をなす仮説について』を記したリーマンの「連続多様体」というありようと関りがあると私は思います。そしてその多様体の構造的な仕組みとしてひとつに「ゼータ関数」が働いているかもしれない。「ゼータ関数」とは例えばこうです。

 

小島「ゼータ関数についてもう少しお聞きしたいととしては、ゼータ関数という思想の背後にあるものについてです。そこには関数で実数全体を見よう、整数全体を見ようといった発想のほかにもう一つ、基底変換―視点を変えることによって数の順序を組み替えてしまうとでもいうのでしょうかーそういった思想がそこにはあるように思います」(黒川信重 小島寛之リーマン予想は解決するのか?』)

 

このような「連続多様体」は、作品では最近ではこのようなものがそうでしょうか(例えば藤本壮介さんのこの建築物や安藤忠雄、元総理の細川さんのこの陶的作品です)。

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'謎存在'があるのならば、謎存在そのものからはじめよう

「ということは、私のこの作図は、子供がいい加減に自分のデッサンにつけ加えてそのつどの意味を覆すいくつかの線(「これは家だ、いや、船だ、いや人物だ」といった具合に)のような、私の手のままに偶然に生まれた線の集まりでない」(メルロポンティ『知覚の現象学2』)ここでの「子供」の振る舞いは、古代の遺物にありえている文様が現代における例えば蛙に似ているからといって、それは蛙に違いないとする方の振舞と似ている。 しかしそうして振舞うことは「子供」でなくてもすることありますよね。謎存在に出会った時、とりあえず、これは何である(のではないか)とすることが(これは仮説を立てるという作業のことに近いです)。とすると、避けたいとことはあるいはとかくしてしまうことは「だから」と続けて(文様の例でいえば)「当時も蛙がいたに違いない」とすることでしょうね。

 

仮説的にしているとわかるようにしていればいいのかもしれませんが、そうでないと、「お宝」を「これはゴミである」「ゴミは捨てなければならない」という様にして失ってはならないものをそうと思うこともなく失ってしまうことがあるかもしれないです。そうしたことを避けるには、謎存在、例えば文様ならば、文様に出会った時、すぐに何であるとするのではなく、文様そのものからはじめた方がいいのかもしれないです(その時、文様そのもの以外に何かあるなりいたりしていると、それこそ目が曇る耳が澄ませないというようにして、文様そのものを文様そのものとして認識することができなくなりますね。そもそも謎存在があらわれているとき、そこにはそれ以外は何も存在しないです。しているとしたら、それはまさに妄想です。そして妄想ならば囚われれば当然、謎存在そのものがわからなくなります)。

 

型の型性について(前回の続き)

「うまくいっている面接においては「自分」が透明になり、ほとんど自分がなくなっているような感覚があり、ただ恐怖が伴わないのが不思議に思われるが、フロイトの「自由に漂う注意」とはこのようなものであろうか。自分の行為の意味をいちいち意識する面接はたいていうまくいっていない。これは、自動車運転の初心者に起こることと同じであろう」(中井久夫『兆候 記憶 外傷』「統合失調症の精神療法」)

 

これは精神科医中井久夫先生の「うまくいっている面接」の様子の報告です。この様子は古東さん的には次です。

 

「現実(存在)は、その名に反し、隠れる(無い)という仕方でしか現れない(存在しない)からである。あるいは、現れる(存在する)という仕方で隠れる(無くなる)からである。現出(在る)が隠蔽(無い)と同時進行し、近さ(直接性)が遠さ(間接性)と縫い合わせになっている、リアリティーのこの奇妙な成り立ちを素描するため、まずはある挿話から語りはじめてみたい」(古東哲明『〈在る〉ことの不思議』)

 

この二つの文章に共通している働きは次です。

 

出会っている〈他者〉の細やかな凹凸を丁寧に丁寧に撫でるが如くにして、そのひとまとまりがわかるまでそれに留まります。その途中、何か感じることがあっても、流します。そうしてひとまとまりがわかるまで〈他者〉に留まります。ひとまとまりがわかったら、それをこれは何々であると写生します。するとその何々が指し示すことが自ずとわかります。それもまた記します。そのつながりは恣意的です。恣意的にならないように第三者的な存在を立てます。ただしこの第三者的な存在が、〈他者〉とその〈他者〉にそう関わっている存在とがピタリと一致できるようにもあれるように、その第三者的な存在にかしらの飾りを添えます。こうしたことが粘土からある形があらしめられるようにしてなされます。

 

この様な働きがどこでも働くようです。どこもかしこもこれ。時折「外部は存在しない」という研究者がいますが、おそらくそのことをいっている(「蛸壺(専門)」最高論者かもしれないですけど)。だからか似たようなものがいくつもありえる。例えば富士見町やその近辺で似たような文様の土器が発掘されるようにといえるでしょうか。外部はない。だから仮に万が一例え型の出来が悪いようなことがありえたとしてもそれとしてしか生きざるをえないから「わからない」のですよ。型はそれに従わせるようなものだと考えられているようですが違いますね。型の型性は多様な型をあらしめることにもありそうです(このことを岡本太郎さんは「芸術は爆発だ」と、日高敏隆さんは「ベクトルないしパターン」といったのかもしれない)

 

さて私たちは、大抵、「うまくいっている面接」の如き「現実」に生きています。そのとき確認したように、’余計なもの’は何もないです。’余計なもの’があるとは、中井先生の言葉を借りれば「自分の行為の意味をいちいち意識する」「自分」がいるということです。'ある'があり、それは何かと模索しているような自分がいるような時は「うまくいっている面接」の如き「現実」に生きていないということです。

 

管理教育には’余計なもの’はありえないです。先生等が素晴らしいカリキュラムを用意して、園児・児童・生徒・学生・修士・博士-以下、「学者」とします-は、それに夢中になって取り組めばよいだけのことですから。管理教育的に優秀な学者は、ある意味「うまくいってる」ことが通常の状態です。この通常の状態は例えば藤森照信さんと中沢新一さんの対談「柱は魂の発射台だった!」(『ユリイカ 特集・藤森照信』)のこの場面に伺うことができると私は思います。

 

藤森 初めは青年期以降の憧れとか知的好奇心でやろうと思ったんです。でも知的好奇心では設計できないということがわかった。

中沢 あれは限界があるでしょう。

藤森 絶対にある。

中沢 それは設計だけじゃないですよ。どんな学問も同じで、知的好奇心だけでやるとアドレッセンスの時代、大学生や大学院生として一生懸命勉強して博士論文を書く、本を出す、でもそこで終わりなんですよね。それで大学の先生になっちゃったりするけど、その人たちはそのあと本気で研究をしなくなるでしょう。やってもパッとしなくて面白くない。そういう人たちを見ていると、好奇心だけの学問というのはだめだなあ、と思う。内的必然性がないからね。

 

この対談で中沢さんがいう「好奇心だけの学問」を極めた人間が、ここでの管理教育的に優秀な学者がしてきたこととして読みます。

 

中沢さんのいう「内的必然性」に基づく学問は、かつては管理教育的には「家でヤレ」とか「授業を私的に利用されましたぁ~(出てけ!!)」等と指導されたようです。先生方がきちんと授業を行おうとすればするほど’余計なもの’はありえなくなるからでしょうね。優秀な学者を輩出したい教員のいる大学などでは、それもありだったのかもしれませんが、小中高などではそればかりというわけにはいかなかった。管理教育がすすめられた結果、受験戦争が勃発し、受験戦争に反発する学者は校内暴力-現在のいじめにつながる-を行うようになった。校内暴力をなくす手だてとして部活動-現在、学者や教員を苦しめてもいる-が用いられたというようなことがあった。

 

必ずしも、だからというわけではないですが、優秀な学者を輩出したい教員のいる大学に先駆けて、小中高では「内的必然性」に基づく学問が導入された。この「内的必然性」がある学問というのが、前回の投稿に記している「引用部」に基づく学問のことです(例えば教育学者の佐藤学さんは、授業の起点には「具体物」をといいましたが、それに相当します)。

ただしここでの「引用部」とは、自説を補強したり、権威に寄りかかり相手方を殴り倒すような引用部ではないです。前回確認した通り、その引用部は、それが引用部なのかどうかもわからないし、そこに何が書かれているのかもわからないという引用部です(この意味で、この引用部は小田島隆さんがその著『コラム道』の第十二回でいう「すべては要約からはじまる」というその要約対象の如く存在のようなものと似ているかもしれないです)。

 

「内的必然性」に基づく学問はこの引用部を起点とします(「好奇心だけの学問」は、例えば「言葉のインフレーション」の如くになります、なりました)。

引用部が発見されるということは、’余計なもの’が誕生しているということです。だから、それがありえるとは「うまくいっている面接」の如き「現実」に生きられなくなるということです。しかし、前回の投稿で確認した通り、引用部をあらしめるには、それ以前にとても勉強ならば勉強しておき、それを忘れるようにして世界の凹凸をなぞるようにして生きていると見つかるかもしれないということでしたから、引用部がある意味、’余計なもの’だとしても、その発見は管理教育ならば管理教育に幾分は負っていることになります。引用部に基づく学問は、管理教育を全否定しているわけではないですね。

 

そうして発見した「引用部」を、引用部にとって何であると普段使いの手持ちの素材で写生し、それが指し示すことを押し入れの中に眠っていたような素材でしるし、なぜその指し示すことなのかのその理由を自分だけでなく自分以外にもわかる存在を添える。この工夫は普段使いの手持ちの素材とその側面(という素材)でなされる。ここまでをひとつ前の投稿で記しました。この「自分だけでなく自分以外にもわかる存在」はいうなれば「最後の自分」です(ただしそれは自分とは限りません。代理としての自分のこともある。この場合の方が多いです)

 

・・・・・・

引用部についてそうして書き終えるとそのとき自分は空っぽになっています。素材も何もないです。この自分は魂(σ)の如く存在です。

 

この空っぽさが〈他者〉に出会うことを可能とします。この〈他者〉は、「うまくいっている面接」の如く「現実」に生きられなくなった後、あれこれした後、空っぽとしての自分が出会う存在ですから、共通なものはなにもないです。

 

ここは「論理的客観性は、身体的間主観性がそれとしては忘れられているというかぎりで、身体的間主観性から派生する」(メルロポンティ『シーニュ』)という、そのようなことです。

 

この「論理的客観性」に相当することは、次でありえます。

____________

出会っている〈他者〉の細やかな凹凸を丁寧に丁寧に撫でるが如くにして、そのひとまとまりがわかるまでそれに留まります。その途中、何か感じることがあっても、流します。そうしてひとまとまりがわかるまで〈他者〉に留まります。ひとまとまりがわかったら、それをこれは何々であると写生します。するとその何々が指し示すことが自ずとわかります。それもまた記します。このつながりは恣意的です。恣意的にならないように第三者的な存在を立てます。ただしこの第三者的な存在が、〈他者〉とその〈他者〉にそう関わっている魂とがピタリと一致できるようにもあれるように、その第三者的な存在にかしらの工夫を添えます。こうしたことを、魂を粘土のような素材としてとらえることでなします。

____________

 

こうして「論理的客観性」に相当することが定まったら、この「作品化された魂」を①「普段使いの手持ちの素材」で何である写生します。②するとその何が指し示すことがわかる。これは「押し入れの中にあったような素材」でなされます。③何とその何が指し示すことのつながりは恣意的です。恣意的でなくするような何かしらを一つ2つでひとつで添えます。これは「普段使いの素材とその側面(という素材)」でなされます。

これはそうすることで、〈他者〉に出会う前の「自分」(=「最後の自分」)を更新するようにして「自分」を再生するようにしてあらしめているということです。注意することは、これら①~③の素材は、「自分」が更新された後のことですから、①に関して普段使いの素材でも、②に関して押し入れの中にあったような素材でも、③に関して普段使いの素材とその側面(という素材)でもないです(働きとしては再生する前の働きと同じです)。

 

さてこうして「自分」が更新された今、「引用部」を起点とした「最後の自分」までの一連のつながりが、今までありえていたのとは別様に認識されます。このつながりは何々であるというように。これは更新された「自分」が、更新される以前の「自分」にありえていた「引用部」を起点とするつながりについて述べているわけですから、自分のことながら他人ごとのようにして更新された「自分」の普段使いの素材が用いられます。するとその何々が指し示すことも-更新された「自分」の押し入れの中にあったような素材でわかるのですが、それは「-」(傍線)で区切った中で出会った〈他者〉に関することに相当します。この〈他者〉はいるというだけで具体的にどうこうということはなかった(それが魂とピタリということであった)。

ということは、ここでその何々が指し示すことは、あるのだけど無いようにしてありえているということになる。これは全く無いわけではない。ありえていることにはかわらない。とすると、何々と何々が指し示すあるのだけど無いようにしてありえているというつながりは恣意的で、恣意的でなくするような存在とその存在がその存在である理由を添えるようにしてここでも「一つ2つでひとつ」がありえることになる。これは更新された「自分」の普段使いの素材とその側面という素材でなされます。

 

この段階を終えた時点で、「うまくいっている面接」の如き「現実」の手前まで来ています。更新された「自分」が、更新される以前の生きられなくなった「現実」に戻る。そして更新されたことを忘れるようにして、その「現実」と一体化する。しばらくすると何か発見してしまう。その何かについて、更新された「自分」の普段使いの素材で、何かを写生する。するとそれが指し示すこともわかる。それを押し入れのなかにあったような素材で記す。そのつながりは恣意的。恣意的にならないように第三者的な存在を立てる。ただしその第三者的な存在でなければならない飾りも添えて(その飾りの傍らが自分の死後の如くに到来する〈他者〉の居場所になる)。それを更新された「自分」の普段使いの素材とその側面(という素材)でなす。

 

仮の最後にこれらを隠れなきように現せしむ存在を傍らに置く。それによって、それらが隈なく現されるだけでなく、その傍らにいる、自分の死後の如くに飾りの傍らへと到来するかもしれない〈他者〉が、ここにて記される。

これは、この「これらを隠れなきように現せしむ存在」とは、暗闇の舞台に準備された演劇を照らす光のようなものに喩えられる。照らされると客席がもう一度、暗闇に沈む(この二つの暗闇は同じだが違う)。舞台と客席には間(あいだ)があるがないようにしてありえている。演劇終了後、客席から何かやってくる。この何かは「自分の死後の如くに到来する〈他者〉」の喩え。

第三者的な存在がありえている理由をどちらか一つに決することをできなくする

「自分の生きている世界から何か引用したくてもその部分が見つからない」という質問には、「その世界を生きる前に、本をたくさん読むなり何かしらの経験をすごく積んで、そしてそれをあえて忘れるようにして、もう一度、その世界を生きてごらん。その際、その世界を生きることに前のめりにならず、その世界の凹凸をピタリとなぞるように生きてみて。ひょっとすると見つかるかもしれない。ただし見つかった理由を過去の経験のおかげにしてはいけません」と助言することはできる。

これはそうして見つかった引用部は、なぜ見つかったのかわからないうえ、それが何であるのかもわからないということです。ただ「引用部」があるということです。

この引用部について、引用部にとって引用部が何であるのかということを普段使いの手持ちの素材で描写する。するとその描写された引用部が指し示すことが自ずとわかる。普段使いの素材よりも古い素材でなされる(普段は押し入れに眠っていたような)。ただし描写された引用部と描写された引用部が指し示すことのつながりは恣意的です。しかしそうにしかつながらない。

ここでなぜそのつながりなのかその理由を挙げます。その理由は第三者的な存在ー引用部をそう描写し描写された引用部が指し示すことがわかった自分、この自分は「自分」とは限らないーを要請します。これは自分の素材ながら自分ではどうしょうもできない素材(自分そのものという素材)でなされます。ここでもまたなぜその第三者的な存在なのかという問いが浮上してきても不思議ではないです。しかしだとすると「その理由の理由は?」というようにどんどんと理由を挙げなければならなくなるとか、「他の'第三者的な存在'でよくないですか?」という質問に永遠に翻弄されるということになってしまいそうです。

三者的な存在を挙げないつまり恣意的なままで進めるというのもありなのかもしれませんが、例えば「そう思ったのはあなたの勝手でしょ。自己責任です」みたいにして殺されてしまうこともあるかもしれません。それでいいですか?。第三者的な存在は挙げた方がいいと私は思います。しかしなぜその第三者的な存在なのか、その理由をどのようにおさめるのかが問題なのです。

どうするか。ある第三者的な存在を挙げた後、なぜその第三者的な存在なのかその理由を挙げるのですが、「その理由の理由は?」等と問われないようにおさめればいいようです。どのような具合になるのでしょう。

その第三者的な存在を挙げただけで描写された引用部と描写された引用部が指し示すことのつながりの恣意さはなくなります。しかしなぜその第三者的な存在なのかその理由がわからないでいる。とすればその第三者的な存在が恣意さをなくすだけに用いられていないということを示せばいいのかもしれないです。

例えば物干しざおを第三者的な存在とすれば、物干しざおは人間にとっては洗濯物を干す場所ですが、例えば鳥にとっては止まり木になりうる。物干しざおが止まり木ならば止まり木になるようなひと工夫を物干しざおの傍ら施せば、物干しざおは物干しざおであると同時に止まり木でもあるというようになる。そうすると物干しざおの用途をどちらか一つには決することはできなくなる。

この物干しざおの例えが示しているように第三者的な存在の傍らに何か添えることでーこれは普段使いの手持ちの素材の側面でなされる(手持ちの素材の側面とは家の内部にとっての外壁のような)ー第三者的な存在がありえている理由をどちらか一つに決することをできなくするようにすればいいのでしょうね。

(続く・なぜ質問者は引用部を見つけたかったのかということが関わってくる)

〈答え〉と起こるかもしれない〈二重的問題〉を明確に述べるには幾度か遠回りせざるをえない

時折、何もかも無くなる。「時折、何もかも無くなる」ということすらなくなる。二重にむなしくなる。虚しい。空しい。理由はわからない。私にはそういうことがある。そしてそうしてむなしくなると自分の場合すべてどうでもよくなる。こうした私(自分)は治療したいと思うじぶんがいる。そうでなければ、むなしさを感じたまま密かにひっそりと死んでいきそう…。それは避けたい。じぶんはそれ以外の人生で生きたいのです。

それにはむなしい私(自分)のことは一旦置いて、他へと向かいその苦しみを確信的にしかし密かに何とかするように生きた方がよいと思っている。他へと向かいその他から他の苦しみがわかるということがたまにあるということは、むなしい私(自分)には、ありえる。しかしそうしてわかった苦しみは公開できない。それはいくら他の苦しみとはいえ、わかった瞬間に同時に誕生した自分にしかわかっていないことだから。これは、自分は自分ひとりでは生きていないということですね。わかった後、例えば教員「いいか。こうすればいいんだ!」学生「はい」とか、教員「これはこうだと私は思います」学生「違うと私は思います」というような一方的ないし双方向的な教育関係―どちらもそれぞれの自のみをベースにしている-に従って、他の苦しみを何とかする手立てを講じると、とかくというか絶対ハラスメントになる、か、そういわれないとしても自分で自分の身を亡ぼす結果に終わる。どちらにしても有りで、しかし行きすぎず、つまりグダグダのままやっていってもよい。が、それはむなしい私(自分)の再演のような気がしてしまう。なぜだろう。

それよりも、わかってしまった他の苦しみを何とかするにせよ、その他の苦しみから一旦離れ、別のあるについて自分の初期の認識あるいは身体図式を換えて、もう一度、他へと向かい、公開することのできないその苦しみを何とかする手立てを講じるのですが、しかしその手立てが別の何かしらのために講じられて(も)いるというように何とかしたい―自分の初期の認識あるいは身体図式が換わらないと、この講じ方の最後の部分ができない―と思っているからかもしれない。

ありえてしまった時にありえている身体ないし自分はそれでなくてもよかったはずです。むなしさに拉致られる身体でも、そう拉致られたとしてもどうでもよくなる自分でなくてもよかった。可能性としての身体あるいは自分は別でもよかったはずです。なぜありえない昔に身体がむなしさにつけこまれそうになった時に異を唱えることができなかったのか。異を唱えられなくてもその後にすべてどうでもよくなることを防げられなかったのか。答えの形式としては「次元を異にする答えがひとつの答えとしてありえる〈答え〉」ですが、そうした〈答え〉が出ればじぶんはそのような他へ関わりをやめうる。

そのためにこそ「わかってしまった他の苦しみを何とかするにせよ、それから一旦離れ、別のあることについて自分の初期の認識あるいは身体図式を換えて、もう一度、他へと向かい、公開することのできないその苦しみを何とかする手立てを講じるのですが、しかしその手立てが別の何かしらのために講じられて(も)いるというように何とかし」なければならないのだろう。

そうして自だけがというようにではなく「自分の初期の認識あるいは身体図式が換わ」り、もう一度、むなしさないしすべてどうでもよくなるに挑めば、今度はむなしさに拉致られるあるいはすべてどうでもよくなることはないだろう。何かしら次元を異にする答えがひとつの答えとしてありえる〈答え〉が出るはずです。それはそれでまた別の身体的問題ないし自分的問題が実際に起きるのかもしれませんが、起きないかもしれないです(とそこまでははっきりと述べることができます)。