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パスカルの格言は何度も繰り返される?

夏休み小学生の時、銛を使って川で魚を採っていたら、見知らぬ少し年上らしき男子が遊びに加わってきた。東京からだという。そしてひと言。「この川で銛を使ってはいけないはずだよ」と言った。遊んでいた僕たちはそれは知っていた。しかし伝統的にみんな使っていた。怪我人もなく魚を取りすぎるということもなかった。大人も漁協も特に何も言ってなかった。だから使っていた。しかしその態度の強さにその場にいたみんなは白けながら使うことを止めた。

別日、近所の小川で網で小魚をすくって遊んでいたらその小川の傍らの田んぼだった場所に家を建てた住人のオジサンが出てきて「この小川で魚を採ることを止めろ」といった。理由はわからなかったが-たぶん家周りが汚れるとか子供がうるさいとかだろうか-、その小川は広い田園の中の小さな小川で、そこでもまた子供たちは代々、遊んでいた。変だと思ったが止めた。またか、と思った。

ここでの「見知らぬ少し年上らしき男子」や「小川の傍らの田んぼだった場所に家を建てた住人のオジサン」の類人が都会では、例えば公園での子供のボール遊びは迷惑だというような理由で行政に通報し、行政はそうしたいわば「〈枠組み〉というものがあるということを知ろうとしないで枠組みらしきに安住しようとする実質四人ほどの者たち」の意見に耳を傾け、公園でのボール遊びを禁止してきたのだろう。この手の問題は全国津々浦々とても多い気がします。

ちなみに〈枠組み〉というものがあることを知ってそれを研究し、その枠組みに安住しようとする者が僕たちですね。僕たちだって枠組みに安住しようとしているのですよ。しかしその枠組みは國體や憲法や人類ミナきょうだい法とは違う。強いて言えば、國體の〈國體〉とか憲法の〈憲法〉とか人類ミナきょうだい法の〈人類ミナきょうだい法〉という時のその〈〉(括弧)内のことです。それを総称してここでは「枠組み」と表記し「わくぐみ」と呼んでいます。

さて行政はどのような過程を通して判断しているのだろう、行政はその通報者の名前を公表しうるのだろうか。行政が無知とまさに共謀して「海抜六十メートルの断崖の手前に四角い幕それも素晴らしい夢がぎっしりとかかれた幕を張り、そちらへと住民を導いた」ということをしなければいいが(かつての長野南部の満蒙開拓団のように)。この件は大丈夫そうですね。

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〈読む〉ことを通して精神的生命力を取り戻す

なぜ子供たちはあまり読書をしないのだろう。理由を挙げてみる。解決策も記したよ。

・本がない。

(←本屋や図書館や研究室に行けばあるよ。他にもあるかもね。探してごらん)。

 

・本はあるが読める状況にない。例、読もうと望まない。忙しくて読めない。読みたくても字が読めない、など。

(←基本的には気持ちひとつで読めます。読もうと望み、実際に読むのです。それでは少し無理がかかる。自然に読めるようになりとすれば、そう読めるように自分の抱えている問題なりをどんどんと片付けていかねばならないですね。ひょっとすると一生、読めないかもしれませんが、自分の抱えている問題を〈読む〉ように片づければ、読書経験と同質の経験をすることになります。)

 

・本の内容に囚われてしまう。例、内容に読み流される。内容に深く感化されてしまう。例えば国語的に正しい内容理解に留まっている。内容を娯楽用品の様に次々と消費してしまう、など。

(←それはそれでよいといえばよいのですが、内容の逆側の「内容」といったいうなれば内容もあるよということに気がつくと、もとの内容理解が深まっていきます。たまに国語の先生は「行間を読め」と指導しますよね。それ聞いて「は? 何も書いていないから読めないんですけど…」といぶかしがるかもしれないですが、その先生の言う通り行間を読むのです。子供でも‘決まりきった仕事がきちんとできる社会人風’になると、内容の外に出ることに恐怖を感じるかもしれませんが、もっと子供の頃、あなたは外に出ていました。さらにいえば実は、この世が外なのです。この世の外はないのです。)

 

・精神的生命力を取り戻すような読み方を知らない。その代りに例えばテストで点を取るための読み方、例えば実用を身に着けるような読み方に嵌ってしまっている。

(←内容には外があるということに気がついたら、遠回りかもしれませんが「読むとはどういうことか?」を考えてみましょう。様々な読み方がありますが、そのうちのひとつに「精神的生命力を取り戻すような読み方」があるとわたしはおもいます。)

 

・生命力を取り戻すような読み方を知っていて、実際にそう読んでいるが、ところどころで躓いてなかなか進めない。

(←躓く点について、問題を明確にし、解決のための手立てを考え、そうして問題が解決された自分を、生命力を取り戻す読み方のラインへと戻ることができる工夫もなすことで、ひとつずつ躓く点を超えていきましょう。大切なことは、問題が解決された≠精神的生命力を取り戻す読み方のラインに戻った、ということです。問題が解決された後、もうひと手間かけなければ、精神的生命力を取り戻す読み方のラインに戻れません。)

 

・精神的生命力を取り戻したが、周囲からの応答が以前と違い困るからそのような読み方は嫌だ。

(←様々な応答に触れてしまうことは仕方がないですね。以前の親友の裏的面-例えば邪悪な面-を見てしまうかもしれないです。別もありますね。もっと親友らしくうつる場合もある。今的には「キモく」(千葉雅也)なるのですが、キモくなるだけではないのです。しかし基本的にはどれも無視です。根本的にあなたはそのままでいいのです。だから無視ですが、ここで「これからも生きるぞ」と望むのであれば、わたしとしては次の三人の言葉を紹介します。ひとり目はミルトン・メイヤロフです。メイヤロフはその著『ケアの本質』でこう述べています。「このような全面的な序列化をする際には、ある種の事柄や活動をあきらめなければならず、そのため服従という一要素も含んでいる。しかしながらこの服従は、工芸家が自分の規律や材料に自ら進んで合わせるように、基本的には自分を解放し、確信を与えてくれるものなのである」と。二人目は「「忘れなあかんこと、忘れていいこと、ほいから忘れたらあかんこと」(河瀬直美監督の映画『沙羅双樹』のなかの言葉)。これを後ろ髪引かれる想いでどうにかさばいてゆくのが人生だとすれば」とその著『老いの空白』で記述する鷲田清一さんです。三人目はニーチェです。「だが、これが-私の趣味である。-よい趣味でも悪い趣味でもなく、私の趣味である。私は、私の趣味をもはや恥とせず、ましてや秘めることはない。私に「道」を尋ねた者は私にこう答えた。「これが-私の道だ-、-きみたちの道はどこか?」と。万人向きの道など、存在しないからだ」(『ツァラトゥストラはこう語った』「重力の精」2)。)

こられが以下の文章に触れた自分としては、子供たちはあまり読書をしない理由だと思いその解決策も提案してみました。

バリー・サンダスーはその著『本が死ぬところ暴力が生まれる』で「識字の奇跡」は「未来時制」と「反‐事実」の二つであり、「この二つが衰退し死に絶えなら、私たちがもはや大人として、未来について目的をもって夢を描くことができなくなったら、すべてが失われる。その時、識字は確実に文化から流れ去る。そしてこの本は、見当違いの夢以外のなにものでもない」と述べています。

ここでの「識字」とは文字を読むこと、「奇跡」とは神的な力の働きと理解します。では、「識字の奇跡」である「未来時制」と「反‐事実」とはどのようなことでしょうか。

ここで〈読む〉という行為を以下のように仮に決めます。

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〈対象〉と〈対象を読む人〉と〈対象を読む人がいる場所〉と〈対象を読む人がいる場所以外の何処か〉があるとする。

〈読む〉とは〈読む人がいる場所〉で〈対象を読む人〉が〈対象〉の輪郭の逆の部分を起点にある素材を用いて表現物を制作することです。〈対象〉の輪郭が凸なら表現物の起点は凹ということです。パズルと同じです。パズルとの違いは表現物の終点には定まった形がないということです。しかし表現物が(仮に)完成した後、〈対象を読む人〉が〈対象を読む人がいる場所以外の何処か〉に外出するようにして間をとり、見渡すと終点を発見することができます。そしこの終点が表現物の終点たるように表現物を制作しなおして完成です。こうして完成した表現物は人工物でありながら〈対象を読む人〉(生物)らしさも湛えています。

ここにて〈対象を読む人〉は製作からは離れます。注意することは〈対象を読む人〉はこの製作を通して、〈対象〉をどのように認識するのかその認識様あるいはそう認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型をかえているということです(※)。

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(※)製作する以前は〈対象〉への認識は〈対象〉の輪郭が例えば対象という黒字の内側線ならばならばその線形であり、その線形に認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型は「たいしょう」と呼ぶことでした。なぜ〈対象〉をその認識様で認識するのかという理由は、そう認識するように初期条件として定められているからであり、その認識様で認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型の先に何がくるかは別問題です。あれがくるかもしれません。という前後二点まで〈読む〉という行為は表現します。

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この仮説での〈読む〉は表現する・表現しなおすことと不可分です。そして二つ特徴があります。一つ目の特徴は、想定されている表現物には起点はありますが終点がないため未来志向的であるということです。この性質がサンダスーのいう「未来時制」に相当すると思います。

二つ目の特徴は表現する・表現しなおすといっても、表現者がすべてを統御するようにして製作できないということです。これは(仮に)完成するということ、そして一旦離れるということ、戻ってきて再度触れた仮の完成物に終点を見つけ、仮の完成物を一変させるようにして完成させること、という過程があるからです。この過程は「自分の死後、自分がよみがえり、生前、自分が製作した作品を見直したら、そこにある添え物が添えられていることを発見し、その添え物が作品の見どころになるように作品を制作しなおす」様なものと喩えられます。この過程は事実的には考えられないのですね。この性質がサンダスーのいう「反‐事実」に相当すると思います。

この仮説が実際に「読むことの授業」の枠組みとして採用されているとしたら、例えば一発完成を心底望む表現者(学ぶ者)の表現物は、不在としてしか現前しない指導者によって表現物の見返しがなされ手入れがなされるのです。しかしこれは横領や改作とは違います。そして別日、手入れがなされた表現物をみた一発完成を心底望む表現者は「え?誰か僕の作品いじった?」というかもしれません。しかし誰もいじっていない。ここでその表現者が精神病親和的表現者だと病気にのみ込まれてしまう可能性が高いです。独裁親和的表現者だと陰謀論を唱えるかもしれないです。とすると指導者にはカウンセリング的能力も望まれますが、学ぶ者を自分で危険な状態に陥れ、素知らぬ顔で、今度は自分で救うようなことにならないためにも、指導者には(やはり)スーパーヴジョン的な存在がいなければならないのです。

新しい日々がはじまる

教職に就くとわかりやすいのではないでしょうか。児童・生徒・学生を総称して「子ども」と呼べば子どもには様々な人がいるということが。そのうちのひとりには教職に就いた自分が、自分が担当するクラスの例えば児童だとしたら「意識の届く範囲、届かない範囲あれこれと試みたがこの子と関わることは無理だ。逃げよう(防御しよう)」という児童もいることもあるでしょうか。村上春樹の術語的には「生まれながらの殺人者」と形容されそうな子どものことです。

しかし子ども同士ではそうした判断はし難いかもしれない。殺されるあるいは殺すまで生まれながらの殺人者的子どもとも関わろうとする例えば仲よくしようと(教員と同じように)意識の届く範囲、届かない範囲あれこれと試みて関わり続けるかもしれないです。〈外〉がない場合、あるいは「級友みんなと友だちになろう」という同調圧力あるいは「同調圧力をなくす」というドウチョウアツリョクが強い場合はそうし続けるかもしれません(←音はわかりやすいのです。それは難しいつまり同じように関わり続けてしまうということです)。特にいわゆる優等生がそうなりそうです。

優等生がそれでもなお、その生まれながらの殺人者的級友と仲よくしようとしたら、一旦、その級友と関わることを止め、壁をつくるなりなんなりして身を守り、壁ならば壁の内側(自分のいる側)で「生まれながらの殺人者」が生まれる以前に赴き、そこで何か手ごたえあるようにしてみつかることを発見するのです。それが‘元凶’です。しかし発見だけで十分です。やり過ごすのです。そこで何かしてはならないです。何かすれば二度と元に戻れなくなります。例えば「生まれながらの殺人者」が「善良な市民」に生まれ変わるようにと「生まれながらの殺人者」が生まれる以前の時(=自分のつくった壁の内側での歴史)を組み替えたくなりますが、そうしてはならないです。が、しかしなのです。発見した段階で、発見しているのですから何もしないということは不可能なのです。それならばむしろイロイロとした方がいいとわたしは思います。イロイロしてもあるいはしなくても結局、元に返りますから。

この仕組みを引き受けることが自覚的に壁の内側の外の場所に行き戻ってくるということです。つまり壁の内側の外の場所で何か発見したら、色々として、最後は元に返すのです。そうしてその場所へと赴く以前へと翻り、壁を取り除く。すると「生まれながらの殺人者」と関わりたいように関われます。仲よくならば仲よくできてしまいます。なぜか自然とできてしまいます。ただし‘元凶’もこちらの時へと(どこからか)やってきます。が、それは‘元凶’ではありません。一度触れていますが、初めての存在として出会います。(U)

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(追記)

これを書いた後、J.ラカンの「精神分析技法における、解釈の共鳴と主体の時間」を読み始めた。冒頭に次の二つの引用があった。「男と愛のあいだに 女がいる 男と女のあいだに 世界がある 男と世界のあいだに 壁がある」(アントワーヌ・チュダル『二〇〇〇年のパリ』より)、「実際わしはこの眼でシビュラが瓶の中にぶらさがっとるのを、マークエで見たよ。子どもがギリシャ語で彼女に「シビュラよ、何が欲しい」と訊くと彼女はいつも「死にたいの」と答えていたものさ」(『サテュリコン』四八)。ラカン、おもしろそう~。

「自己肯定できない良い子」が現れる道筋と大衆迎合主義から発生する事件?

「自己肯定できない良い子」はどのような道筋で現れるのだろう。例えば校長を指導する立場にある教育委員会のメンバーが指導をしつつ違法行為もしていたとする。校長は多くの場合、指導に従う。が、教育委員会のメンバーが違法行為をしていては、指導に従った自己を100%肯定できまい。同じ理屈が見かけをかえて、教員と児童・生徒あるいは親と子の間で働くと、「自己肯定できない良い子」が現れるのかもしれない。

あるいは良いことをしているとそのした良いことによって闇に葬り去れた何かしら―これは必ずしも悪いことではない―が、詩作行為的によって明るみに出て、その出た何かに囚われ心痛めるようにして良いことをしている自己肯定ができなくなるのか(だとすれば良いことしても自己肯定できるようにすることはできる)。

ともあれそうして現れた「自己肯定できない良い子」が大人になり「タテマエよりホンネをぶっちゃけた方が認められやすい」という大衆迎合主義的傾向に流されると「PTA会長殺人事件」、「やまゆり事件」、「タリウム事件」のような「良い人が急になぜそんなことを…」という事件を起こしてしまうのだろうか。

同級会について

学校生活は意味にあふれている。では同級会の働きとは何であろうか。「近況を報告する」だけだろうか。あるいは「昔はよかったね」と過去を懐かしむだけだろうか。エンカウンター・グループでいうところのシェアリングの働きがそこでは期待されているのではないだろうか。

例えば『臨床心理学』(倉光修)に「ロジャースは、人は元来、経験をそのまま意識できるのだが、成長の過程で、それがしばしば解離していくと考えた。一般に、親は子どもが特定の条件を満たす行動をとるときしか肯定的な反応をしない。すると子どもは、自分の経験の内で、親から肯定された部分をより意識しやすく、否定された部分を意識しにくくなる。そして、意識されない部分は自己にとっての脅威となるので、否定されたり、歪曲されたりする。その結果、神経症や非行などの心理的問題が引き起こされるというわけである」とある。

ここで述べられているように親はとかく子供のあり様を肯定するあるいは否定するという態度で子供に挑む。否定された部分は、引き受け手を失うようにして子供の精神状態を蝕む。子供は親が用意した舞台つまり肯定あるいは否定という枠組みからしかその生を始められないとしたら、子どもは親に否定された部分を、親と関わっている自分から離脱したもうひとりの自分で「それはじぶんの」というように引き受けなおせば、否定された部分に自身を乗っ取られるようにして病むということはなくなるのかもしれない。

こうした非対称的な相互行為は肯定あるいは否定という枠組みだけではない。親が子供に対話的に挑んでも親によって承認されない部分は子供にありえてしまう。その場合でも、その部分を「じぶん」で引き受けなおせば病むということはなくなるのだろう。

ロジャースは、このように心理的問題は自分が経験していることが十分に自己に組み込まれていないために起きると考え、その治療は「経験と自己を一致させること」だとした。その考えでロジャースは具体的な治療の手立てとして「エンカウンター・グループ」を始めた。エンカウンター・グループは例えば講師がクライアントに課題を与えそれに取り組むエクササイズとそのエクササイズから距離をとり見直すことから始めるシェアリングという二部からなる。

ここで普段の学校生活をエクササイズ、卒業後しばらくして行われる同級会をシェアリングととらえれば、同級会の働きはシェアリングにあたるとわたしは思うのですね。

ところがこの「同級会(シェアリング)」はなかなかうまく働かない。学校生活≒エクササイズ、同級会≒シェアリングというつらなりにもうひとつ日々の授業をつらねるー学校生活≒エクササイズ≒授業、同級会≒シェアリング≒授業の振り返りーというようにつらねると教員経験者にはわかりやすいかもしれないですが、授業で振り返りの時間をとっても子供がその学習カードに書く内容は「今日は何々を勉強しました」とか「楽しかったです」みたいなものばかりで、いまいちという傾向がありますが、そのようにです(だから研究授業の指導案作成の時、振り返りまで取る必要があるのかという指摘もある。しかしたまに「(授業に関して授業では扱わなかった事柄について)今度はその事柄についてそれを知ってみたいです」という内容もあったりするのですが)。

なぜ同級会≒シェアリング≒授業の振り返りが上手く働かないかといえば、学校生活≒エクササイズ≒授業を血肉化する時間が経っていないからなのかもしれない。例えばエンカウンターグループの時は、午前にエクササイズ、昼食をとって、午後にシェアリングというように、ここでは「昼食」という間がある(プログラムに何気なくはさまれている昼食にも意味があるのですね)。

リルケが『マルテの手記』で「思い出が多くなったら、それを忘れることができなければならない。再び思い出がよみがえるまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出が僕たちの中で血となり、眼差しとなり、表情となり、名前まで失い、僕たちと区別がつかなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなから燦然(さんぜん)と現れ浮かび上がるのである」と記していますが、授業等を血肉化した間の後、「一行の詩の最初の言葉が思い出のなから燦然(さんぜん)と現れ浮かび上がる」時こそが、同級会の時かもしれないです。それまで待たないといけない。

しかしこの「待つ」というのは、〈現世的な何か〉があると時に例えば悲惨な目にあいますね。例えば時が来て〈皆にあいたい〉と密かに願いつつ同級会に行ったら、もう数人しか生きていなかったとか。「〈待つ〉のその時間に発酵した何か、ついに待ちぼうけをくらうだけに終わっても、それによって待ちびとは、〈意味〉を超えた場所にでる、その可能性にふれたはずだ」(鷲田清一『「待つ」ということ』)と記述されていますが、これかなり凄い境地のことを指摘していますよね(じぶんなんてまだまだ〈現世的な何か〉まみれですかね)。ともあれそのくらいの境地に達しないと例えば「死ぬとわかっていてなぜ生きるのか」という問いの答えや「死ぬの嫌だよ」という欲望の彼方にはふれることもできそうもないことにはふれております。はい。

ラカンと時間

1分目(いっぷんめ)の次を2分目と仮設する。1分目から2分目に至ろうとすると、そのあいだは60秒ある。あいだに何があるのかは知ろうとしなければわからない。1秒目と2秒目のあいだも六十で区切ればそのあいだには〈1/60秒〉が六十個あることになる。さらに‥‥と続けることができる。ではどこまで続けられるか(あいだに何があるのかは知ろうとしなければわからないが、知るといっても予め知るべき何かがあるわけではないのです)。ともあれ続けることが終わった時、2分目に触れている。その2分目に触れるひとつ前、〈根底の時間単位〉に到着している(例えば〈1/60秒〉)。そこから翻るようにして間なく2分目に触れている。

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こうした「あいだ」に生きることなく、1分目から2分目に直通的に至る時間観を「普通の時間」、〈根底の時間単位〉なしのあいだの時間を「無限の時間」とすると、上記の考えでは「普通の時間」は「無限の時間」に浮いているようにありえている。この時間制を採用した物語が、『邯鄲の枕』『2分間の冒険』、あるいは「月が2つある世界」を舞台とした『1Q84』だろう。

ラカンの「現実界」「象徴界」「想像界」を、現実界とは「裸系の事物がありえている世界」、象徴界とは、「言語や数学が働いている世界」、想像界とは「字の通り‘想像’の世界。象徴界に入る一つ前の世界」と理解すると、上記の時間観は、現実界象徴界想像界の関連と似た関連を記していると私は思う。

幼稚園や小学校教員をしていればわかりやすいかもしれないですが、最近(平成時代近辺)は母が一番強い。「家父長制反対」的な「父」観は通用しない感がある。だから、最近とは波平が亡くなった後のサザエさんのマスオさんが主役になった時代のようなものといえるかもしれない。その時代、母(サザエに相当)は、自分の思った「学校の価値観」(しつけ、社会性など)を先取りするようにして子供に「学校の価値観」を身につけさせる。「挨拶すること」、「時間を守ること」、「級友と仲良くすること」などなど、と。が、おそらく教員はそんなことは望んでいない。その母のしていることは、今は通用しない古いタイプの教員の仕事―例えば茶髪の生徒を黒髪に染めて仕事完了というように見かけだけを整える仕事―だと思っているかもしれない。教員としては「挨拶すること」は教育のひとつの目的だとしても、挨拶できない子供が挨拶できるようになるまでの間が抜けていると思っているだろうか。これは1分目から2分目のあいだには何かがあるなどとは考えずに生きているということです。そして1分目の次が2分目という時間制は想像されたものですから、この意味で母的な存在に育てられ育つ私たちは、想像界に生きているのです。それが最近の子供の始まりの生の様相です。

そのように想像界に生きていた子供がラカン的には次に象徴界に入ります。1分目と2分目のあいだに何があるのか知ろうとすることは、ある時点までは素材が言葉であれ数学的記号であれ理に沿ってなされますので、それは象徴界の作業のことです。想像界から象徴界に入るきっかけは、ラカンとしては母がいなくなることですから、入るきっかけを抽象的に言い換えれば「自分が生きるにあたりなくてはならない存在を自分の意志にかかわらず失ってしまう」という経験ということです。

次いでそうして象徴界で下位概念を明らかにする作業(穴掘り的な作業)をしているとあるものがあるようにしてあるのでしょう。1分目と2分目のあいだに〈根底の時間単位〉があったように。それが現実界における「裸形の事物」に相当します。そして、それに囚われずに―ラカンの定義的にはとらわれることは無理ですが―(だから自戒を込めて、いわば)「遠く離れた」ところの生が、二分目に触れているということですね。ただし2分目は2分目です。同じです。しかしこうして象徴界を通して触れた2分目は触れない場合の2分目と違うのです。

このように冒頭に挙げた時間観は、現実界象徴界想像界の関連と似た関連を記しているのです。

オ・ペダナ・ナ・コメフ・ト・デダナ・ト・コメフ

物-例えば石-は音をたてない。たてるとすれば、音をたてるように人工的につくられた物の音か、幻聴だ。が、音をたてるはずのない物から音を聴いたという報告の内容を「幻聴」に分類し、薬を処方するだけが精神科医の仕事だろうか。

古代のキリスト教会では自国語の他に「異言(いげん)」が語られていたと中山元は記している。自国語にとっての他国語という異言と、解釈する者がいなければ他者には全く理解できない言葉(パウロ)という二種類の異言があったという。

こうしたキリスト教会は当時、どのような様子だったのだろうか。日々、神父と信者で行われているキリスト教を支える言語が自国語だ。その教会の外から少なくてもひとりは信者でない者が二人やってくる。二人とも自国語でない言葉を話しているが、そのうちひとりの言葉は聞いたことがあるという者-おそらく商人の血筋の者―が信者の中から名乗り出て、通訳をすることで、意思疎通ができただろう。しかしもうひとりは全く聞いたことのない言葉を話していた。すべてを知るという博学者に尋ねてもわからないという。だが話しかけられているとはわかる。ここで中山元はその言葉の者としてアントナン・アルトーを挙げている。アルトーその残酷劇で「オ・ペダナ・ナ・コメフ・ト・デダナ・ト・コメフ」といった「舌語」を多用しているという(「舌語」とは喃語的、統合失調症の患者の言葉的言語のことです。音楽でいう「倍音」のようなことですしょうか)。この言葉は通訳できない。解釈はできる。解釈は試論的だ(正答がないのだから)。だからどうしても最後に「~と私は思う(あなたは?)」というように解釈の後に「あなた」の余地を用意するいうなれば[印]―ここでは「~と私は思う」-をつけたくなる(試論を通論のように話すわけにもいかないし、仲間と生きている以上、絶対的な自身があるわけではないから)。

「舌語」といえば、かの『天空の城ラピュタ』の「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」(われを助けよ、光よ甦れ)や「バルス」(閉じよ)を思い出さないだろうか。これらも「舌語」と仮設する。シータが「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」というと、死んでいるようだった太古のロボットが動き出す。ハズーとシータが「バルス」というと、究極の科学の城ラピュタが一瞬にして崩壊していく。

中山元は「この意味で、舌語は、普通の意味伝達の役割を放棄した詩的な言語に近いものとなる。詩的な言語は、シンボルと社会秩序にひびを入れ、「切り刻み、語彙、統辞さらには単語さえ変形し、その舌から、声と身振りの差異がもたらしてくれるような欲動を取りだす」ことを目指す」(「異語と舌語」)と記しているが、ラピュタの例はまさにそうだといえると私は思う。

こう考えてくると、音をたてるはずのない物から音を聴いたという報告の内容は「幻聴」ではなく「舌語」を聴いたかもしれないと考えられないだろうか。だとすれば、音をたてるはずのない物から音を聴いたとすれば、かわらなければならない。アクション。死んでいるようだった太古のロボットが動き出したように、究極の科学の城ラピュタが一瞬して崩壊したように(「バルス」には閉じよという意味だけでなく再生という意味も込められているという説もあるが、そうかもしれない)。こうした変化・生成を支えることもまた精神科医の仕事ではなかろうか。

もうひとつの手もある。聴いた音を無視する。無視しても無視しても聴こえてくるのであれば、黙らせるという手もある。こちらは、とかく「助け声を無視するなんてひどい、暴力だ」となる(なぜ「助け声」か。声が出ている時は助けを求めている時だという傾向があるということですかね。もっとも溺れる者は藁をも掴むということもありますね)。ともあれ例えば建築のように何かつくっている時は、聞こえるはずのない音を聴いたとしても、いちいちかわっていたのでは、いっこうに完成しないということもある。あえて無視する。あえて黙らせる。ただしプロは、建築づくりの際に音楽が流れていても、聴こえてこないですね。

最後に。「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」「バルス」が「舌語」だというのであれば、「音をたてるはずのない物から音を聴いた」「幻聴」もまた「舌語」ではないか。これは多様な自国語を認めようと述べているのではない。話された言葉が明らかに自国語だとしても、そして聞き手がいるとしても知っている者がいなければ、それは舌語だという意味で。