第三者的な存在がありえている理由をどちらか一つに決することをできなくする

「自分の生きている世界から何か引用したくてもその部分が見つからない」という質問には、「その世界を生きる前に、本をたくさん読むなり何かしらの経験をすごく積んで、そしてそれをあえて忘れるようにして、もう一度、その世界を生きてごらん。その際、その世界を生きることに前のめりにならず、その世界の凹凸をピタリとなぞるように生きてみて。ひょっとすると見つかるかもしれない。ただし見つかった理由を過去の経験のおかげにしてはいけません」と助言することはできる。

これはそうして見つかった引用部は、なぜ見つかったのかわからないうえ、それが何であるのかもわからないということです。ただ「引用部」があるということです。

この引用部について、引用部にとって引用部が何であるのかということを普段使いの手持ちの素材で描写する。するとその描写された引用部が指し示すことが自ずとわかる。普段使いの素材よりも古い素材でなされる(普段は押し入れに眠っていたような)。ただし描写された引用部と描写された引用部が指し示すことのつながりは恣意的です。しかしそうにしかつながらない。

ここでなぜそのつながりなのかその理由を挙げます。その理由は第三者的な存在ー引用部をそう描写し描写された引用部が指し示すことがわかった自分、この自分は「自分」とは限らないーを要請します。これは自分の素材ながら自分ではどうしょうもできない素材(自分そのものという素材)でなされます。ここでもまたなぜその第三者的な存在なのかという問いが浮上してきても不思議ではないです。しかしだとすると「その理由の理由は?」というようにどんどんと理由を挙げなければならなくなるとか、「他の'第三者的な存在'でよくないですか?」という質問に永遠に翻弄されるということになってしまいそうです。

三者的な存在を挙げないつまり恣意的なままで進めるというのもありなのかもしれませんが、例えば「そう思ったのはあなたの勝手でしょ。自己責任です」みたいにして殺されてしまうこともあるかもしれません。それでいいですか?。第三者的な存在は挙げた方がいいと私は思います。しかしなぜその第三者的な存在なのか、その理由をどのようにおさめるのかが問題なのです。

どうするか。ある第三者的な存在を挙げた後、なぜその第三者的な存在なのかその理由を挙げるのですが、「その理由の理由は?」等と問われないようにおさめればいいようです。どのような具合になるのでしょう。

その第三者的な存在を挙げただけで描写された引用部と描写された引用部が指し示すことのつながりの恣意さはなくなります。しかしなぜその第三者的な存在なのかその理由がわからないでいる。とすればその第三者的な存在が恣意さをなくすだけに用いられていないということを示せばいいのかもしれないです。

例えば物干しざおを第三者的な存在とすれば、物干しざおは人間にとっては洗濯物を干す場所ですが、例えば鳥にとっては止まり木になりうる。物干しざおが止まり木ならば止まり木になるようなひと工夫を物干しざおの傍ら施せば、物干しざおは物干しざおであると同時に止まり木でもあるというようになる。そうすると物干しざおの用途をどちらか一つには決することはできなくなる。

この物干しざおの例えが示しているように第三者的な存在の傍らに何か添えることでーこれは普段使いの手持ちの素材の側面でなされる(手持ちの素材の側面とは家の内部にとっての外壁のような)ー第三者的な存在がありえている理由をどちらか一つに決することをできなくするようにすればいいのでしょうね。

(続く・なぜ質問者は引用部を見つけたかったのかということが関わってくる)

〈答え〉と起こるかもしれない〈二重的問題〉を明確に述べるには幾度か遠回りせざるをえない

時折、何もかも無くなる。「時折、何もかも無くなる」ということすらなくなる。二重にむなしくなる。虚しい。空しい。理由はわからない。私にはそういうことがある。そしてそうしてむなしくなると自分の場合すべてどうでもよくなる。こうした私(自分)は治療したいと思うじぶんがいる。そうでなければ、むなしさを感じたまま密かにひっそりと死んでいきそう…。それは避けたい。じぶんはそれ以外の人生で生きたいのです。

それにはむなしい私(自分)のことは一旦置いて、他へと向かいその苦しみを確信的にしかし密かに何とかするように生きた方がよいと思っている。他へと向かいその他から他の苦しみがわかるということがたまにあるということは、むなしい私(自分)には、ありえる。しかしそうしてわかった苦しみは公開できない。それはいくら他の苦しみとはいえ、わかった瞬間に同時に誕生した自分にしかわかっていないことだから。これは、自分は自分ひとりでは生きていないということですね。わかった後、例えば教員「いいか。こうすればいいんだ!」学生「はい」とか、教員「これはこうだと私は思います」学生「違うと私は思います」というような一方的ないし双方向的な教育関係―どちらもそれぞれの自のみをベースにしている-に従って、他の苦しみを何とかする手立てを講じると、とかくというか絶対ハラスメントになる、か、そういわれないとしても自分で自分の身を亡ぼす結果に終わる。どちらにしても有りで、しかし行きすぎず、つまりグダグダのままやっていってもよい。が、それはむなしい私(自分)の再演のような気がしてしまう。なぜだろう。

それよりも、わかってしまった他の苦しみを何とかするにせよ、その他の苦しみから一旦離れ、別のあるについて自分の初期の認識あるいは身体図式を換えて、もう一度、他へと向かい、公開することのできないその苦しみを何とかする手立てを講じるのですが、しかしその手立てが別の何かしらのために講じられて(も)いるというように何とかしたい―自分の初期の認識あるいは身体図式が換わらないと、この講じ方の最後の部分ができない―と思っているからかもしれない。

ありえてしまった時にありえている身体ないし自分はそれでなくてもよかったはずです。むなしさに拉致られる身体でも、そう拉致られたとしてもどうでもよくなる自分でなくてもよかった。可能性としての身体あるいは自分は別でもよかったはずです。なぜありえない昔に身体がむなしさにつけこまれそうになった時に異を唱えることができなかったのか。異を唱えられなくてもその後にすべてどうでもよくなることを防げられなかったのか。答えの形式としては「次元を異にする答えがひとつの答えとしてありえる〈答え〉」ですが、そうした〈答え〉が出ればじぶんはそのような他へ関わりをやめうる。

そのためにこそ「わかってしまった他の苦しみを何とかするにせよ、それから一旦離れ、別のあることについて自分の初期の認識あるいは身体図式を換えて、もう一度、他へと向かい、公開することのできないその苦しみを何とかする手立てを講じるのですが、しかしその手立てが別の何かしらのために講じられて(も)いるというように何とかし」なければならないのだろう。

そうして自だけがというようにではなく「自分の初期の認識あるいは身体図式が換わ」り、もう一度、むなしさないしすべてどうでもよくなるに挑めば、今度はむなしさに拉致られるあるいはすべてどうでもよくなることはないだろう。何かしら次元を異にする答えがひとつの答えとしてありえる〈答え〉が出るはずです。それはそれでまた別の身体的問題ないし自分的問題が実際に起きるのかもしれませんが、起きないかもしれないです(とそこまでははっきりと述べることができます)。

文化的雪かき、専門性と御礼、未来世代

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「ハメルーンの笛吹き」や「隠し神」の物語などを念頭にして

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生きていられる世界とその世界があるためにあるその外部がある。生きていられる世界からして外部はわからない。ただ外部があるよということはわかる。外部の性質とは有ることが無いようにしてありえていることにある。

 

こうした世界観の世界が無いようにして(無いもないようにして)ありえている。

 

生きていられる世界に外部から何かくることがある。すると生きていられる世界は生きていられない世界になっている。外部も揺れている。今やこのようにて世界がまさに有りえている。

 

外部から何かきた何かは、生きていられる世界の破壊者であるが全くの破壊者とは言い切れない。というのも生きていられる世界を破壊することは、その外部にも影響を与えるということだから。

 

長、救いにきた者に向かい「なぜきたのか」

救いにきた者「それをしなければすべてがダメになってしまうと思ったから来た。根拠や証拠はない。専門性、専門性いうのであれば「根拠や証拠がない専門性」に従いそうした。だから万が一そうすることですべてが救われたとしたら、専門性に対するそれなりの御礼は頂きたい」

長「(証拠や根拠のない専門性にそんなことできるはずがない、と笑いながら)わかった。お願いしよう」

 

救いにきた者が実際に救った。生きていられる世界の欠点をフォローしているとわからないようにフォローするようにして救った。

 

長「救ったとしても根拠や証拠がない専門性にいくら専門性があるといえどもそれなりの御礼はできない。根拠や証拠がないぶん引いた御礼でよろしかろう」

救いにきた者「約束を破りましたね。(長は生きていられる世界のことしかわからないのだな)わかった。引いた御礼のぶん未来(こども)を頂こう。長も困るまい。(約束を破った長のその姿をみている健全な成長を続けている子らもついてくるだろう)」

 

ついていった子らは更新された外部でまっとうな大人になった。

 

ほら、お空の彼方をみてごらん。手を振っている。みんな元気そうにやっているよ。

「マナ」、「言霊」がありえる仕組みの私なりの説明(メモ)

或る大きさの正三角形を一つ書き、その重心を軸にして、頂点をずらして同じ大きさの正三角形を一つ書く。六角形が書ける。同じ作業を何回かくり返す。多角形が書ける。さらに同じ作業をくり返す。多角形は円形に近づいている予感がする。さらに同じ作業をくり返していく。ある一瞬を境にその形は円形にしか見えなくなる。しかし手続き的にはその円形は多角形である。同じ作業を何回繰り返しても多角形である。ということは知的にわかっている。だが今や円形にしか見えない。どうしたったそれは円形。であるとすると例えば「多角形が円形に見えるなんて妄見だ」なんだとあれこれといわれても仕方がない。そういわれたくなかったら何かしらを沈黙させたかったら、自分が円形に見えている多角形を自分以外にも円形に見えるようにする別の―「工夫」ならば工夫-がなければならない。

 

この作業を通じてそう認識するに至った円形は、知的には多角形だとわかっている。しかし今やそれはどうしても円形にしかみえない。が、それはその自分だけのことであり、それについて他者からあれこれといわれたくなければ、その他者にもわかるような工夫もしなければならないということです。

 この工夫がないとその円形は確かにいるのだが決して現れない生き物(?)に奪われるようにして失われてしまう。するとその自分は、いつものように何かしようと自然と手をのばしたら、そこにあるはずのもの―ここでは円形-がないというようにして「あれ?どうしたのだろう」というように困惑する。この自分はそのままだと死んでしまう。

マルクスのいう「疎外」の害?とでもいえるだろうか。似たようなことは村上春樹がしばし書いている例えば『ノルウェイの森』の直子とキズキ、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の僕とその影の関係で。

 

他方、おそらく自身でもわからずにその円形を持って行った生き物は、その円形に憑かれるようにして自身が則(のっと)られてしまう。そもそも持って行った段階ですでに憑かれているともいえる。

 

こうした現象が起きる理由は、‘持って行かれた円形は、その円形を多角形からあらしめた自分と不可分的にありえている。つまりそれはただの円形ではない。自分の命の一部―この一部を失ったら死んでしまう―がそこにありえている’から。恋に落ちるようにして否応なしに持って行ってしまう。

大昔の人は、この円形のような在り方(居方)をするモノをみて、「マナ」が宿っているといったのかもしれない。ただ「マナ」のような一見すると魅力的な概念は、あまりにもかかわった人間が多いためか、原初的な様子がわかり難くなっている感が私はしている。

 

いくらその生き物とすれば生き物が勝手に持って行ったとしても、その生き物はそうした段階で自分の命に染められている。自分それでいいのか(と自問)。自分もそのままだと死んでしまうぞ(自分の中の他者の声)。

 

最近、自分の人間関係の漢字遣いが関係するような事件が起きると私は感じている。例えば、自分の人間関係に、Bさんがいて、Bさんに手紙を書いて、しばらくすると、〈B〉さんがトラックに轢かれて死亡しましたというようにニュースが流れるというように。‘B’の部分が漢字で起きる。

こう考えるとそうした事件が起きても不思議でないとわかる。漢字もまたある意味、物。そこに自分の命の一部が宿っているとして、それが持って行かれてしまったとすれば、その漢字に踊らされるようにして、そうした事件が起きている。こうしたことを古来ならば言霊といったのかもしれない。

 

このようにわかっていると、何かしらに触れたくても容易には触れることはできない。また否応なしに触れてしまったとしても、即、持って行いってしまうにはつながらないといえるか。

 

触れる手続きというものがある。引用ならばまず言い返すというように。建築は音楽が凝固したものだと昔から言われているが、そうしてありえた建築からその音楽をあらしめるように。サグラダファミリアは完成したら町に音楽を与えるというように。

漢字に触れる時(漢字を書く時)も、漢字を引用した後、読み(音)を書くのなら書かないと。それは円形についても同じ。(手続きの続きがあるがここでは省略)。

 

こうした手続きを無視すると、何かしらに憑かれる。その害らしきは確認してきた。そうならないようにか、そうした手続きを無視すると、引用ではなく盗用だとか、剽窃ということになる。

 

地震が起きて大揺れしていても、大揺れしているそのこと自体は決して揺れないという不動さのおかげで生きられるということがある。が、その不動さは、宗教と科学を同じIにする。それは時に事後的にあってはならないことを起こす(起こしてきた)。先ほどの触れる手続きはこうしたことをなくすだろう。

 

「守る」ということについて

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自分の子供が幼かった頃のクリスマスの朝。朝起きて枕元に置いているサンタさんからのプレゼントを見つけて喜んでいる子供の顔を覚えているかな(ちなみに私には子供はいない)。その子供が学校で友達に「サンタさんからプレゼントもらったよ」とニコニコ話したら、「サンタなんていないよ」(啓蒙さん)とか「お前、頭の中、お花畑だな」(ネトウヨさん)とか「私、親いないんだよね」(物語さん)とかに、そういわれてしまうかもしれない。そしてそういわれた子供は、テレビ「お宝探偵団」で自分の宝がすごく価値のあるものだと真剣に思っていたが、鑑定を受けたら500円といわれて、人生を丸ごと否定されたかのようなご老人と同様な思いをするかもしれない。

親でも誰でもいいのですが、そうした子供たからか、サンタさんからプレゼントもらって喜んでいる子どもの生を、守れるかどうか。そうした子供の生に於いてこそその子はその子らしさを失わず育っていく。その子供の生の様な生に於いてしか死ねない。

守る際は、当然、何気なく。その何気なさも何気なく。でないと、今度はそう守ろうとする人がいろいろと投げつけられるかもしれないし、守られるだけではその子は、その子らしさを失う。(だとしても、というところもあるので心配しなくてもいいのですが)。

それには、全員とはいわないですが、ある程度の人々が例えば「僕が君に見せてあげたもの、あれはみんな本当なんだ。神もなければ、宇宙もない。人類もなければ、この地上の生活もない。天国もない。地獄もない。みんな夢―それも奇怪きわまる馬鹿げた夢ばかりなんだ。存在するのはただ君ひとりだけ。しかも、その君というのが、ただ一片の思惟、そして、これまた根なし草のようなはかない思惟、空しい永遠の中をただひとり永劫にさまよい歩く流浪の思惟にすぎないんだよ」(マークトゥエイン『不思議な少年』)という様な境地に一度は達しないと、いけないのでしょうね。

写真は「美園遺跡出土 家形埴輪」ですが、この「家形埴輪」は、ここでの守りのあり様が実際に形になっているような気が私はします。

方法について

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〈方法〉の「ほうほう」というものがある。鷲田先生の著『反・方法主義』の‘ホウホウ’は、ここでいう〈〉の方法にあたるだろうか。内田先生ならばここでいう「」の‘方法’をそういわない(表記しない)かもしれない。

〈方法〉は決まりきった仕事をする時は大切でしょうね(製造ラインでいう「5S」のように)。けどそれがすべてではない。すべてだとしたら例えば演劇、スポーツ、音楽、性交などはとても退屈な営みになる(陰核に触れれば女はいくとか。まさにスイッチがはいればすべがわかる(アレント)というハイデガー哲学の応用)。それらを広く「芸能」と呼べば、芸能はとても封建制度なところがある。なぜか。〈方法〉がさほど重視されないと、暴力を招きやすい。それを防ぐためかもしれないです。

〈方法〉は、それに従えば誰でも同じような結果を出せるという意味で、例えば仕事の伝授の場においてのハラスメントを防ぎやすいと私は思っています(従わせるためにハラスメントしようとしていることもある)。

指導者はとかく〈方法〉はやめろ(成長しないから)といいますが、あまり聞かない方がいいかもしれません。聞いて裸で踊りだすと成長のために正しい暴力が振るわれることがありますよ(割礼とか)。DNAレベル的に傷つきます。注意されたことをしようとしても二度とできないようになってしまいます(『オープンダイアローグ』の推進者にはそんな指導者になって欲しくないです)。

〈方法〉の「ほうほう」はこうした内容をあらしめます(無内容だと〈方法〉主義者はいうかもしれないですが)。

例えば車、飛行機、宇宙船などの鎧系の物をつくる際には、一旦、出来上がるとつくるための〈方法〉がありえます(多くは企業秘密ですね)。〈方法〉の「ほうほう」は、一旦、始まりに返り、そこから始めることを、〈方法〉的に裸にならずに行います(しかし〈方法〉ではないです)。伝統的に船のつくりには〈方法〉の「ほうほう」が生きているかもしれないです。芸術的な作品だと藤森さんの未来の霊柩車やイサム・ノグチさんのモエレ沼公園にうかがいえる気が私はします(三角の金属のブツによくみるとざらざらがありえている)。千葉雅也さんは、お店でじっくりと、どんな道具が勉強のためになるか見定めているはずです。車や飛行機や宇宙船もある意味、まだまだ可能性はありますよ。〈方法〉だけだと、デトロイトみたいになっちゃうかもしれませんね。

例えば人目も楽しませる鎧というものもあります。それを着ればいいという訳ではないですが、鎧を脱いで再起不能なまでに傷つくような危険に身をさらす必要もないとイロイロと再起不能な私は思うのです。他方、マムシの如くは人命を奪いますが、マムシ酒というように復活薬にもなるということもありますけどね。

仕事と新自由主義についてのメモ

仕事は仕事している自分を忘れているからその仕事ができるというところがある。仕事をしている最中に仕事をしている自分に気がついてしまったら仕事ができなくなる。気がつかないひとは一生、気がつかないとも聞く。なぜ気がつくことが起きるか。その仕事がその仕事としてありえているがゆえに必然的に封じてしまっている何かに先行的に感づいてしまうようにして起きる。「良心」に目覚めたともいえる。その何かは二種類ある。ひとつはその人がたんに知らない何か。もうひとつはその人以外のみんなが知らない何か。感づいた後、そのまま終えるというのもありといえばありだがーありになりがちだがー、もう一度仕事に戻るのであれば、どちらの何にしても二度、かわることで仕事に戻りうる。そうして戻った先の仕事にはその何(見かけは違う)が到来する。別の仕事が誕生した。

 

①仕事だけでなく、②①の仕事をしている自分も起点とする仕事、③あるいは別の仕事は、会長・社長・役員、平社員・バイト・バイト見習といった両極でとかくなされる傾向があるようです。会長・社長・役員は、平社員・バイト・バイト見習いよりも小さい傾向ですが、その間の社員よりは大きい傾向です。その間の社員は仕事をしている自分にとかく気がつくことはないです(だから例えば「幸せ」ならば幸せをそれなりの時間、享受できるといえるかもしれない)。

 

国家による経済活動への関りが少ない(←「ネオリベラリズム」とする)だと、この動性は弱まります。ネオリベラリズムにくらべ国家による経済活動への関りが多い(←「ニューリベラリズム」とする)だと、この動性はそれなりに働くようです。これは経済活動に会長~バイト見習い以外も関わるかどうかの違いともいえます(関わるほうがニューリベラリズムですね)。

 

ネオリベラリズムとニューリベラリズムの関係にもこうした考えが適用されるでしょうね。①の仕事≒ネオリベラリズム、②、①の仕事をしている自分も起点とする仕事≒ニューリベラリズムというようにです。しかしこう考えると③の別の仕事に対応する主義がないですね(どこかではすでに言われているのでしょうか)。とりあえず仮にここでは(かつて私がそう呼んだ)「新・新自由主義」とでも呼んでおきます。私たちは新・新自由主義の時代に生きているのです。みんな、ゆる~っとやっているのですよ(こんなこと考えているとB‘zの『Lair lair』が身に沁みますね)。