「上書き保存」的恋愛、「名前を付けて保存」的恋愛について

「女性は(過去の)カレからの手紙は全部燃やす」「男性は(過去の)彼女からの手紙を後生大事に取っておく」という傾向があるときく(今の若い人は手紙を書かないかもしれないからわからないかもしれない、が)。この傾向は、女性の恋愛は「上書き保存」(だからひとりの男性を愛し続けることができる?)、男性の恋愛は「名前を付けて保存」(だから浮気症?)だという傾向と関りがありえるかもしれない。同程度の人数の恋愛経験場合、一見すると男性の方が沢山の女性を愛していそうだが、どうなのだろう。

「上書き保存」は、初めの本文と同じ本文でありつつも始めの本文は消えて全く別の本文を保存する(「保存する」とはここでは恋人にするという意味です)。「上書き保存」では、最初の本文と保存した本文は、前者は「最初の本文」も後者は「上書き保存した本文」というように自覚されている。が、「最初の本文」と「保存した本文」の〈つながり〉が「何」であるかは自覚されていない(全く無関係では「上書き保存」ではない)。もし自覚されればそこには「最初の本文という元・カレ」でも「保存した本文という今・カレ」とも違う、「何という第三者的な存在」があるといえる(自覚していなくても「〈つながり〉という第三者的な存在の卵」がありえている)。

翻って男性の「名前を付けて保存」的恋愛には「何という第三者的な存在」(あるいは「〈つながり〉という第三者的な存在の卵」)はない。名前的な個別さはとても大切にされているが、その各々の個別さは無関係に存在している。

「〈つながり〉という第三者的な卵」からは何が生まれてくるかわからない。これは元カレと今カレの〈つながり〉は、〈つながり〉があるということは一般的にいえるが、具体的に何があるのかといえないということです。その何かしらの具体さが今カレでなければならない理由だとはいえそうです。

こうして「上書き保存」的恋愛の方が「名前を付けて保存」的恋愛よりも多くの異性を愛しているといえます(「上書き保存」的恋愛は、ひとり愛すと2.5ないし3を愛しています。「名前を付けて保存」的恋愛はひとり愛すと1を愛していますから)。「上書き保存」的恋愛は「二者が関係を結ぶと第三者が排除される」(詳しくは例えば『近代性の構造』今村仁司参照)という根源的な暴力の誕生を防いでいると言い換えてもよいです。

バレンタインのチョコ頂きました。

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バレンタインチョコもらった。うれしい‼

(独身約四十歳彼女なし男)

嘘だよ。いわゆる「自分へのご褒美」しました。ところで「自分へのご褒美」している〈自分〉って誰かな。「自分」ではないよね。「もうひとりの自分」としたくなるがそうして「自分」への関係を「自分」だけで閉じちゃうと夢なくない? その〈自分〉は「今はいない彼女」としたらどう? 未来の彼女あるいは亡き彼女ということ。が、亡き彼女は眠っている(永眠している)。チョコ渡せたくても渡せない。他方、未来の彼女は自分が生きていれば会える可能性はある。しかし会っていないのでチョコを渡してくることはない。ところが永眠している彼女がその夢の中で(死者は夢をみる?)生きている姿が未来の彼女だとしたら会っていない未来の彼女がチョコを渡してくるということはある。「自分」は「自分」の生を仮設的に止め、その肉体を未来の彼女に明け渡し、未来の彼女(亡き彼女)からチョコを頂いているのです。こう考えるとたかが「自分へのご褒美」も侮れません。そのご褒美は、リアル彼女から頂いたように本当に大切にしなければならないのです。いただきまーす。

『思想の中の数学的構造』(山下正男)を読みつつ考えている事

ハイデガーレヴィナスは二人とも「ある」について述べているが違う。ハイデガーは「ある」とは「与えられてある」といい、レヴィナスは「すべてを奪われた後になおある」というように「ある」について述べている。

さてアップした「ベン図」は、台形、平行四辺形、長方形、正方形、ひし形をその性質にそって分類したベン図です。小学生で習います。このベン図は有名です。ところが、たこ形だけはこのベン図にいつも載っていません。学習指導要領的にたこ形は扱わないのかもしれませんが、たこ形の特殊な形がひし形で、ひし形の特殊な形が正方形であることを想うと、扱ったとしても難しいことではないと思います。

ところが、扱いいざベン図を書こうとすると上手に書けない(やってみるとわかります)。既存のベン図でまとめようとすると、アップした写真の様になるでしょうか。たこ形だけが「ある」のです。

これはハイデガーの「ある」とレヴィナスの「ある」どちらでしょうね。

たこ形はひし形あるいは正方形と関係していますが、それが奪われてあるという意味では、レヴィナスの「ある」でしょうかね。

(今日はここまで)

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「保守論者」について

例えば憲法を題材として…。どんなに素晴らしい憲法草案でも一旦同意したら後は権力者が好き勝手にする可能性は否定できないので改憲には賛成できない、今まで上手くやってきていることがあるのだからそれでいいじゃないかという論者を「保守論者」とすれば保守論者は滅多に腹を見せることはしないと思う。というのも今まで上手くやってきていることを具体的に権力派に示せば、逆手に取られるようにして追い込まれるだろうことを予感しているのではないかと推測しているからです。だとすれば翻って考えれば、具体的に示しているとすればそれは何らかの(例えば)作戦だと考えた方がいい。それは何かと問う方がいい(でないと保守論者の術中らしきにはまる)。

このように保守論者が何を保守しているのかはわかりにくい。

しかし何を保守するのかを巡って三タイプの保守論者がいることは想像できる気がする。①存在としては共通しているがそれしかない存在を保守する保守論者。素数の如く存在を保守する保守論者。素数の喩で続ければ②たまたま同じ素数の如く存在を保守した保守論者。③あえて同じ素数の如く存在を保守した保守論者の三タイプです。

①は、2、3、5などの素数の内、どれか一つだけの素数の如く何かを保守している者です。たとえ「せ~の」で同時に腹を明かしても自分と同じ存在を保守している保守論者はいません。②は同じく同時に腹を明かした時、例えば2ならば2をたまたま他の保守論者と同じく保守した保守論者です。この保守論者が保守しうることは自分以外の保守論者と同じ存在を保守していますがその保守論者が保守したその存在だけです。③は同時に腹を明かした時、少し後出しするようにして自分以外の保守論者の保守している存在を「自分もそうだ」という保守論者です。この場合、自分が保守しうる存在は何でもありになります。自分としては保守していることが無いということです(「保守していることが無い」ということを保守しているともいえそうです)。

『四角形の変化生成図』で無名の四角形の名を明るみに出す試みについて

「口」についての慣用句を調べていたらその多さにとても驚いた。

・・・

口を開け。口が上がる。口がうまい。口うるさい。口がおごる。口が重い。口が掛ける。口が堅い。口が軽い。口が腐っても。口が肥える。口が裂けても。口が過ぎる。口が酸っぱくなる。口が滑る。口が干上がる。口が塞がらぬ。口が減らない。口が曲がる。口から髙野。口から先に生まれる。口から出任せ。口が悪い。口食うて一杯。口では大阪の城も立つ。口と腹は違う。口なお乳臭。口に合う。口に入る。口に風邪を引かす。口に税はかからぬ。口に出す。口にのぼる。口に乗る。口にはいる物なら按摩の笛でも。口に針。口に任せる。口に蜜あり腹に剣あり。口は口心は心。口八丁手八丁。口は禍の門。口も八丁手も八丁。口より出せば世間。口を合わせる。口を入れる。口を掛ける。口を固める。口を利く。口を切る。口を極める。口を消す。口を過ごす。口を酸っぱくする。口を滑らせる。口を添える。口を揃える。口を出す。口を叩く。口を垂れる。口を衝いて出る。口をつぐむ。口を慎む。口をとがらせる。口を閉ざす。口を濁す。口を拭う。口を濡らす。口を糊する。口を挟む。口を引き垂れる。口を開く。口を封ずる。口を塞ぐ。口を守る瓶の如くす。口をむしる。口を割る。

・・・

「口」の字は四角形に見えなくもない。アップした写真に写っている四角形は私が何気に書いた四角形ですが、こうした四角形は有名四角形―例えば「ひし形」―のように名はないでしょう(たぶん小学生が有名四角形を書く練習をしている最中で書き損じた四角形としてこの世に生まれるくらいです)。できれば「口」についての慣用句が沢山あるように、そのように無名の四角形にも名を与えたいです(ここでは「口」の形を、無名の四角形に喩えてそう述べています)。

 

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ちなみに人の手足の先端を頂点とした四角形を書いて手足の動きによる四角形の変化を『四角形の変化生成図』の動きと重ね書きする様にして人の幾つかの動きを連鎖的に表すことができないかも思案中。でもその動き人工的な動きと違いますね。「人工的な動き」とは有名四角形だけで考える動きだと自分は考えています(ある意味、人工的ですが)。

最後について

数学は天吾に有効な逃避の手段を与えてくれた。数式の世界に逃げ込むことによって、現実というやっかいな檻を抜け出すことができた。…(略)…数式の司る世界は、彼にとっての合法的な、そしてどこまでも安全な隠れ家だった。(村上春樹『1Q84』)

そうだよね。天吾くん、私もその気持ちがわかるよ。学校で嫌なことがあっても数学の問題を解いている時は、その嫌なことは忘れ、数学の世界を自由自在に動いていたからね。あるいは例えば世界史で大量虐殺について勉強していて、その「大量虐殺」という言葉に嫌悪感を抱いてしまい勉強にならないということは数学にはなかったからね。もちろん、そのように「自分」を大量虐殺に絡めない、それはあくまでも学校の勉強でのことと割り切れば世界史で大量虐殺について勉強していても勉強にならないということはないですが(というのであれば数学の例えば∑(シグマ)という記号を見て、嫌悪感を抱く生徒がいてもおかしくはないでしょうが)。

数学の世界を訪れているあいだは何の問題もない。すべては思うままにすすんでいる。行く手を阻むものはない。しかしそこを離れて現実の世界に戻ってくると(戻ってこないわけにはいかない)、彼がいるのは前とは変わらぬ惨めな檻の中だった。(同掲書)

ふむふむ、これもそうだよね。数学の勉強を終えて一休みすれば、次には例えば国語の勉強しなくちゃならなくて、その問題は「ここでの主人公の気持ちを百字以内で説明してみよう」というものが多くて、数学の問題の答えが出るようにピタリと合うことなんて自分の場合は特になかったからね。うんざりしていましたよ。

数学が壮麗な架空の建物であったのに対して、ディケンズに代表される物語の世界は、天吾にとっては深い魔法の森のようなものであった。…(略)…物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられるということはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、大まかな言い方をすれば、ひとつの問題を別のかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。(同掲書)

でね。自分は数学の精神と国語の精神を同時にできる数学をつくることを試みはじめたのですよ(それを「数学」と呼ぶと紛らわしいかもしれませんが)。なんとなくできそうな予感はしている。

が、この「数学の精神と国語の精神を同時にできる数学」は、天吾が数学だけでなく物語にもひかれた様に、たとえその「数学」が完璧だとしても、むしろ完璧だからこそ、最後のひとつがなければならない(あるはなくてもいい)と強く予感しているのです。それがないと完璧さが別にもわからないのですね。そのひとつを(無だとしても)あらしめた後、その「最後のひとつ」に落ち着くようにして自分はいなくなってしまうのですが。

「四角形の変化生成図」を書いた別の理由

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「四角形の変化生成図」を書いた、ひとつの理由は「〈ひと〉」の「意識がなす道」を幾何学的に理解してみることだった。(それにしても相変わらずこの図が見つからない。数学では書かれていないのだろうか)。ここでもう一つ示しておく。

鶴見俊輔さんは『限界芸術論』の中で次のように述べている。

……

歴史は、無数の人生の集積である。その歴史や人生は”大きな名前”(ビッグネーム)で記憶され”小さな名前”もしくは”無名”(ネームレス)のものが、ほとんど、忘れさられることに、異議をとなえつづけたい。

……

話はかわる。小学校中学年くらいで四角形について習いますよね。四角形には、長方形、正方形、ひし形、たこ形、台形、平行四辺形があると。さらに形の性質に沿って分類し、たこ形の特殊な形がひし形、ひし形の特殊な形が正方形となりひとまとまりの領域(=たこ形領域)をなし、他方、台形の特殊な形が平行四辺形、平行四辺形の特殊な形が長方形あるいはひし形、ひし形あるいは長方形の特殊な形が正方形となりひとまとまりの領域(=台形領域)をなすということも習います。しかしこの二つの領域をその他一般の四角形の領域(=一般四角形領域)が囲んでいるということは習いません。

ここで、この分類にそれぞれの四角形に内接円あるいは外接円があるかないかという視点から分類しなおします。すると台形領域が二つに分割され、一般四角形領域が二つに分割されます。自ずと内接円も外接円もない四角形が浮かび上がってきます。それは、アップした分類図(斜線のある図)で、斜線で書かれている領域にある四角形(台形領域と一般四角形領域において内接円あるいは外接円のない四角形を二種類の斜線で区別しています)と、平行四辺形です。

さてこの分類図を鶴見さんの望みと接続させます。鶴見さんのいう「大きな名前」とはこの分類図では「長方形、正方形、ひし形、たこ形、台形、平行四辺形」に相当します。「小さな名前」は「内接円あるいは外接円を持つ台形と内接円あるいは外接円を持つ一般四角形」に相当します。「無名」は「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」に相当します。確認しましたが、鶴見さんは、「小さな名前」もしくは「無名」のものが、「ほとんど、忘れさられることに、異議をとなえつづけたい」といいました。

また話はかわる。

僕の生まれた地域は、少なくても自分の生まれたころまでは神社に「へそのう」を祭っていた。「へそのう」は生まれてくるまでは赤子が育つにあたりなくてはならない存在なのに、生まれた途端、ただあるだけになり、そのうち朽ちてしまう。しまいには忘れさられてしまうかもしれない。そのおかげで今の自分がいるにもかかわらずだ。それはどうなのだろう?

レヴィナスさんは弟子との対談で次のように述べたらしい。

……

問題はこうです。〈じぶんが存在していることで、ひとはだれかを抑圧しているのではないか〉このようにして、まさにそのとき、じぶん自身のうえに安らい、〈私〉は存在するという同一性のもとにとどまりつづけていた、自己同一的な存在者が、じぶんは存在する理由があるのだろうか、と自問することになるのです。

……

この対話の部分読みなおすと、僕はいつもドキドキするのですが、ならえば「へそのう」の存在を忘れさった自分は「へそのう」を抑圧しているのではないかともいえそうです。そして「よかった、自分の生まれた地域には神社に「へそのう」を祀る習慣があって」、ととりあえず思うのです。最近の親子は「へそのお」を祀っているかどうかはわかりません。そのかわりでしょうか、地域の神社には扇子と名前がたくさん祀られています(写真参照)。その光景は他地域には見られないと述べている神社マニアもいるようです。

こうして僕も鶴見さんやレヴィナスさんと同じように、「小さな名前」もしくは「無名」のものが、「ほとんど、忘れさられることに、異議をとなえつづけたい」と思うのですね。

四角形の分類図では、「小さな名前」に相当する「内接円あるいは外接円を持つ台形と内接円あるいは外接円を持つ一般四角形」には数学的に名前はないようです。だからともいえないですが、「無名」に相当する「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」にも名前はありません。こちらの場合、そもそも形すらも十分には日の目を見たことがないかもしれないですね(落書き程度に書かれていて)。

そこでどうしたらその形が日の目を見ることができるようになるのだろうと考えました。内接円あるいは外接円を持たない「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」それに「大きな名前」のひとつに相当する「平行四辺形」に対角線の補助線を引き、それらの四角形を二つの三角形にわけました。三角形は内接円と外接円を必ず持ちますから、ここにてすべての四角形(三角形)が内接円あるいは外接円を持つようになりました。

ここで、どこか一か所の任意の大きさの四角形にある内接円あるいは外接円を起点にして、その大きさの例えば内接円ならば内接円での他の四角形とのつながりの動線を考えました。例えばひし形は内接円を持ち、ひし形の特殊な形の正方形も内接円を持ちます。同じ大きさの内接円つながりでひし形と正方形がつながるようにです。正方形は外接円も持つのでその場合は、内接円から正方形につながったらその大きさの正方形の外接円へとつながりその外接円から別の四角形の外接円へとつながるようにして、すべての四角形の連鎖を考えました。その連鎖の図も添付しておきます。

すると「小さな名前」に相当する「内接円あるいは外接円を持つ台形と内接円あるいは外接円を持つ一般四角形」、「無名」に相当する「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」が具体的に書けるようになるのです。そのうえ、当たり前といえば当たり前かもしれませんが、そうすると面白いこともわかります。

鶴見さんは「歴史は、無数の人生の集積である。その歴史や人生は”大きな名前”(ビッグネーム)で記憶され”小さな名前”もしくは”無名”(ネームレス)のものが、ほとんど、忘れさられることに、異議をとなえつづけたい。」と述べましたが、その類のことを述べると「大きな名前」をありがたがる人たちが「右が左になっただけだ、上が下になっただけだ、本質的には何もかわっていない」と言ってくるということがあるのですが、この連鎖図で考えると、「大きな名前」にもまた「小さな名前」もしくは「無名」に相当する性質があるということがわかるのです(「てんはひとのうえにひとをつくらずひとのしたにひとをつくらず」のようです)。

たくさんの「平行四辺形」を書ける人は、「内接円あるいは外接円を持つ台形と内接円あるいは外接円を持つ一般四角形」、「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」をもたくさん書ける人かもしれないです。この考え方は、建築へと接続しそうですが、それはまた別でですね。