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〈なる〉というのは間違いですよ

先日、以下の書き物した。

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2017-02-21

教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する

例えば善者vs悪者、男vs女、教員vs学生といった二項対立で社会システムを考えていた時代、弱者は悪者であり女であり学生であった。その者らは敵つまり善者、男、教員からの自由を叫んだ。が、自由にした先には何もなかった。見かねた社会学者が「自由とは何々からの自由ではなくて何々への自由だ」と述べた。だがこれは敵への自由という意味だけではない。二項対立が一項では成立しない以上、敵への自由をいうのであれば、弱者への自由もまたいわれねばならない。さて弱者は(弱者からした)敵からしたら弱い敵ともいえる。だとするとオルテガは「自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する」とその著『大衆の反逆』で述べたが、まさにその通りだといえる。

教員にとって最も難しい仕事は授業の場にいるにもかかわらず決して授業を受けようとしない学生の扱いについてではないか。授業の場にいながら授業以外の何かしらに囚われている学生の扱いについてだ。この学生を無視することあるいは追い出すことは容易だろう。その二つを禁じ手とするのであれば、教員は授業中、裏返り、その学生のありさまの変化・生成を試みなければならないはずだ。対話的な場に出なければならないのです。ありさまの変化については何があるのかを問い続けてきた哲学的思考(ハイデガー的哲学)が、変化したありさまからの生成については終わり方に注意し続けてきた芸術的思考(レヴィナス的哲学)が力を貸すだろう(ハイデガー的哲学とレヴィナス的哲学の接続の理論は自分の場合、数学が担っていると考えている)。

こうして学生のありさまが一変すれば、必ずしもではないが授業に取り組むようになるかもしれない。ならなくても何かにとらわれているだけの時に比べたらひとつ成熟したといえる。ここで裏返っていた教員は表返り、今度はそのありさまが一変した学生の存在を起点にそれまでの授業のありさまを一変させる。あるいは一変させないという一変をさせる。こうして「落ちこぼれ」以前のおちこぼれを出さない授業が可能となるのだろうか。

この授業の枠組みはメルロポンティの可逆性的思考による。可逆性的思考において伝統的な哲学的思考あるいは芸術的思考(背後には数学)が生きているということです。オルテガの言葉をもじれば「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」のです。となるのだろうか。

この授業の枠組みはメルロポンティの可逆性的思考による。可逆性的思考において伝統的な哲学的思考あるいは芸術的思考(背後には数学)が生きているということです。オルテガの言葉をもじれば「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」のです。

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すると賛成あるいは反対でいえば、自分としては賛成できる論者―どちらかといえば産経新聞的な書き物に同意しない論者―から「いつもの反応」が返ってきた。どのような反応かといえば「それはしないほうがいい」という反応だ。「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」という態度で授業に挑むと、その態度での授業はかなり教育的な成果を上げることが予感されるが、ファシリテーターが育成されていない現状では、小中の教員のグダグダな説教を垂れ流す事だけになるからやめた方がいいというものだ。産経新聞ならば次の様に報道するだろう。以下は翌日の産経新聞の報道です。(やはり釣れた。比較的大物ですかね)。

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校舎内で女子児童にわいせつ行為の疑い 長野・大鹿小の教員逮捕(産経新聞

 長野県警飯田署は22日、学校内で10代の女性にわいせつな行為をしたとして、強制わいせつの疑いで、同県大鹿村立大鹿小学校の教員、唐沢慧容疑者(31)=松川町元大島=を逮捕した。容疑を認めているという。

 逮捕容疑は平成27年2月20日と同3月17日、南信地方の学校で同地方に住んでいた10代の女性に対して身体を触るなどわいせつな行為を働いたとしている。

 学校関係者などによると、唐沢容疑者は勤務していた大鹿小学校の校舎内で、当時高学年の女子児童に対して犯行に及んだ疑いが持たれている。

 県教育委員会によれば、唐沢容疑者は26~27年度は県教委に、28年度からは大鹿村教委に講師としてそれぞれ任用され、同小学校の教壇に立っていた。

 県内では今年度、教職員によるわいせつ事案が相次ぎ、明らかになったのはこれで8件目。

……

教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」という態度の授業はどうだろうかという事を述べると、普段は産経新聞と仲が悪く見える論者も産経新聞と同じような意見を述べる。この点、産経新聞の方が危険性を具体的に的確に指摘してくれる。そうはいっても新聞社です。

授業において教員が裏返ると、それは教育的にとても成果をもたらしそうなのだが、ともすると論者の懸念や産経新聞の報道にあるように教育関係内で例えば(いわゆる)「公然わいせつ事案」などの(いわゆる)「犯罪」が起きる。ただ見分けは難しい。それは授業部外者からすると明らかに犯罪だが、当事者たちには違う事もある。が、大抵は「犯罪」になる。そうなるのです。当時は違っても後から犯罪になってしまうのです(「〈なる〉というのは間違いですよ」と亡き師はいった)。こうした事例は、少し前では「奇妙な女子学生」を「助けよう」として全裸になった大学講師の事例(本当に助けようとしていたのでしようね)、古くは四国・香川大学教育学部の心理系の教授が研究成果に基づき女子学生の「治療」をなして問題化した事例(本当に治療しようとしていたのでしょうね)などだろう。

境界で活動することの危うさについてはカウンセラー養成の場では十分になされていたし今もなされているのだろう。例えばかつて河合隼雄は、教育と恋愛は似ていてそのような状態にいたることが教育上好ましいのだが、極ごく稀な場合を除き、教員が学生の恋人にならないように教員は注意しなければならない、というようなことについて述べていた。例えば『カウンセリングを考える』(河合隼雄)では「本当にどこまでわかっているかということになってきますと、結局、自分はそういうことをやり抜くだけの資格とか責任とかいうものを本当にもっているのだろうか、ということになってくると思うのです」と述べている。こう考えてくると、かつて教育行政は教員にカウンセリングマインドを望んだが、なまじそうしたマインドを身につけ生徒に関わると、容易に犯罪を起こすからやめた方がいいのではないかと思う。そのうちに教育社会学者が「学び」を掲げている教育地域や教員のカウンセリングマインドの涵養に力を入れている地域の教員とそうではない地域-就職や進学に力を入れている地域―の犯罪について調査するのではないか(もうあるのかな)。ちなみにおそらく政府が主導する愛国的な教育を推進する地域は「学び」やカウンセリングマインド涵養地域よりも犯罪率が高いかもしれない。一番安全な教育の仕事は就職指導や受験指導。けどその背後でね、というところがいつも問題。

ここら辺は(若いと?)悩ましいところだ。東大教授の田中志智は『〈教育〉の解読』でこう問いを立てている。「この〈学び〉やダイアローグの危うさと、〈教育〉の物語=神話の危うさ、私たちはそのどちらの危うさを引き受けるべきなのだろうか?しかしそれは、私たちがそれぞれ個体として選択する問題である。そして倫理なるものは、この選択のなかにこそ生じる決断にほかならない。それは断じて教育的なものではない」。

「個体として選択する」に従えば、わたしが教員で気楽に仕事をするとしたら「〈教育〉の物語=神話の危うさ」にのっかる。授業の場にいながら授業に取り組もうとしない生徒がいたら、すぐにしかるべき手続きに従い教育的指導を行う。その後はいつものように自己実現の人生に向けてどんどん進んでいく(管理職試験なんか受けちゃうかもしれない)。が、というところがれいの背後の問題だ。いくぶん長く生きると田中教授のその言葉のように賢く(?)あられなくなる。反対派の意見は痛いほどわかる。でもその方々の近くには議論の対象としての「弱者」はいるかもしれないけどリアル弱者がいるようには見えない。リアル弱者が身近にいると容易に「〈教育〉の物語=神話の危うさ」にのっかることはできない。のっかているときそれが尻にしている事柄を反対派は確認しているのだろうか。自分はとてもではないがのっかれない(現場、特に子供の生活世界は、ある程度の瞬間、瞬間でどんどんかわっているようです。ガラリとかわっています)。だからどうしても「〈学び〉やダイアローグの危うさ」にも―強調するが「も」―のっかりたくなります。それはリアル弱者あるいは自分のため、どちらの者のためというのではなくてです。こうして両方のっかると、今の自分としては「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」的考え方の教育が望ましいと思います。けど犯罪的なことは決してしません。身を守るようにします。何もしていないのに例えば「犯されました~」などといわれたくないですからね。犯していなくても事実化していきますからね(ここは先ほど確認しました)。これはいうなれば「公式に非公式を公式に行う危険性」ですね。そう言った大学准教授は自分のいう様に犯罪者になってしまったのだろうか。それは嫌だな。元気になってよ。私といえば私は普通です。そんなの当り前じゃないですか。この書き物に惑わされないように。書き物ハンブンいや四分の一程度でお願いしますよ。じゃないとそのうち村上春樹の小説のメイやあゆみのよう這い上がれない穴に落ちてしまいますよ(わたしはひょっとしたらもう落ちているのかもしれないなぁ。それは自分にはわかりにくい。生まれ出ることはできるのだろうか。ヘルプミー)。

教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する

例えば善者vs悪者、男vs女、教員vs学生といった二項対立で社会システムを考えていた時代、弱者は悪者であり女であり学生であった。その者らは敵つまり善者、男、教員からの自由を叫んだ。が、自由にした先には何もなかった。見かねた社会学者が「自由とは何々からの自由ではなくて何々への自由だ」と述べた。だがこれは敵への自由という意味だけではない。二項対立が一項では成立しない以上、敵への自由をいうのであれば、弱者への自由もまたいわれねばならない。さて弱者は(弱者からした)敵からしたら弱い敵ともいえる。だとするとオルテガは「自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する」とその著『大衆の反逆』で述べたが、まさにその通りだといえる。

教員にとって最も難しい仕事は授業の場にいるにもかかわらず決して授業を受けようとしない学生の扱いについてではないか。授業の場にいながら授業以外の何かしらに囚われている学生の扱いについてだ。この学生を無視することあるいは追い出すことは容易だろう。その二つを禁じ手とするのであれば、教員は授業中、裏返り、その学生のありさまの変化・生成を試みなければならないはずだ。対話的な場に出なければならないのです。ありさまの変化については何があるのかを問い続けてきた哲学的思考(ハイデガー的哲学)が、変化したありさまからの生成については終わり方に注意し続けてきた芸術的思考(レヴィナス的哲学)が力を貸すだろう(ハイデガー的哲学とレヴィナス的哲学の接続の理論は自分の場合、数学が担っていると考えている)。

こうして学生のありさまが一変すれば、必ずしもではないが授業に取り組むようになるかもしれない。ならなくても何かにとらわれているだけの時に比べたらひとつ成熟したといえる。ここで裏返っていた教員は表返り、今度はそのありさまが一変した学生の存在を起点にそれまでの授業のありさまを一変させる。あるいは一変させないという一変をさせる。こうして「落ちこぼれ」以前のおちこぼれを出さない授業が可能となるのだろうか。

この授業の枠組みはメルロポンティの可逆性的思考による。可逆性的思考において伝統的な哲学的思考あるいは芸術的思考(背後には数学)が生きているということです。オルテガの言葉をもじれば「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」のです。

体育、音楽、国語、保健室

「勉強はできないけど野球があれば生きていける」と宣言している少年同級生を見ながら僕は「すごいな」と思っていた。なぜか。「大学合格=甲子園出場」で考えた場合、甲子園出場の方が難関だと自分は思っていたが、その難関さにチャレンジしようとしているように見えていたからだ。ピアノも野球と同じことがいえるかもしれない。ピアノを弾く少女の人数に対して、音大に入学する生徒の人数は限られ、さらに入学後、国際コンクールで賞を受け、華々しくデビューする人数はごく一部の者だという意味で。こうしたテーマを扱った作品が体育は重松清『卒業ホームラン』、音楽は宮下奈都『よろこびの歌』だろう。どちらも高校国語教科書に取り上げられている作品だ。

僕は体育も音楽も好きだが体育の授業や音楽の授業での体育や音楽は好きではなかった。先生が嫌いだったからではない。授業での体育や音楽のあり方が嫌いだった。どちらも―これは体育や音楽に限らないかもしれないが―〈評価〉や〈勝ち負け〉がつきまとっていたから嫌いだった。しかし〈評価〉や〈勝ち負け〉をなくした音楽の授業や体育の授業は、炭酸の抜けた炭酸ジュースのようなもので、それはそれなりの美味しさがあるとしてもあまり美味しいとはいえないと自分も思う。ある程度の〈評価〉や〈勝ち負け〉は必要だろうが、その程度がどの程度なのかは基準化できないのだろう(基準化されれば、すぐに逆手利用されてしまう。それは関係者の無能化を進行させるだけだろう)。

〈評価〉や〈勝ち負け〉の傍らにはなにがあるのだろうか。〈評価〉の傍らには〈開放性〉が、〈勝ち負け〉の傍らには〈受容性〉があるだろうか。だとすれば、その場所はひとつに「保健室」だ。保健室くる生徒には何かあるのだろう。その「何か」は、大抵、生徒の現在を縛っている。それがあるから今の自分がこんなになってしまっていると生徒を縛っている。しかし生徒自身のことなのに生徒自身にはどうしょうもできないでいる(その意味で生徒は呪いにかけられている)。ただただ「おかしい」「へんだ」という感じだけが現れている。

平野啓一郎さんが「過去はかえられる」ということを最近、よく述べている。要約すれば「過去があることは仕方がないし、現在は過去に縛られやすい傾向がある。しかし過去と現在を切り離し、未来から現在を生きれば、そうして現在がかわることで過去が違って見えてくる」というようなことを述べていたと思う(間違っていたらごめんなさい。平野さんの本を読んでみてください。ちなみに似た生き方として歴史修正主義的な生き方が挙げられますが、こちらは過去と現在を切り離すことも、未来から現在を生きようとすることもなく、ありえてしまう過去を羊頭狗肉的に取り換えようとするのです)。

この平野さんの「過去はかえられる」的な態度で、保健室に来る生徒も生きられたら、きっと、僕のような体育や音楽は好きでも〈評価〉や〈勝ち負け〉につきまとわれている授業の体育や音楽を嫌いという生徒も、一生、音楽や体育に取り組んでいけるのでしょうね。

「上書き保存」的恋愛、「名前を付けて保存」的恋愛について

「女性は(過去の)カレからの手紙は全部燃やす」「男性は(過去の)彼女からの手紙を後生大事に取っておく」という傾向があるときく(今の若い人は手紙を書かないかもしれないからわからないかもしれない、が)。この傾向は、女性の恋愛は「上書き保存」(だからひとりの男性を愛し続けることができる?)、男性の恋愛は「名前を付けて保存」(だから浮気症?)だという傾向と関りがありえるかもしれない。同程度の人数の恋愛経験場合、一見すると男性の方が沢山の女性を愛していそうだが、どうなのだろう。

「上書き保存」は、初めの本文と同じ本文でありつつも始めの本文は消えて全く別の本文を保存する(「保存する」とはここでは恋人にするという意味です)。「上書き保存」では、最初の本文と保存した本文は、前者は「最初の本文」も後者は「上書き保存した本文」というように自覚されている。が、「最初の本文」と「保存した本文」の〈つながり〉が「何」であるかは自覚されていない(全く無関係では「上書き保存」ではない)。もし自覚されればそこには「最初の本文という元・カレ」でも「保存した本文という今・カレ」とも違う、「何という第三者的な存在」があるといえる(自覚していなくても「〈つながり〉という第三者的な存在の卵」がありえている)。

翻って男性の「名前を付けて保存」的恋愛には「何という第三者的な存在」(あるいは「〈つながり〉という第三者的な存在の卵」)はない。名前的な個別さはとても大切にされているが、その各々の個別さは無関係に存在している。

「〈つながり〉という第三者的な卵」からは何が生まれてくるかわからない。これは元カレと今カレの〈つながり〉は、〈つながり〉があるということは一般的にいえるが、具体的に何があるのかといえないということです。その何かしらの具体さが今カレでなければならない理由だとはいえそうです。

こうして「上書き保存」的恋愛の方が「名前を付けて保存」的恋愛よりも多くの異性を愛しているといえます(「上書き保存」的恋愛は、ひとり愛すと2.5ないし3を愛しています。「名前を付けて保存」的恋愛はひとり愛すと1を愛していますから)。「上書き保存」的恋愛は「二者が関係を結ぶと第三者が排除される」(詳しくは例えば『近代性の構造』今村仁司参照)という根源的な暴力の誕生を防いでいると言い換えてもよいです。

バレンタインのチョコ頂きました。

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バレンタインチョコもらった。うれしい‼

(独身約四十歳彼女なし男)

嘘だよ。いわゆる「自分へのご褒美」しました。ところで「自分へのご褒美」している〈自分〉って誰かな。「自分」ではないよね。「もうひとりの自分」としたくなるがそうして「自分」への関係を「自分」だけで閉じちゃうと夢なくない? その〈自分〉は「今はいない彼女」としたらどう? 未来の彼女あるいは亡き彼女ということ。が、亡き彼女は眠っている(永眠している)。チョコ渡せたくても渡せない。他方、未来の彼女は自分が生きていれば会える可能性はある。しかし会っていないのでチョコを渡してくることはない。ところが永眠している彼女がその夢の中で(死者は夢をみる?)生きている姿が未来の彼女だとしたら会っていない未来の彼女がチョコを渡してくるということはある。「自分」は「自分」の生を仮設的に止め、その肉体を未来の彼女に明け渡し、未来の彼女(亡き彼女)からチョコを頂いているのです。こう考えるとたかが「自分へのご褒美」も侮れません。そのご褒美は、リアル彼女から頂いたように本当に大切にしなければならないのです。いただきまーす。

『思想の中の数学的構造』(山下正男)を読みつつ考えている事

ハイデガーレヴィナスは二人とも「ある」について述べているが違う。ハイデガーは「ある」とは「与えられてある」といい、レヴィナスは「すべてを奪われた後になおある」というように「ある」について述べている。

さてアップした「ベン図」は、台形、平行四辺形、長方形、正方形、ひし形をその性質にそって分類したベン図です。小学生で習います。このベン図は有名です。ところが、たこ形だけはこのベン図にいつも載っていません。学習指導要領的にたこ形は扱わないのかもしれませんが、たこ形の特殊な形がひし形で、ひし形の特殊な形が正方形であることを想うと、扱ったとしても難しいことではないと思います。

ところが、扱いいざベン図を書こうとすると上手に書けない(やってみるとわかります)。既存のベン図でまとめようとすると、アップした写真の様になるでしょうか。たこ形だけが「ある」のです。

これはハイデガーの「ある」とレヴィナスの「ある」どちらでしょうね。

たこ形はひし形あるいは正方形と関係していますが、それが奪われてあるという意味では、レヴィナスの「ある」でしょうかね。

(今日はここまで)

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「保守論者」について

例えば憲法を題材として…。どんなに素晴らしい憲法草案でも一旦同意したら後は権力者が好き勝手にする可能性は否定できないので改憲には賛成できない、今まで上手くやってきていることがあるのだからそれでいいじゃないかという論者を「保守論者」とすれば保守論者は滅多に腹を見せることはしないと思う。というのも今まで上手くやってきていることを具体的に権力派に示せば、逆手に取られるようにして追い込まれるだろうことを予感しているのではないかと推測しているからです。だとすれば翻って考えれば、具体的に示しているとすればそれは何らかの(例えば)作戦だと考えた方がいい。それは何かと問う方がいい(でないと保守論者の術中らしきにはまる)。

このように保守論者が何を保守しているのかはわかりにくい。

しかし何を保守するのかを巡って三タイプの保守論者がいることは想像できる気がする。①存在としては共通しているがそれしかない存在を保守する保守論者。素数の如く存在を保守する保守論者。素数の喩で続ければ②たまたま同じ素数の如く存在を保守した保守論者。③あえて同じ素数の如く存在を保守した保守論者の三タイプです。

①は、2、3、5などの素数の内、どれか一つだけの素数の如く何かを保守している者です。たとえ「せ~の」で同時に腹を明かしても自分と同じ存在を保守している保守論者はいません。②は同じく同時に腹を明かした時、例えば2ならば2をたまたま他の保守論者と同じく保守した保守論者です。この保守論者が保守しうることは自分以外の保守論者と同じ存在を保守していますがその保守論者が保守したその存在だけです。③は同時に腹を明かした時、少し後出しするようにして自分以外の保守論者の保守している存在を「自分もそうだ」という保守論者です。この場合、自分が保守しうる存在は何でもありになります。自分としては保守していることが無いということです(「保守していることが無い」ということを保守しているともいえそうです)。