「自分」の存在様態をかえる

例えば。「自分と自分に親和する誰かには親和性がある。違いはそれぞれのらしさ。親和性はあの第三者(達)にも見出せる。この、基本三者の関係を調節する管理者がいる。管理者の相談にのる管理者がいる。管理者の始祖がいる。この〈基本六者の関係を調節する管理者〉、〈その管理者の相談にのる管理者〉、〈管理者の始祖〉。その他としての【別人】がいる。ここでの登場人物は基本十人。関係づいている。しかし例えば前三者と後三者は別々に、前三者でも自分と自分に親和する誰かは一緒にあの第三者は別に、後三者はそれぞれ別に住んでいるというように、個々がありつつ、全体としてはつながっているが、切れているところもあるようにしてつながって生きている。」とする。

すると例えば自分が傷つくと、その影響は残りの者にも及ぶことになる。そしてそれぞれ連係プレーをするようにして動き、全体的再生へといたるということもあるかもしれない。その時、自分も回復している。

こうした役割は例えば入れかわる場合もあるし、例えば十人の内の数人が別の十人と同じように連携していたりする場合もある。他の場合もとてもある。つまり極めて複雑で重層している。

現代的な自分の存在様態は、あるひとつの名詞(名前)を与えられたこのただひとりとしている。しかし自分の存在様態を、示したように複数で存在しているとすることもできる。それは伝統的には、家族、親族、職人集団、芸能集団などとしてありえていたかもしれない。しかし必ずしもそうでなくてもありえる。むしろ家族等であっても現代的な自分の集まりとしてそれらをとらえていたら、複数で存在している自分を生きられなくなる。

 

善良な心をリーガルマインドから守るには?

新見南吉『ごんぎつね』(昭和7年)と安倍公房『プルートーのわな』(昭和27年)から。

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『ごんぎつね』の要約。

雨上がり穴から出たごんは河原に行った。兵十の漁にうなぎをみつけて逃がすといういたずらをしていた。そこへ兵十がやってきた。ごんは逃げた。兵十はごんがうなぎを盗んでいると思った。数日後、兵十の母が亡くなったことを知ったごんは、あのうなぎは母に食べさせるものだったのだろうと推測し、いたずらしたことを後悔した。

ゴンはつぐなうためにいわし屋からいわしを密かにつかみ出し兵十の家に投げこんだ。兵十はいわし屋から盗人扱いされ酷い目に会う。それを見たゴンは反省し、拾った栗をそっと兵十の家に頻繁に届ける。栗が届けられることを不思議に思った兵十は加助に相談する。加助は「それは兵十のことを心配する神さまのしわざだ。神さまにお礼したほうがよい」と兵十に助言する。それを聞いたゴンは「つまらない。神さまにお礼が行くのでは、引き合いに合わない」と思った。それでもゴンは栗を持って行く。

その姿を見た兵十は盗人ごん狐がいたずらしに来たと思い銃で撃つ

ごんに近寄った兵十はごんか栗を持っていることに気がつき、ごんに「お前が栗を持ってきてくれていたのか」と尋ねる。ごんはうなずく。兵十は銃を落とす。銃口からはまだ青い煙が出ている。

プルートーのわな』の要約。

倉の二階に、オルフォイスとオイリディケというねずみの夫婦が住んでいた。オルフォイスは偉大だった。他のねずみ達はオルフォイスに「王様になってくれ」と頼んだ。オルフォイスは拒否した。その代り「君主ではない元首を持っている政体」(共和国)を薦めた。採用された。オルフォイスが初代元首(大統領)に選ばれた。倉内は繁栄した。倉外には猫たちがうようよしていた。ある日、倉の持ち主の人間が倉に入ってきて、倉の戸を半分開けっ放しにして出て行ってしまった。倉の中にプルートーという名の残忍で名高い老猫が入ってきた。他のねずみ達は怯えた。

プルートーに鈴をつけさせよう。誰が行くのか」と議論した。「それは無理だ」とオルフォイスは説いた。しかし誰もきく耳を持たなかった。説得をあきらめたオルフォイスは「交渉の余地がないわけではない、それが皆の総意ならばやってみよう」と壁越しに交渉に挑んだ。首に鈴をつけるという取引に成功した。オルフォイスが鈴をつけに行こうとすると、万が一のことがあってはと他のねずみ達がとめた。オイリディケがプルートーのもとへ向かうことを志願した。いくら待ってもオイリディケは帰ってこなかった。オルフォイスもプルートーのもとへ行った。オルフォイス「オイリディケを返してくれ。どこにいる」プルートー「いるところにいる。おれが知っている」。プルートーは、倉の二階に帰るまで後ろを振り向かなければ、後ろからオイリディケをついていかせる、振り向いたら殺すと条件を出した。オルフォイスは振り向かずに二階へと進み始めた。

途中で後ろにオイリディケがついてきていない、だまされたと気がつき振り向くやいなやオルフォイスはプルートーに殺された

プルートーは「おれが悪いんじゃない。約束を破ったオルフォイスが悪いのさ」といい、二階を見上げ、水を飲みに外に出て行った。

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この二つの小説、内容や展開が似ている。解決すべき問題が否応なしに起きてしまう。問題の解決が試みられる。解決しそうな瞬間、「殺行為」(要約傍線部)が起きる。「悲劇」感を醸し出すように終わる。というように似ている。

なぜその終わりに「悲劇」を感じるのか。兵十もプルートーも無自覚的か自覚的かはともかくルールを守ることを最優先することで「殺行為」がなされる。当然だが、当事者たちは何のためらいもなくまさに当たり前にその行為をなす。その当たり前さには問題を解決しようとしている者の善良な心が隠されている。手遅れになってからその心に気がつく。こうした理屈からだろうか。

 

こうしたことが『ごんぎつね』と『プルートーのわな』では裏腹的に描かれている。

 

「統合失調は先駆的に物事を憂う。狩猟生活と馴染む」「うつは後の祭り的に物事を憂う。農耕生活と馴染む」というようなことを木村敏さん、中井久夫さんがどこかで書いておられた。

 

この二つの小説はどちらかというと「後の祭り的」な終わり方をしている。当時の作家は「うつ的な者」が多かったのだろうか。ごんやオルフォイスが「善良な心」でありつつも「悲劇」に終わらないためには、問題解決の手段を講じた直後(あるいはうなぎや猫を見た段階で)、すぐさま統合失調親和者的にこのままではまずいことが起きるかもしれないと憂い、もう一つの手立てを講じることができていたら、小説は違った内容で、その価値を損なわず書かれうるかもしれない。

 

「頭の良さ」の根底には「泥臭さ」があるはず

私たち日本人が最初に「証明」について学習する機会は、近年では中学二年生の数学における「合同な図形」の証明だろうか。この証明の仕組みは概ね、まず合同条件の確定があって、それは一旦おき「図形Aと図形Bは合同だろうか」という問題にあたったとき、その二つの図形に合同条件(証拠)が見出されば、その二つの図形は合同であると証明されるという道筋ですね。

ところでこの合同条件自体は、この数学の証明の仕組みにおいて正しさが証明されるようにしてありえているのか、それとも何度も何度も実験的に検討がなされた結果、「これはおそらく妥当」というようにしてありえているのか。

 

少なくても授業においては「合同条件」とは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果としてだろう。証明的に示そうとしたら、まだ学習していないことを用いてこれから学習することを学習するという矛盾に陥るからですね。「合同条件」くらいならば、そう何度も何度も実験的に検討しなくても確定できる気もします。

しかし数学の証明の仕組みをすでに習っているとしたら「合同条件」も数学的に証明しうる。が、とするとこの数学の証明の仕組みはどのようにして身につけたのか。他分野から借りてきたものか、それとも数学独自のものなのか。独自のものとすれば、その妥当さの確定は「数学の証明の仕組み」とは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果としてだろうか。

 

社会学と数学はつながることがある。このつながりは、あるとされる問題について、多くの情報を手に入れ、素早く選別し、組み立て、答えを導き出す、他者にもわかるように導きだすというという「頭の良い仕方」による。どのように社会学において数学がどのように働いているか。社会学はともすると社会学を専攻するものの個人妄総学に陥りやすい(も妄想かもしれないが勘弁)。が、その妄想さが社会学の原動力になっているかもしれない。しかしやはりそれは妄想だ。だからか妄想を語りつつもその妄想を補正するようなかたちで極めて客観性が高い数学を援用するのかもしれない(数学だけではというところもあるが)。

 

「合同条件自体は、この数学の証明の仕組みにおいて正しさが証明されるようにしてありえているのか、それとも何度も何度も実験的に検討がなされた結果、「これはおそらく妥当」というようにしてありえているのか」という問いに惹かれている自分は、この「頭の良い仕方」が退屈なのかもしれない。知についての活動の現場では、ある問いについてそれは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果、その問いに対するその答えは妥当という答えの出しかたでの活動の仕方が、もっと胸を張ってもいいと私は思っている(そんな私はファラデー‥ファラデーの法則のファラデー‥をリスペクトしている)。

 

 

 

 

こうした児童たちは?

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飯田市の小学校の50代女性教諭が、担任する学級で忘れ物の多い児童3人の名前を「忘れ物ランキング」と称して、件数とともに教室に掲示し、校長から注意を受けていたことが29日、分かった。掲示は既に外された。市教育委員会から報告を受けた県教委は、不適切な指導とし「具体的な事実を確認中」(義務教育課)としている。

 校長や市教委によると、教諭は4月からこの学級を担任。教科書などの忘れ物や、未提出の宿題の件数を週ごとに集計した。「忘れ物が多い児童が固定化しており、もう少し指導しないといけない」と考え、6月12〜16日分で件数が多い順に3人の名前を紙に書き、19日に連絡黒板に掲示した。

 これとは別に6月、授業中に落ち着きがないなどとして児童3人に対し、「友だちから、いらないとか迷惑に思われる」と注意。3人の席を一時的に教室後方に移した。この3人について「いらない班」と保護者に話した児童もいたという。

 20日に保護者から学校に相談があった。校長は「子どもたちの気持ちに立てば、行き過ぎた不適切な指導」と教諭を口頭で注意。掲示を外し、21日に市教委に報告した。教諭は該当児童に「心を傷つけてしまった」と謝罪した。児童が欠席しがちになるといった変化はないとしている。

 教育研究家の古山明男さん(千葉市)は、忘れ物ランキングについて「改善効果が薄く、子どもをただ傷つけるだけの行為」と指摘。席の移動については、「学級内の子どもたちに与える印象を考え、十分な配慮が必要ではなかったか」と話している。

(信毎)
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大分県日田市の小学校の男性校長が、去年から今年にかけて、3人の児童の顔などを平手でたたく体罰をしていた事がわかった。

 児童に体罰をしていたのは、日田市内の小学校の男性校長(56)。市教委によると、この男性校長は今年5月、担任が注意したにもかかわらず授業中におしゃべりを繰り返していた小学2年生の児童2人の頭を、平手で2回ずつたたいた。また、去年7月にも小学4年生の児童がほかの児童に暴言を吐いた事に対して、強い口調で叱った上で平手打ちをしたという。3人の児童にけがはなかった。

 校長は、1週間前から自主的に自宅で謹慎していて、「体罰への認識が甘かった」と話しているという。市教委は30日夜、小・中学校の校長を集めた臨時の校長会を開き、体罰禁止の徹底を指導するとしている。(日テレ)

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この類の記事での、教諭、校長、市教委、保護者、教育研究家、校長会などは一旦であれ欄外に置くとして、こうした児童たちは? 

事が起きた後で知るというのは悲しいことかもしれないが、事が起きた後だとしても、あなたたちの周りにはあなたたちのことを気にかけている大人たちが、あなたたちは気がついていないかもしれないが、普段からこんなにもいるのだから(私も含めて)、何というか・・・「そんなんじゃなくて、もうちょっと何とかしたら?」と私は思うよ。祈りが足りなかったかな。それとも持ち物を持ってこさせる国、子どもに落ち着きを望む国、暴言を禁止する国がお嫌いかしら(そんなこといえば昔は「いやなら日本からでていけ。アメリカでもどこでもいっちまえ」といわれましたね。シンガポールにでもいく?)

こういう児童たちに心的外傷を負わされるようにして教壇を去った教員はどのくらいいるのでしょうね。その児童たちは大人になって「おれ、小三の時、担任、退職に追い込んだぜ」とかヤンキー武勇伝してしまうのかしら。

「〈学校に通っている〉とはどういうことなのだろう?」。児童たち、自意識もないほど大昔から学校に通っているだろうから、学校に通うことが当たり前すぎて、学校に通っている自分をすっかり忘れているもしれませんね。だとしたら周りの大人が何しても(あるいは何しなくても)この児童たちは、大人のおもうようには受け答えできないでしょうね。(といえば今度は「大人の表現の仕方が悪いから、僕たちは…」と児童たちから前・体罰を受けるかもしれないからいわないけど。が、そういえたら、わかていないでいるよりはちょっとはまともだと私は思います)。

 

 

ライフコースを考えることを起点として「自分の人生に自分の意のままにならないことがあることはありがたい」「死ぬことは間違いではない」という思いにいたる

ハイデガーは若かりし頃、その哲学を「生老病死」といったライフコースから学んだと聞いたことがある。私も真似してみる。

 

「産まれる以前がある。産まれる。無我夢中的に生きている。気がつく。自意識あり状態。自意識がなくなる。無我夢中的に生きる。死ぬ。死後がある。」という順のライフコースが考えられる。では、そのライフコースを考えているステージはどこかといえば「自意識あり状態」が妥当。というのも「産まれる以前」や「死後がある」では考えられない。「産まれる」「気がつく」「意識がなくなる」は瞬間的な現象。「無我夢中的に生きている」時とはその場その場的なことだけに取り組んで生きている時だと思っているから。とするとそのライフコースは「産まれる以前がある。産まれる。無我夢中的に生きている。気がつく。自意識あり状態。自分的ライフコースについて考える。自意識がなくなる。無我夢中的に生きている。死ぬ。死後がある。」という10のステージにわかれるといえる。

このコース、一見すると直線的な時間観に支配されているように見える。ところが違う。まず気がつき、自意識あり状態にいたらないと何も始まらない。そして自分的ライフコースを考える。そして再度、無我夢中的に生きているにいたる。これは真ん中の5ステージだけが自分の人生ということです。では自分的ライフステージの一部としてありえているが、自分で関りえない前3ステージ、後2ステージは何か。

 

ところでこうした、気がつく・気がつかないという議論をすると時に「気がつかない人は気がつかないまま終わる」といわれる。その時、ライフコース的には無我夢中的に生きていることには変わりない。が、気がついていて、再度、無我夢中的に生きているとは違う。気がつかずに無我夢中的に生きているは「何も気がついていなくてかわいそうだよね。動物的な生だよね」という生。だからか「気がつかない人は気がつかないまま終わる」といわれると「動物的は嫌だ。人間らしく生きたい」と願っている者としては脅されているような気がする。脅されているがどうしようもできないから、とても悩む。

 

さて前3ステージは自分的ライフコースの一部として確かにありえているが自分ではどうしょうもできないステージとしてあった。自分は立てないが確かにステージはあるので、その3ステージに自分以外の者に立って頂くことで、気づきが与えられると考えられないだろうか。そう考えると自分的ライフコースに自分ではどうしようもない部分があるということがありがたいとおもえる。

では後2ステージは何か。ここも自分的ライフコースの一部としてありえているが自分ではどうしょうもできないステージとしてある。自分の死後、そのステージに立った自分以外の者が…というところを想定して、そうあれるように再度、無我夢中的に生きているに入る。自分が死んだあと、そのステージに立った者の〈最高の人生〉がそこで花開くと思えると死ぬことも間違いではないとその自分的には思える。

 

以上、ハイデガーの哲学の仕方を真似したことでありえたいわば「誕生と死の哲学」でした。

愛知県で5月、児童ポルノ事件で懲戒処分歴のある教員が、自校の女子児童に対する強制わいせつ容疑で逮捕された。同様のケースは他にもあり、保護者や専門家から教員の採用や処分の厳格化を求める声が上がるほか、自民党の部会も国レベルで処分情報を共有する仕組みづくりを松野博一文部科学相に提言した。文科省は対策を検討しているものの抜本策は見えていない。(毎日新聞)

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「保護者」「専門家」「毎日新聞(会社)」「自民党」「文部科学相」「文科省」など、それぞれにおける「性犯罪」事情はあまり報道されていない気が自分しているのですが、実際のところ教員の「性犯罪」事情とくらべてどうなのでしょうね(警察は知っているかもしれないですね。知っていてほしいです)。

医学部の学生が居酒屋で「医者が人ひとり亡くならせてしまうと、マスコミにものすごい勢いでたたかれるのに、会社社長が人ひとりな亡くならせてもそれほどでもない。むしろよくやったと陰で仲間から褒められている」と若造らしてく皮肉っていましたが、教員も同じですかね。

「医者」や「教員」と「会社社長」とは社会的に期待されていることが違うでしょうが、また、「かわいそう」と同情すると「同情しているお前は何様のつもりだ」などと問われそうですが、それにしても「教員」や「医者」はかわいそうだと私は思います。そういうと「被害者の女子児童のやお家の方がもっとかわいそうだ」といわれそうですが、自分もそう思いますね。そのうえで、なおです。

「問題の所在」なのか、「問題の設定」なのか

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原子力発電が問題を起こすと原子力発電自体に罪はないという原子力発電擁護の意見が出てくる。宗教が問題を起こすと宗教自体には罪はないという宗教用語意見が出てくる。芸術作品が問題を起こすと芸術作品自体には問題はないという芸術作品擁護の意見が出てくる。

擁護意見の通りだと私も思います。それ自体はそれ自体に過ぎません。それらを無かったことにするのは間違いです。だが「しかし…」ところもありえているとも自分は思います。問題を起こした原子力発電によって被害を受けたとか、問題を起こした宗教によって命を奪われたとか、問題を起こした芸術作品によって政治攻撃を受けたとかありますからね。他時では、それらの恩恵を享受してもいますよね。その時、それら自体は意識にすらのぼっていない。

同様のことは男女を巡っても起きますね。男女は平等だといえば平等だと私も思います。しかし現実的には非対称です。例えば添付した記事には親によるその子のお見合いの条件です。息子は有職者でなければならず娘はそう条件づけられていない。これは男女平等でないといえば男女平等でない。が、現行社会で生きようとすればわからないでもない。

現行社会で生きようとしなければ、お見合い成立の可能性はそうでない場合よりも高まるかもしれない。が、その時の社会とは現行社会の中の特殊な社会としてありえる。それもここから双方、手さぐり的につくりあげていかいないといけない。つくりあげてもその社会は現行社会と無関係でありえはしない。これは現行社会を若干でも変化させてしまっているということです。しかし例えば「現行社会を若干でも変化させることを快く思わない現行社会の住人」がいるかもしれない。だが前もってなにがいるかあるいはいないかは決してわからない。(とりあえず)つくりあげたとき、わかることはある。わかれば、それがどうしてくるかのすぐに予感できる。ただこの予感は、純粋な再生産の予感とは違う。予感はそもそも再生産するからこそ予感なのですが、ここでの予感は再生産の予感でありながら再生産しない予感ですね。なぜか。初めてだから。だからあまり口に出していうものではないです。しかしその予感ができれば、予感した「どうしてくる」にたいして手だてをうつことができます。ただしその手だては〈別〉にも接続しうるというようにしても、うたねばならないですね。この予感は必ず外れますから。この予感は再生産の予感ですが、再生産しない予感ですから。

ここでは「与えられた生を生きていたら、にっちもさっちもいかない状況に陥った。生きられなくなった。解決のためにあることをなした。そうして初めてわかることがあった。そのわかりからの予感されることもあった。そこでその予感されたことに配慮した。それもその配慮が〈別〉にも接続しうるという仕方で配慮して、再度、生きた」というようなを辿っています。

しかし前もって「にっちもさっちもいかない状況に陥らない」ことが一番ですよね。親によるその子のお見合いの事例ならば、条件の通り息子は有職者でなければならず娘はそう条件づけられていないままが一番いい。しかしどんなに常日頃から(例えば)コツコツと露払いの如くしていても「にっちもさっちもいかない状況」に嵌る時は嵌ってしまう。そればかりは仕方がない(問題は所在しているものですという態度)。他方、こうしたことが言語化されると「あえてにっちもさっちもいかない状況」に嵌るということもできます。「あえて」常日頃からコツコツと露払いの如くをしない等して。(問題は設定するものですという態度)。ここが別れ道ですね。どちらから入っても目指す先は〈別〉ですが。