『実に飛びつけ?』

最近はあまり聞かなくなったが僕が子供だった頃の大人は子供だった僕や友によく「将来、何になりたい?」と尋ねていた。僕は「大工さんになりたい」と答えていた。「理由は?」と尋ねられると「定年がないから」とおませ的な返答をしていた。現在、僕は大工ではないが、そう大人に将来を問われて、成りたい自分に成ろうとして前のめりに生きた友もいるのではないだろうか。今頃、成りたい自分に成っているだろう。目的に向ってまっすぐ進む、見事な直線動線の現実を生き切ったのだ。途中、誘惑はあったであろうにもかかわらずだ(※1)。友と同じく生真面目に生きたが成りたい自分に成れなかった僕は、今もひとり〈進路指導室〉でうらやましいと思っている。

ところで「成りたい自分に成れて活躍している私ってちょっと素敵」とかつての友が思っているかどうかは知らぬが、その現実は現在どんな現実なのだろう。

「また朝起きて、身支度を整え、朝食をとり、家を出で職場へ行き、仕事をして、昼食をとってまた仕事をして、帰宅し、身支度を整え、夕食をとり、用事を済ませて寝て、また朝起きて…」と同じ風景を見ながらグラウンドを何週もするような円形動線の現実だろうか。途中に「生老病死」による何かしらはあるにしても。

かつての友は、大人にそそのかされて(?)、直線動線の現実を進み、その終点を起点として円形動線の現実を生きているとする。

「この構図は何だろう?」と問うと、僕には「皿回し芸」の構図が浮かんでくる。「皿回しシステムに生きる子供と皿回しする大人」という子供と大人の関係だ。それも「子供は大人になり新たな皿回しを始め、皿回しを始めた大人は亡くなっても皿を回し続けている」という構図だ。

僕は〈進路指導室〉から仮面をつけ外出し円形動線の現実を生きるかつての友に「中一の部活動のような人生でいいの?」と密かに囁く夢を見る。大抵、「自分が選んだ道だから」との返答を頂く。そこに至った生真面目さや、至った後の活躍に思いを馳せれば、返す言葉はない。ここにて〈人類統治システム〉は「死者と無限の生者による皿回し芸」として完成したのだろうか。

僕は〈進路指導室〉の窓を開けそこから「死者と無限の生者による皿回し芸」を眺めている。その僕には当時、子供に「将来、何になりたい?」と尋ねそうならせた大人が、それ故に図らずも(?) その子供から奪ってしまったひとつのもの―幼きナウシカにとってのオウムの幼生のような―のその跡が、生き切った直線動線の現実を木に喩えれば、その木にひとつ実ついているように見える。だが種子に相当するものはない。その実はあくまでも「大人がその子供から奪ってしまったひとつのもの」の「跡」だからだ。しかし実であることは確かだ。

僕は「実に飛びつけ!!」と叫んだ。円形動線の現実を生きていたかつての友はその現実から自身が生き切った直線動線の現実にある「大人がその子供から奪ってしまったひとつのものの跡」へと向けて飛び出し、着地した。かつて友は飛びながらその途中、自分の生きてきた現実をチラ見しているようだった。そして円形動線の現実が、実は終点-これは子供をそそのかした(?) 大人が子供に望んだ子供の最後の姿のハリボテもある―のある螺旋形動線の現実であることに気がついた(※2)。そのように円形動線の始点と終点は同じ位置にあるとしても途切れているのに円形動線の現実だと思い生きていた自分は日々、見えない動線を移動していたとわかった。よく落ちなかったものだと思った。思い込みの力といったものか、それとも谷を渡る蝶は蝶にしか見えない道筋が見えていると聞くがそのようなものを渡っていたのかと思った。

友はかつて自身が歩んできた現実を再度、選びなぞり返すようにしてもう一度、生きはじめた。そして終点までもう一度、辿り着いた。その終点はいつもと同じ終点だが、今は見えない動線的な存在を自覚している分、いつもと違ってもいる。「これは何だろう」。友は見えない動線的な存在の方向でもかつて飛び出した方向でもないところへと向けてそろりと進み始めた。

答えを見つけた友は、再び、始点≒終点≒答えという位置の答えに戻っている。その答えを再度、「これは何だろう」と問えばまだまだ続くが切がない。よってここで終える。

……

※1

直線動線の現実は「レール」に喩えられることができると私は思う。柄谷行人はその著『定本 日本近代文学の起源』の第3章で「告白という制度」と題して「告白」について論じているが「レールという制度」と題して「レール」については論じていない。だが「レール」について歌手はよく考えているのではないか。思いつくままに挙げ感想を述べていく。

「せんろはつづくよどこまでも…(略)…たのしいたびのゆめつないでいる」(『線路は続くよどこまでも』アメリカ民謡)。「せんろ」は希望が持てるね。これから始まる人生楽しそう。いや人生は厳しいことの裏返しさ。そうかも。アメリカの荒野に線路を敷いたのだから。「弱さを道連れにして軌道を外れる下りの電車に乗れば空っぽの自由感じるよ」(『Dream on 抱きしめて』LINDBERG)、「手を振って別れたみんなも今それぞれのレールの上を歩くバランスをとって風によろめきながら」(『願いがかなうように』LINDBERG)、うーん、「レール」って両義性があるのね。「見えないレールから飛び降りてしまおう」(『トラブルメイカー』相川七瀬)、どういうことだ?。自分らしく生きているつもりでもそれは誰かの敷いたレール生きているだけだ。「レール」から下りて「レール」を知ろうよ。思っているのと違うよ、ということなのか?。それとも本当に「見えないレール」があるのか。ありそう。「自分を信じてそのレールをひいて行け」(『レール』HY)、「レール」に乗った人生は自分否定されるが「レール」からは逃れられないとしたら自分でひけばいいだけのことさ。研究者よりもいくぶん早く知りたいのだ。「選んだレールの上にしかないものYou’re on the Freedom Trainそれこそが自由」(『Freedom train』B’z)、「自由」を探して「レール」を下りても「自由」はない。もう一度、「レール」に戻ろう。こうして「選んだレール」には、かつて「自由」を求めて「レール」を下りたがそこに「自由」はなかったという「自由」からの自由を手にした自分(=「それこそが自由」)が居るぞ。「白いため息 かき分ける深い森 音をたてて進め未来へ続くレールロード」(『レールロード』ASIAN KONG-FU GENERATION)、斜め下に降りて行く人生、最高だぜぇ。

文学でも『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』(村上春樹)など「レール」関係の作品多々ある。

ちなみに「レール」という概念は喩の力がある。「電線」、「道路」、「インターネット」、「アイデンティティ」などなど。『リブとレール』(佐々木悟)なんてどうだ。『女子中学生とライン』(佐々木悟)でもいいぞ。すでに教育学者が書いていそうだが。おおっ。なんか『からゆきさん』(森崎和江)みたいな展開になってきた。あれは複雑な「レール」問題でもあるよね。「レール」の用語で語ってはいけないでしょうが。

 

※2

数学(物理学)だけでなく人生も楽しんでいる者ならば、円形は真上(あるいは真下)から見れば円形だが、斜めにずれて見れば、それはその始点と終点は隣り合っているが、そこには「あいだ」のある螺旋形であるかもしれないということはわかりやすいかもしれない。注意することは「かもしれない」ということだ。現実が数学(物理学)よりも確かなことは、円形動線の現実は斜めにずれて見れば、円形動線の現実は、確実に螺旋形動線の現実であるということではなかろうか。というのも円形動線に至る以前の直線動線の現実が円形動線の現実にはあるから、斜めにずれて見ても円形が平たく直線の線分に見えただけだったということはないと考えられるからだ。