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『中ほど開かれた経済理論へ』

「ある」はずのものがない。これを逆からいえば「ない」があるといえる。一度も「ある」がなかったらどうだろう。「ない」だけがあるといえそうだが、「ない」だけがあることは認識できるのか。できないのではないか。だが確かに「ない」(らしき)はあるように思える。では「ある」はこの「ないらしき」から、ありえたのだろうか。そして「ある」がなくなった時、「ある」はずのものがない、つまり「ない」があるといっていたのだろうか。

「ある」は生きることにとって望ましくないとされる傾向のようだ。例えば喉に小骨がささると小骨が「ある」と感じられるように。不審者につけられれば不審者の視線が「ある」と感じられるように。「ない」はどうだろう。例えば便りの「ない」のは良い便りという。ミスが「ない」ことは良いとされる。「ない」は生きることにとって望ましい傾向のようだ。

……

うまくいっている面接においては「自分」が透明になり、ほとんど自分がなくなっているような感覚があり、ただ恐怖を伴わないのが不思議に思われるが、フロイトの「自由に漂う注意」とはこういうものであろうか。自分の行為の意味をいちいち意識する面接はたいていうまくいっていない。これは、自動車運転の初心者に起こることとおなじであろう。(「統合失調症の精神療法」中井久夫)

……

ここで精神科医中井久夫さんは「うまくいっている面接においては「自分」が透明になり、ほとんど自分がなくなっているような感覚があり、ただ恐怖を伴わないのが不思議に思われるが」と述べているが、「うまくいっている面接」における中井先生の感覚や思いと同じような感覚や思いが、望ましい生にもありえているのかもしれない。

ところが「ある」時はある、ということがありえてしまう。

経済活動によって大気中に大量に排出された各種ガス―例えばメタン、フロン、二酸化炭素―などが地球温暖化を引き起こしたといわれていた。それらのガスを「温暖化ガス」と呼べば、温暖化ガスは大気の状態を変えてしまい、「ないらしき」以外をすべて死滅へと導くというのだ。今や「地球温暖化」がある。「犯人」は温暖化ガスなのだが、しかし「逮捕」できない。というのも大気中に放出さたれ温暖化ガスは大気へと消えてしまうからだ。現在ではどうだろう。日本御得意の「科学技術の進歩」により巨大空気清浄機の如く装置がつくられ、大気中へと消え去った温暖化ガスの回収を進めるという事業がなされているのだろうか。当時はなかったと思う。

地球温暖化防止を目的とする京都議定書の主旨は「各国に温暖化ガスのそれぞれの排出量の上限を割り当て過不足は売買できるとすることで地球温暖化を防ぐ」ということだ。当時、「地球温暖化を防がなければならないことはわかるが、その手立ては〈ずる〉い」という意見が「発展途上国」から出ていた。

なぜ地球温暖化は防止されなければならない、広義へと言い換えれば、環境破壊は止めなければならないのか。環境破壊を止めなければならない理由は、生きていかねばならぬからだろう。この生には現存世代だけでなく未だ生まれていない者たちつまり未来世代なども含まれている。だが「各国に温暖化ガスのそれぞれの排出量の上限を割り当て過不足は売買できるとすることで地球温暖化を防ぐ」という手立ては現存世代の都合だけで成り立っている。

現存世代の都合だけではなく、未来世代にも配慮した手立てはないのだろうか。例えば現存世代がその経済活動により環境を消費した分の環境使用料を未来の子孫へと払うという取引も地球温暖化防止策として有効ではなかろうか。現存世代がその経済活動により環境を消費した分の環境使用料を未来の子孫へと払うとすれば、現存世代は闇雲的に環境に影響を与えるような経済活動は控えるようになるだろうからだ。

だがこの取引は自己利益の追求だけを目指している経済理論では扱いにくいだろう。未来世代は未だ生まれてきていない。その未だ生まれてきていない未来世代を現存世代が生まれきていると想定して、その想定した未来世代と現存世代が取引するためだ。この取引は妥当にありえるだろうか。不正が入り込みやすいのではないか。〈適切〉な環境使用料は設定されるだろうか。

自己利益の追求だけを目指している経済理論による取引は、こうした難問に出くわした時、ある基準を定めた法の制定を機関に欲求する。法が制定されれば、その法に従い粛々と取引が開始される。この道に従えば取引は可能だろうが未来世代へ想いを馳せるということはなくなる(※1)。これは代償として仕方がない。しかし未来世代へ思いを馳せることを排除した経済活動が環境破壊を引き起こしたのではないか。法が許しているからといって未来世代への思いを馳せることを失くしたままの経済活動は、必ずしもとはいえないが未知の環境破壊をもたらすのではないか。

もう一つ道はある。法を制定しないで、可能な限り未来世代へと近づき、その未来世代へと配慮した環境使用料を決定するという道だ。だがそうして環境使用料を決定するやいなや、未来世代へ思いを馳せることはなくなる。これも仕方がない。

どちらの道を進んでも未来世代へ思いを馳せることはなくなる(ちなみに法に従ったとしても、いくら未来世代のことを想いやって決めたとしても、その決めた環境使用料を払ったとたん「藪から蛇がわんさか出でくる」が如く状態に陥ることもある。この「蛇」は思いを馳せられることのなくなった未来世代つまり一度も生まれることがなかったのに亡くなった未来世代の霊のようなもの)。話を戻せば、しかし環境使用料を決定しなければ、環境破壊は進む一方だ。〈ずる〉さも解消されない(少ない環境の使用でも、まだこれから経済発展しうる国が発展途上国だと私は考えている)。環境使用料を決定するとしても、決定後も未来世代へ想いを馳せることがなくならない環境使用料の決定のあり方はないのだろうか。

私は経済の専門家ではないから専門家のように華麗に専門用語は扱えない。数学学、人学を学びつつある者としては、決定後も未来世代へ思いを馳せることがなくならない環境使用料の決定のあり方の考え方は提案できる予感がする。こうだ。

一点を定め、その一点を重心とするある大きさの正三角形と同じ大きさの正三角形を頂点をずらしながら次々と書いていくという作業を想定する。いくつか書けば円形に成ると予想できる。だがそれは決して円形ではない。限りなく円形に近い多角形だ。しかしその多角形は確かに円形でもあるという時がくる。しかしそれは認識機構の閾値の問題とは限らない。広くいえば多角形を円形だと認識してしまう【瞬間】がどこかであったということだ。だが【瞬間】があったといえるには、作業の結果、多角形を円形と認識した後に、数学と人の両面から考察しなければわからない。

このように多角形を円形だと認識させた存在が【瞬間】なのだが、【瞬間】で人は己のしている作業はしていない、この多角形は円形であるのかという確認もしていない。では何をしていたのだろう。いうなれば【瞬間】の【中身】は何だったのか。その【中身】が多角形を円形だと認識させている具体的な存在だ。

こうした理論には古典的な心理学から「それは認知機構の閾値の問題だ」とされることもあるが必ずしもそうではないことはすでに指摘した。どういうことかといえば、例えば、もう書くのに疲れた。この大雑把な凸凹の多角形を円形とすると決心して、その多角形を円形だと認識しているかもしれないということだ(この場合、多角形を円形だと認識させている存在-【瞬間】の【中身】は、「疲れ」「この大雑把な凸凹の多角形」「する」「決心」)。

この考え方で、決定後も未来世代へ思いを馳せることがなくならない環境使用料の決定のあり方をあらしめられないだろうか。ここでは数学学や人学の言葉で考え方を描写しているか、この考え方を経済学の言葉で描写することで。

できたとしよう。すると環境使用料決定後に、【瞬間】に相当することがあることがわかるはずだ。【瞬間】は言い換えれば、決定した環境使用料が未来世代への〈適切な〉環境使用料である理由だが、【瞬間】には【中身】があった。つまり決定した環境使用料が〈適切な〉環境使用料である理由を、その理由いたらしめている存在があるということだが、それはその考え方で環境使用料を決定した後でなければわからないだろう。「決定した環境使用料が〈適切な〉環境使用料である理由を、その理由いたらしめている事柄は何か?」と問うことによって、わかるかもしれない。こうして環境使用料決定後も未来世代へ思いを馳せることができる。

さて「決定した環境使用料が〈適切な〉環境使用料である理由を、その理由いたらしめている事柄」が具体的に何であるとわかるということは、現存世代と未来世代の取引が、その二者以外に中ほど開かれたことを意味する。全開ではない。というのも、具体的に何であるとわかったことは、基本は取引と関係なしにありえているが、取引に関係してもいるからだ。ということは、具体的に何であるとわかったことへと、取引とは関係のないことが取引と関係するようなことがあってもおかしくない。その予感はあるが、それは環境破壊を止めるための取引とは関係あるが、別でもある。

取引と関係あるが別で「具体的に何であるとわかったこと」へと到来した存在は、取引と関係ありつつも取引とは別で到来しているため、その存在は「生まれたばかりの未来世代」(※2)であると考えてもおかしくない。「生まれたばかりの未来世代」は取引とも関係していた。つまり何か抱えているということだ。この抱えている何かに、現存世代らしく関わりえる何かしらが現存世代にあれば、現存世代は「生まれたばかりの未来世代」とも生きていける。「犯人」を逮捕することつまり「科学技術の進歩」に頼ること(※3)なく、環境破壊を止むことができたのだ。(終わり)

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※1

同じ思考パータンで陥る別分野にひとつに子育てがある。例えば子育てをめぐる事件が起きると、しばし「怒る」と「叱る」、「しつけ」と「虐待」の線引の試みはしばしなされる。しかしなされたとたん、「その親」としての進化・成長・進歩・成熟は止まるのではないか。「誰でもない親」(例えば「親学」の理想が規定した親)としては合格だろう。「その親」に育てられた子供と「誰でもない親」に育てられた子供の違いは出でくるはずだ。もう一つは医学だ。医学では新しい治療技術が確立した時、その技術の現場への導入をめぐり「倫理委員会」が開かれ倫理要綱が制定されるが、そう制定されたとたん医師の学びがなくなるという意味では、医学も子育ての場合に似ている。

こうした子育てや医学の現実は「自己利益の追求だけを行う経済理論」に似た理論で動いている(動かされている)。

 

※2

今(2016年)から二十年程前、「他者」論が盛んだったことを覚えている。例えば1997年10月5日には『実存思想論集Ⅶ』で「他者」特集が組まれている。私は他者論とは、「子ども」(←当時は子供と書くことは差別につながるから子どもと書くようにと公式に教わった)は「他者」か、といった接続の仕方で出会った。哲学の専門家の中では当然だっただろうが「他者」と「他人」は違う。これが私にはわかり難かった。専門家が読んでいる書を読むと、論が展開する中で「他者」が「他人」に生成・変化していくためだろうか。その理路の説明を例えば『全体性と無限』(E.レヴィナス)に添って行えば次だ。

……

〈私〉の同一性が自身に到来するのはそれがエゴイズムからであり、エゴイズムの享受によって孤立した充足が達成される。そのエゴイズムに対して顔が無限なものを教える。孤立した充足は無限から分離されたものであることを教えるのである。こうしたエゴイズムが基礎づけられるのはたしかに、他なるものの無限性においてであって、その無限性は、分離された存在のうちで〈無限なもの〉の観念として生起することによってのみ成就する。〈他なるもの〉はなるほど分離されたこの存在を呼びもとめるけれども、そのように呼びもとめることは、一箇の相関者に対する呼びかけには還元されない。そのように呼びもとめられてもなお、一箇の存在が自己から自己を引き出す過程に余地が残されている。言い換えるなら、分離されたままであること、存在を生起させた呼びかけにすら耳を塞ぐことはなお可能である。そのことは他方また、無限なものの顔をみずからのエゴイズムにぞくする資源のいっさいを使って迎えいれることも可能であるということである。つまりエコノミー的なありかたにとどまりながら、顔を迎えいれることも可能なのである。(『全体性と無限(下)』レヴィナス著、熊野純彦訳)

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この引用における「エゴイズムに対して顔が無限なものを教える」という時の「顔」を「他者」に読み換え、「他方また」「エコノミー的なありかたにとどまりながら、顔を迎えいれることも可能なのである」という時の「顔」を「他人」に読み換えれば、「他者」と「他人」の関係性がこの引用部では示されている。本文における「未来世代」と「生まれたばかりの未来世代」の関係も、この「他者」と「他人」の関係性に依っている。見かけは違う。

 

※3

三島由紀夫は『法律と文学』で次のように記している。

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「ここから私の、文学における古典主義的傾向が生まれたのだが、小説も戯曲も仮借なき論理の一本槍で。不可見の主題を追及し、ついにその主題を把握したところで完結すべきだと考えられた。作家は作品を書く前に、主題をはっきりと知ってはいない」「はじめから主題が作家にわかっている小説は、推理小説であって、私が推理小説に何ら興味を抱かないのはこの理由による。外見に反して、推理小説は、刑事訴訟法的方法論からもっとも遠いジャンルの小説家であり、要するに拵え物である」(『法律と文学』三島由紀夫

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三島は「はじめから主題が作家にわかっている小説は、推理小説」だという。「科学技術の進歩」により地球温暖化の「犯人」である温暖化ガスを回収することで地球温暖化を食い止めようとする試みの結果は、三島のいう「はじめから主題が作家にわかっている」「推理小説」に相当するといえよう。三島は「推理小説」を書くのではなくて、「刑事訴訟法的方法論」に従い、実際に書くことを通して、作品の主題を明らかにしようとしている。だが三島は主題を全く知らないとは言い切れなさそうだ。言質をとれば引用中で三島は「主題をはっきりと知ってはいない」と述べているから(「主題を知ってはいない」とは述べていないから)。

私も三島と同じく「刑事訴訟法的」ではないが「ある方法論―数学学的かつ人学的方法論」に従い書き進めることで漠然とした主題を明らかにしようとしている。だが私はそこで「完結」しない。そうして明らかにできた主題から自ずと浮かび上がってくることに心を向け、作者を離脱し自分としてはそれにどう関わるのか、その関わり様まで示すことで、作者が明らかにした主題ともピタリとやっていこうとしている。そんな作品で終えようとしている。作品の傍らには作者と「相属」(ハイデガー)する存在である読者もいるかもしれないが、いるとしたら、そのように作者が作者から離脱してからまでも含まれて描かれた作品を読むことで、読者も読者から離脱しているかもしれない。村上春樹はその著『アフターダーク』で次のように記している。

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「何かを本当にクリエイトするって、具体的にどういうことなの?」「そうだな……音楽を深く心に届かせることによって、こちらの身体も物理的にいくらかすっと移動し、それと同時に、聴いている方の身体も物理的にいくらかすっと移動する。そういう共有的な状態を生みだすことだ。たぶん」(『アフターダーク村上春樹

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この会話で質問している者は深夜ファミレスでひとり読書をしていた若い女性「マリ」であり、答えている者は若い男性ミュージシャンの卵の「高橋」だ。高橋は大学で法律の勉強をしてもいる。この会話で高橋が答えている「クリエイト」のあり様が、私の考えている作品観に似ている。しばし「村上は三島を超えたか」と問われているが、そうかもしれないと私は思う。

とすると村上春樹と同じことを考えている「私」は「村上春樹だろうか?」という問いが出てきてしまう。違う。辿り着いたところは同じだが、道順が違うという様に違う。春樹がどう思っているのかはわからないかが、私はこの「辿り着いたところ」(ここでは)『中ほど開かれた経済理論』が、春樹の「スピーチ」の喩えでいう「壁」に思えて仕方がない。「壁」でなくてもいい。例えば漫画『風の谷のナウシカ』の最期の方に出てくる「墓所」でもよいし、テルボの『モザイクタイルミュージアム』でもよいし、イサムノグチの『モエレ沼公園』の「山」でもいいし、アボリジニーの「ボアデール山」でもよいのだが、「辿り着いたところ」がそうした存在に思えて仕方がない。

戦後には貧しさや焼野原があった。高度経済成長期を経て豊かになった。乗り越えるべきものはなくなった。あの頃は幸せいっぱいだった。当時の血気盛んな子はリビングでくつろぐ父を見て「いいな、お父さんの青春時代は乗り越えるべき対象が沢山あって」とぼやいていた。それくらいの不幸はあった。ところがバブル経済の頃を境に、その豊かさはいくぶんゴミっぽいことが明らかになった。貧しさも焼野原も妥当な豊かさもなにもないが「ある」ようになった。「永遠に続く日常」とか「閉塞感」とかそういう言葉が飛び交っていた。「あの頃の僕ら」(小田和正)は、何を見つけていたのだろう。それから二十年以上たった今、「ある」がありまくっている感じが私はしているのだ。だが「喉に小骨」といった嫌な感じの「ある」ではない。いうなれば妥当な「ある」だ。だが翻って自分の無力さばかりが感じられる。ここまで登場してきただけでも、中井久夫大澤真幸岩井克人稲葉振一郎レヴィナス村上春樹宮崎駿藤森照信イサムノグチアボリジニー、後には、フーコー内田樹上野千鶴子B’z石山修武、山口恒夫などなどと続くが、そんな先生方に成りたいと思うが、そう成れそうもない。だがそっちの方なのです。それが「妥当」ということです。どうしたものか。

「私は花火師です」というフーコーの思考ならばこの「壁」に突破口を開けることができるのだろうか。だがフーコーは突破口を開けるために突破口を開けてはいないはずだ。フーコーは「ドリル」ではないし、まして「爆弾魔」でもない。突破口を開けるために突破口を開けてはいない。

一見すると三島はとても反体制に見えるが、それだけ体制に加わりたかったのではないか。華々しかった文壇に遅れてきたことを嘆き、末は自らも軍的になり国の行く末を憂いてもいる。体制を心から信じ自身もまた体制に生きたいと願っていたのだろうか。だから反体制に見えても「反対のための反対」をしているとは思えない。加わりたかったがその身体がそれを許さなかったといえるだろうか。だから腹を切った。「身体に何もないぞ」(ないがある)ということを隊員に見せるために。

体制はしつこい。ストーカー以上にしつこい。たとえ現体制を倒しても新たな体制ができる。体制なき体制もまた体制だったりする。体制外にも別の体制があったりする。体制からは逃れられそうもない。体制内でやっていける人はそんなこと考えなくても、考えてもやっていける。だがやっていけない人は決してやっていけない。どうしても体制の外(体制間の隙間)に出てしまう部分がある。例えば以下に見るアンネのように。

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私がいま―なにか仕事をみんなでいっしょにすることになったとき、それが長続きしない、うまくゆかないのです。たとえば洗いものなんか―むつかしいのは、なにがむつかしいかというと、どういったらいいのか―私にはそれがあたりまえのこととしてはできないのです。何か変な感じなのです。無理をしなくてはならないのです。それで私の心がだめになってしまう、すっかりくたびれてしまいます。だから洗いものなんかもうしません(『自明性の喪失』ブランケンブルク)

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アンネは、自身を話しえるという点では体制内に生きているが、出来ない部分(洗いもの)がある。その、無理なくできる話を仕事にすればいいという考えも浮かぶがそれは別問題だ(精神科医は診療で金を得るが、アンネが無理なくできる話を仕事にするということは、患者のアンネが精神科医に話すその話で金を得ようとするようなものだからだ。そんな単純にことは進まないと容易に想像がつく)。

空想実験的だが身体なく生きることができれば何も問題が起きることはなかろう。あらゆることをバリバリとできるだろう。だができない。当然といえば当然だが身体に原因がありそうだ。しかし体制内で身体の適不適を定めて取り締まり、時に身体改造しても必ず出てしまう部分はある(黒的医学史が示している)。なぜだろう。宇宙の誕生を可能としたような〈自然の湧出力〉を体制や身体は統御できないのだろう。身近な例では科学で原発はつくれても科学で壁からの水漏れはなかなか十分に抑えられないように。つまり部分的であれ体制の外にいるからといって必ずしも反体制ではない。

さて体制内には時に愛体制者がいる。居ても良い。寧ろ居て欲しい。だがある種の愛体制者は体制内にいるにもかかわらず体制を愛するので自分(他者)の立場を忘れて痛い目にあっているように見える。その痛さに体制内の他の者が巻き込まれて体制が滅びるということは歴史上、多々、報告されている。だとすると体制愛は体制の外に出てしまった部分の方が上手にできやすいかもしれない。技術者の偏屈さ、子供のか弱さ、巨匠の独善さ、哲学の断言、音楽のうるささ、建築の素っ気なさ、芸術のわからなさ、人の傷つきやすさ、神の無責任さ、超人の美しさ、こうした存在は、体制内ではとかく嫌がられがちかもしれないが、それらの存在は体制外で手を組み体制を紐で包む体制での子孫の予感や誕生、育成を支えている。ここで手を組めないと、反体制に成ってしまうのだろう。

他方、体制がなければ生きていけない部分もある。全身で体制外に出ている訳ではない。アンネの例以外にも例えば、原発に反対するからといって放射線治療を拒否するとは限らない。だがそれは理論の不統一でも自分勝手でもない。確かに放射能(のう)つながりだが、原発に反対することと放射線治療を受けることは全く別だ。

体制外に出てしまう部分があることは仕方がない。〈自然の湧出力〉(エントロピーの増大?)は止められない。「人間はそれほど長期にわたって同一の論件に注意を向け続けることはできない」(『内田樹の研究室ブログ』内田樹)ともいえる。「私」的には勃起や生理に\(^o^)/三唱だといったところか。だが気がついたら、手を組まないと(変わらないと)いけない。「何かおかしいことに気づいたなら 僕は今こそ変らなくちゃいけない 見せよう純情ACTION」(『純情ACTION』B’z)、「キョロキョロしているひまはないよ たぶん」(『Seventh Heaven』B’z)、「言挙げせずにヤレ」(『スタジオGAYA日記』石山修武)。「コツコツした者が勝ちますよ」(山口恒夫)。そうだね。そうします。

ちなみに記しておけば、現象学徒の難解な本読んでいて、クスリと笑ってしまう箇所はいつも決まっていて「現象学を理解した時には現象学する時間が十分にはなかったなぁ」というところ(しかしその方は全く絶望しているようでもない。いくぶん明るさが感じられる)。もっと早く出会っていれば仲良くなれたかもしれない方が沢山いるのですね。けどそればかりは仕方がないですよね。私が高校生の時、社会科(地理)の先生が、入試前の十二月、慌てふためく理系の生徒たちに対して「もう三か月しかないのか、まだ三か月もあるのか、時間に対する認識を変更することでありえてくる世界が違う」と話されていたが、そのアドバイスにはまさに〈現象学的還元〉が生きているようです。