『どっちつかずとらしさと』

昔、教職に初めて就いた頃、私は子供たちがあまりにも私の指導どおりに動くのでいささか子供が怖くなった、ということがあった。私の指導はその子供らしさを失わせているのではないかと心配していた。ここでの「その子供らしさ」とは、村上龍ラブ&ポップ』の裕美の生き様の如く「らしさ」だ。

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裕美は父親のことが好きだ。尊敬していると思う。だが、何事も理解し合えるはずだ、と思われては困る。理解しようとしてくれるのは、もちろんうれしい。だが、理解し合えるはずだという前提に立つと、少しでも理解できないことがあった時には、事態はうまくいかなくなる。理解不能なことは、コギャルなんて宇宙人みたいなもんだよ、で片付けられ、ひどい場合には、悪いこと、に分類される。(村上龍ラブ&ポップ』)

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あまりにも私の指導どおりに動く子供から私は裕美の言葉のような返答を頂きたかったのかもしれない。

今の子供にもそういう「らしさ」があるのか私にはわからない。しかし仮説であれあるとすれば-それを「子供の不在のらしさ」と呼べば-、子供の不在のらしさは、大人の間ではとかく対立的議論になりやすい例えば「子供を戦場に送るな」というスローガンと、そのスローガンを取り締まるようにしてなされる「政治的中立性に怪しさのある教員を通報せよ」という命令、そのどちらにもつかないのではないか。「大人の議論によって子供がどうかなっちゃうかも」などとそれほど心配しなくてもいいのではないかということだ。ただ、その「子供の不在のらしさ」が「子供のらしさ」として現れてこないことにもだえるようなことがあるかもしれない、が。

今でも子供はかつての子供のように密かにリンドバーグの『power』のような曲を聴いているのだろうか。

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季節はずれの嵐は窓の外強くたたき きっと僕たちに何か教えようとしている 緑をそがれた大地は海の中崩れていく どれだけ山を越えれば 鳥は羽休められる ちっぽけなガラス玉で胸張って騒いでいる 預言者に僕たちの未来 渡しはしない(リンドバーグ『power』)