○増殖している(?)「私」からの離脱

下校途中、一緒に帰っていたと友達とサヨナラするとき今の女子高生は「お疲れ~」といってサヨナラするらしい。実際、僕も聞いた。それを聞いた時、自分は「お疲れさま」などといってサヨナラする文化は大人の職場の文化だと思っていたから「とうとう学校も仕事場になったのか」と思った。

学校は昔(といっても今、平成28年から30年程前だが)よりも〈まじめな場所〉になってきているのかもしれない。勉強、委員会、部活にみんなそつなくこなしているのかもしれない。ヤンキーや不良は全くとはいわないとしても昔ほどはいないのかもしれない。だとしたら「お疲れ~」といってサヨナラする理由もわかる。

あるいは昔はサヨナラするとき「じゃあね」とか「バイバイ」と手を振っていたが、そうした決定的な別れをにおわす言葉を避けているのだろうか。確かに昔も「じゃあ、またね」などと再会を予感させる言葉を言葉尻に添えていた。だが今の子供は近所の学校から聞こえてくる下校の合図の子供たちの放送を聞いていると例えば金曜日の放送ならば「では月曜日までさようなら」というように、次に会える日を確定して別れるほどに昔より密につながっていたいという願いがあるような気がする。子どもたちは小さな親密な世界に生きているのかもしれない。

どの時代にもありうることだろうからさほど驚くことでもないのかもしれないが、子供の世界は昔と比べ確実に変わってきていると僕は思う。そんな僕の心配していることは子どもと悪についてだ。例えば河合隼雄はその著ずばり『子どもと悪』(1997)で「現代日本の親が子供の教育に熱心なのはいいが、何とかして「よい子」をつくろうとし、そのためには「悪の排除」をすればよいと単純に考える誤りを犯している人が多すぎる。そのような子育ての犠牲者とでも呼びたい子どもたちに、われわれ臨床心理士はよく会っている」と書いている。が、今は子どもが進んでそれも無自覚的に悪を排除していないだろうか。僕はそれを心配している。

ここでの「悪」とは子どもが自らの意思に関わりなく抱え込んでしまうものと理解したい。それは例えば宮崎駿風の谷のナウシカ』で幼き日のナウシカが抱えていた「オームの幼生」やB‘z『恋心』で「すこし長めの髪ゆらして 泣いているあの娘を見た なにかななんだろなベイビー 涙かわいやつきあいたい 松本にそうだんしようかでもたぶんひやかさせるからやめとこう どうしよう授業の内容はこんなとき全然使えません きびしいね人生というのは なかなか先生とても」と歌詞る時の「すこし長めの髪ゆらして 泣いているあの娘」の様なものだ(教育学者・佐藤学ならば「具体物」と呼ぶかもしれない)。

子どもはこのような存在を否応なく抱え込んでしまう。あるいはすでに抱え込んでしまっているかもしれない。河合はこの存在こそが子どもの「自立の契機」だと述べる。僕としては成熟への起点だと呼びたい(ちなみにドイツ語の「成熟(Reife)」は「卒業試験に通ること」を意味する)。しかし今の子どもはこの存在を親にいわれる前に進んで捨ててしまうようなことをしていないだろうか。「君がいた夏は遠い夢の中 空に消えていった打ち上げ花火」(ジッタリンジ『夏祭り』)みたいなノスタルジーとともに。  

私は結構、平気でする(開き直っているわけではない)。難しい。動かないんだ。たとえこういわれていてもだ。「〈私〉が応答を拒否した瞬間に、〈私〉は他者とのすべての関係を拒絶し〈私〉の中に閉じこもる。その意味において、応答することと応答を拒否する応答とは同一次元に存在しない。〈他者〉が、自己の内部であれ、外部であれ、苦痛を開示しているのであれば、「〈私〉の自由で無垢な生を続けるために応答を拒絶する応答は、『見放す』『死ぬにまかせる』『暴力に晒されるがままにする』等々を意味する」(湊道)ことになるだろう」(山口恒夫「他者からの呼びかけとしての「病い」」)と。

私は心底、平穏無事な生活が好きだ。死の床でひとり密かに「あのひとのこと好きだったな。でも権力に阻まれてどうしょうもなかったんだよね。ヘタレでごめんね。権力が恋人になっちゃったの。ごめんなさい、ごめんなさい」みたいなやつが「私」だ。K先生に「そんなの意気地がないだけだ」みたいなこといわれたが、そうなのかもしれない。自分の中の「私」はなかなか手ごわい。そしてこの「私」が、今の子どもの中にもいるんじゃないかなぁと、もう人生終わりそうな者としての自分は老婆心ながら心配しているわけですね。すると子どもは「自分たちのことはいいから電話でもしたら」という。ありがとさん。