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〈現実〉が演劇に見える、と

細部までありありと思い出せるのに、ある意味では現実よりも鮮明なのに、結局は何も結びついていないリアルな夢。でも僕にはとても好ましい出来事であるように思えた。とても限定された形での心の触れ合い。二人で力を合わせて幻想なりイメージなりを尊重すること。大丈夫よ、私たちみんなお友達なんだから的微笑。キャンプの朝。かっこう。

(略)

我々は二人で朝まで雪かきをしたのだ。官能的雪かき。僕らはイメージの世界で、経費を使って抱き合ったのだ。熊のプーと山羊のメイ。首を絞められるのはすごく苦しかっただろう。まだ死にたくなんかなかっただろう。たぶん。でも僕には何もしてあげられない。こうすることが本当に正しいのかどうか、正直言って僕にもわからない。でも、僕にはこうするしかないんだ。それが僕の生き方なんだ。システムなんだ。だから僕は口をつぐんで何も言わない。おやすみ、山羊のメイ、少なくとも君はもう二度と目が覚めないで済む。二度と死なないで済む。

おやすみ、と僕は言った。

オヤスミ、と思考がこだました。

かっこう、とメイが言った。

(略)

「あの子はお伽噺を信じすぎたんだ」と僕はいった。「あの子が信じていたのはイメージの世界だ。でもいつまでもそういうのが続くわけではない。そういうのを続かせるにはきちんとしたルールが必要なんだ。でもみんながルールを尊重して守ってくれるわけじゃないからね。相手を間違えるとひどいめにあうことになる。」

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス

……

昔、心理学のあるベテランの先生のところでグループ学習をしていた時のことだった。その学習会を主宰していた先生がある参加者の〈怒り〉に触れるということがあった。私は素人だったが、素人目からすればそこは行ってはまずいというところに行ったなという感じだった。なぜ心理学のベテランの先生ともあろう方がと素朴な疑問を持った。

その出来事からかなりしばらくして本屋で小田嶋隆『地雷を踏む勇気』というタイトルの本を見かけた。いずれも似ている。

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』の「メイ」も心理学の先生も小田嶋隆さんも、その方たちの見えている(通常いう)〈現実〉は、演劇を見ているように見えている(いた)のではないだろうか(「僕」のいう「幻想なりイメージなり」に見えているのだろうか)。

私はそう見えている。だからだろうか村上春樹さんや小田嶋隆さんが長年の友達のように思える(実際には会ったことはない)。でも私にはなぜ〈現実〉が演劇を見るように見えてしまうようになったのかその理由がわからない(これはある意味、精神的な病気なのだろうか)。

〈現実〉が演劇を見るように見えることの良い(?)ことは、大抵のことに動じなくなることです。内心「おおっー劇団員の皆さん頑張ってんねー」くらいに思って次のシーンへと移っていく。けれども、たまに自分もその演劇に参加してしまいたい時がある。したいしたくない以前に否応なしにという時がある。〈厄介〉な時は、この時です。その時に

……

「あの子はお伽噺を信じすぎたんだ」と僕はいった。「あの子が信じていたのはイメージの世界だ。でもいつまでもそういうのが続くわけではない。そういうのを続かせるにはきちんとしたルールが必要なんだ。でもみんながルールを尊重して守ってくれるわけじゃないからね。相手を間違えるとひどいめにあうことになる。」

……

という、この言葉が返ってくるのです。ひとつにここで述べられているように「ルール」を守れば大抵、それなりに参加できることが多い気が私もする。「相手を間違える」と「ひどいめ」にあう気もする(寝首をかかれるようなことが容易に起きる)。起きれば当然、とても痛い(折に「メイ」のように実際に殺されてしまうこともあるのかもしれない)。この痛さは半端ない。〈現実〉がまだ〈現実〉のままであった頃、〈現実〉で経験したことのある「痛さ」とは全く違う。例えば失恋。〈現実〉での失恋ならばまだ「次があるよ」というように救われることもある。ところが〈現実〉が演劇を見ているように見ている世界では失恋すれば二度と恋だ、愛だのしなくなる。誰かをほしいとおもってもほとんどスルーするようになる。だからそれでもその恋愛にというのであれば自分としてはとてもとてもとても慎重にならざるを得ない。で、そうこうしているうちに相手の思いが醒めてしまうかもなんていう「妄想」にとらわれて、結局、失敗する。この世界ではぶれちゃいけないことというのはあるのです(だからぶれたりするのですが。難しいなぁ)。