「プログラム」について

公的な文章ー例えば『学習指導要領解説』ーの目次に付せられている数字間のプログラムはどうなっているのだろう。1章、2章、3章・・・と続く事から推測するに、1+0=1、1+1=2、2+1=3・・・といったプログラムでもありえているのだろうか。だとしよう。では章の数字と章の中の節の数字とはどのようなプログラムになっているのだろう。例えばn進法が用いられているのだろうか。よくわからない。

この点、楽譜は一見するとーダルセイニョ記号やコーダ記号などがあってー複雑そうですが、作品のプログラムは明確です。よくできていると思います(しかし音楽会のプログラムとなると、なぜとかく『学習指導要領解説』のようなプログラムになる理由は何なのだろう。自分の論理を自分自身に適用して自分の論理を示すということを忘れているのだろうか)。

さて登校中、トイレに行きたくなって困るということを繰り返す子供がいたとします。その「困り」を解消するにあたり、まず自分の一連の行動すべてを書き出すことは不可能だとしても、いくつかのポイントを挙げて、これが家を出るまでの自分の行動(の過程)だよと示すことはできると思います。そしてその過程を見直すことを起点に行動をかえれば、登校中にトイレに行きたくなって困るという事はなくなるかもしれないです。

話を戻します。プログラムというと私などは例えば卒業式の儀礼などと結びついて「お堅く私たちを締め付ける存在」だなと思いますが、先ほどの例のようにプログラムに着目すると救われることもありそうです。この違いは何かといえば「プログラムというものがあるよ」という漠然とした態度でプログラムを利用するか、「このプログラムが理想のプログラムだ。このプログラムでなければならない」といった明確な態度でプログラムを利用するかの違いでしょうか。だから研究授業の指導案は「A4、1枚指導案でよい」ということになり、それだけでなく事後的に「プロセスレコード」といったような考え方が心理、教育、看護といった分野では重視されるのかもしれないです。

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