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「四角形の変化生成図」を書いた別の理由

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「四角形の変化生成図」を書いた、ひとつの理由は「〈ひと〉」の「意識がなす道」を幾何学的に理解してみることだった。(それにしても相変わらずこの図が見つからない。数学では書かれていないのだろうか)。ここでもう一つ示しておく。

鶴見俊輔さんは『限界芸術論』の中で次のように述べている。

……

歴史は、無数の人生の集積である。その歴史や人生は”大きな名前”(ビッグネーム)で記憶され”小さな名前”もしくは”無名”(ネームレス)のものが、ほとんど、忘れさられることに、異議をとなえつづけたい。

……

話はかわる。小学校中学年くらいで四角形について習いますよね。四角形には、長方形、正方形、ひし形、たこ形、台形、平行四辺形があると。さらに形の性質に沿って分類し、たこ形の特殊な形がひし形、ひし形の特殊な形が正方形となりひとまとまりの領域(=たこ形領域)をなし、他方、台形の特殊な形が平行四辺形、平行四辺形の特殊な形が長方形あるいはひし形、ひし形あるいは長方形の特殊な形が正方形となりひとまとまりの領域(=台形領域)をなすということも習います。しかしこの二つの領域をその他一般の四角形の領域(=一般四角形領域)が囲んでいるということは習いません。

ここで、この分類にそれぞれの四角形に内接円あるいは外接円があるかないかという視点から分類しなおします。すると台形領域が二つに分割され、一般四角形領域が二つに分割されます。自ずと内接円も外接円もない四角形が浮かび上がってきます。それは、アップした分類図(斜線のある図)で、斜線で書かれている領域にある四角形(台形領域と一般四角形領域において内接円あるいは外接円のない四角形を二種類の斜線で区別しています)と、平行四辺形です。

さてこの分類図を鶴見さんの望みと接続させます。鶴見さんのいう「大きな名前」とはこの分類図では「長方形、正方形、ひし形、たこ形、台形、平行四辺形」に相当します。「小さな名前」は「内接円あるいは外接円を持つ台形と内接円あるいは外接円を持つ一般四角形」に相当します。「無名」は「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」に相当します。確認しましたが、鶴見さんは、「小さな名前」もしくは「無名」のものが、「ほとんど、忘れさられることに、異議をとなえつづけたい」といいました。

また話はかわる。

僕の生まれた地域は、少なくても自分の生まれたころまでは神社に「へそのう」を祭っていた。「へそのう」は生まれてくるまでは赤子が育つにあたりなくてはならない存在なのに、生まれた途端、ただあるだけになり、そのうち朽ちてしまう。しまいには忘れさられてしまうかもしれない。そのおかげで今の自分がいるにもかかわらずだ。それはどうなのだろう?

レヴィナスさんは弟子との対談で次のように述べたらしい。

……

問題はこうです。〈じぶんが存在していることで、ひとはだれかを抑圧しているのではないか〉このようにして、まさにそのとき、じぶん自身のうえに安らい、〈私〉は存在するという同一性のもとにとどまりつづけていた、自己同一的な存在者が、じぶんは存在する理由があるのだろうか、と自問することになるのです。

……

この対話の部分読みなおすと、僕はいつもドキドキするのですが、ならえば「へそのう」の存在を忘れさった自分は「へそのう」を抑圧しているのではないかともいえそうです。そして「よかった、自分の生まれた地域には神社に「へそのう」を祀る習慣があって」、ととりあえず思うのです。最近の親子は「へそのお」を祀っているかどうかはわかりません。そのかわりでしょうか、地域の神社には扇子と名前がたくさん祀られています(写真参照)。その光景は他地域には見られないと述べている神社マニアもいるようです。

こうして僕も鶴見さんやレヴィナスさんと同じように、「小さな名前」もしくは「無名」のものが、「ほとんど、忘れさられることに、異議をとなえつづけたい」と思うのですね。

四角形の分類図では、「小さな名前」に相当する「内接円あるいは外接円を持つ台形と内接円あるいは外接円を持つ一般四角形」には数学的に名前はないようです。だからともいえないですが、「無名」に相当する「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」にも名前はありません。こちらの場合、そもそも形すらも十分には日の目を見たことがないかもしれないですね(落書き程度に書かれていて)。

そこでどうしたらその形が日の目を見ることができるようになるのだろうと考えました。内接円あるいは外接円を持たない「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」それに「大きな名前」のひとつに相当する「平行四辺形」に対角線の補助線を引き、それらの四角形を二つの三角形にわけました。三角形は内接円と外接円を必ず持ちますから、ここにてすべての四角形(三角形)が内接円あるいは外接円を持つようになりました。

ここで、どこか一か所の任意の大きさの四角形にある内接円あるいは外接円を起点にして、その大きさの例えば内接円ならば内接円での他の四角形とのつながりの動線を考えました。例えばひし形は内接円を持ち、ひし形の特殊な形の正方形も内接円を持ちます。同じ大きさの内接円つながりでひし形と正方形がつながるようにです。正方形は外接円も持つのでその場合は、内接円から正方形につながったらその大きさの正方形の外接円へとつながりその外接円から別の四角形の外接円へとつながるようにして、すべての四角形の連鎖を考えました。その連鎖の図も添付しておきます。

すると「小さな名前」に相当する「内接円あるいは外接円を持つ台形と内接円あるいは外接円を持つ一般四角形」、「無名」に相当する「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」が具体的に書けるようになるのです。そのうえ、当たり前といえば当たり前かもしれませんが、そうすると面白いこともわかります。

鶴見さんは「歴史は、無数の人生の集積である。その歴史や人生は”大きな名前”(ビッグネーム)で記憶され”小さな名前”もしくは”無名”(ネームレス)のものが、ほとんど、忘れさられることに、異議をとなえつづけたい。」と述べましたが、その類のことを述べると「大きな名前」をありがたがる人たちが「右が左になっただけだ、上が下になっただけだ、本質的には何もかわっていない」と言ってくるということがあるのですが、この連鎖図で考えると、「大きな名前」にもまた「小さな名前」もしくは「無名」に相当する性質があるということがわかるのです(「てんはひとのうえにひとをつくらずひとのしたにひとをつくらず」のようです)。

たくさんの「平行四辺形」を書ける人は、「内接円あるいは外接円を持つ台形と内接円あるいは外接円を持つ一般四角形」、「内接円あるいは外接円を持たない台形と内接円あるいは外接円を持たない一般四角形」をもたくさん書ける人かもしれないです。この考え方は、建築へと接続しそうですが、それはまた別でですね。