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最後について

数学は天吾に有効な逃避の手段を与えてくれた。数式の世界に逃げ込むことによって、現実というやっかいな檻を抜け出すことができた。…(略)…数式の司る世界は、彼にとっての合法的な、そしてどこまでも安全な隠れ家だった。(村上春樹『1Q84』)

そうだよね。天吾くん、私もその気持ちがわかるよ。学校で嫌なことがあっても数学の問題を解いている時は、その嫌なことは忘れ、数学の世界を自由自在に動いていたからね。あるいは例えば世界史で大量虐殺について勉強していて、その「大量虐殺」という言葉に嫌悪感を抱いてしまい勉強にならないということは数学にはなかったからね。もちろん、そのように「自分」を大量虐殺に絡めない、それはあくまでも学校の勉強でのことと割り切れば世界史で大量虐殺について勉強していても勉強にならないということはないですが(というのであれば数学の例えば∑(シグマ)という記号を見て、嫌悪感を抱く生徒がいてもおかしくはないでしょうが)。

数学の世界を訪れているあいだは何の問題もない。すべては思うままにすすんでいる。行く手を阻むものはない。しかしそこを離れて現実の世界に戻ってくると(戻ってこないわけにはいかない)、彼がいるのは前とは変わらぬ惨めな檻の中だった。(同掲書)

ふむふむ、これもそうだよね。数学の勉強を終えて一休みすれば、次には例えば国語の勉強しなくちゃならなくて、その問題は「ここでの主人公の気持ちを百字以内で説明してみよう」というものが多くて、数学の問題の答えが出るようにピタリと合うことなんて自分の場合は特になかったからね。うんざりしていましたよ。

数学が壮麗な架空の建物であったのに対して、ディケンズに代表される物語の世界は、天吾にとっては深い魔法の森のようなものであった。…(略)…物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられるということはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、大まかな言い方をすれば、ひとつの問題を別のかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。(同掲書)

でね。自分は数学の精神と国語の精神を同時にできる数学をつくることを試みはじめたのですよ(それを「数学」と呼ぶと紛らわしいかもしれませんが)。なんとなくできそうな予感はしている。

が、この「数学の精神と国語の精神を同時にできる数学」は、天吾が数学だけでなく物語にもひかれた様に、たとえその「数学」が完璧だとしても、むしろ完璧だからこそ、最後のひとつがなければならない(あるはなくてもいい)と強く予感しているのです。それがないと完璧さが別にもわからないのですね。そのひとつを(無だとしても)あらしめた後、その「最後のひとつ」に落ち着くようにして自分はいなくなってしまうのですが。