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体育、音楽、国語、保健室

「勉強はできないけど野球があれば生きていける」と宣言している少年同級生を見ながら僕は「すごいな」と思っていた。なぜか。「大学合格=甲子園出場」で考えた場合、甲子園出場の方が難関だと自分は思っていたが、その難関さにチャレンジしようとしているように見えていたからだ。ピアノも野球と同じことがいえるかもしれない。ピアノを弾く少女の人数に対して、音大に入学する生徒の人数は限られ、さらに入学後、国際コンクールで賞を受け、華々しくデビューする人数はごく一部の者だという意味で。こうしたテーマを扱った作品が体育は重松清『卒業ホームラン』、音楽は宮下奈都『よろこびの歌』だろう。どちらも高校国語教科書に取り上げられている作品だ。

僕は体育も音楽も好きだが体育の授業や音楽の授業での体育や音楽は好きではなかった。先生が嫌いだったからではない。授業での体育や音楽のあり方が嫌いだった。どちらも―これは体育や音楽に限らないかもしれないが―〈評価〉や〈勝ち負け〉がつきまとっていたから嫌いだった。しかし〈評価〉や〈勝ち負け〉をなくした音楽の授業や体育の授業は、炭酸の抜けた炭酸ジュースのようなもので、それはそれなりの美味しさがあるとしてもあまり美味しいとはいえないと自分も思う。ある程度の〈評価〉や〈勝ち負け〉は必要だろうが、その程度がどの程度なのかは基準化できないのだろう(基準化されれば、すぐに逆手利用されてしまう。それは関係者の無能化を進行させるだけだろう)。

〈評価〉や〈勝ち負け〉の傍らにはなにがあるのだろうか。〈評価〉の傍らには〈開放性〉が、〈勝ち負け〉の傍らには〈受容性〉があるだろうか。だとすれば、その場所はひとつに「保健室」だ。保健室くる生徒には何かあるのだろう。その「何か」は、大抵、生徒の現在を縛っている。それがあるから今の自分がこんなになってしまっていると生徒を縛っている。しかし生徒自身のことなのに生徒自身にはどうしょうもできないでいる(その意味で生徒は呪いにかけられている)。ただただ「おかしい」「へんだ」という感じだけが現れている。

平野啓一郎さんが「過去はかえられる」ということを最近、よく述べている。要約すれば「過去があることは仕方がないし、現在は過去に縛られやすい傾向がある。しかし過去と現在を切り離し、未来から現在を生きれば、そうして現在がかわることで過去が違って見えてくる」というようなことを述べていたと思う(間違っていたらごめんなさい。平野さんの本を読んでみてください。ちなみに似た生き方として歴史修正主義的な生き方が挙げられますが、こちらは過去と現在を切り離すことも、未来から現在を生きようとすることもなく、ありえてしまう過去を羊頭狗肉的に取り換えようとするのです)。

この平野さんの「過去はかえられる」的な態度で、保健室に来る生徒も生きられたら、きっと、僕のような体育や音楽は好きでも〈評価〉や〈勝ち負け〉につきまとわれている授業の体育や音楽を嫌いという生徒も、一生、音楽や体育に取り組んでいけるのでしょうね。