教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する

例えば善者vs悪者、男vs女、教員vs学生といった二項対立で社会システムを考えていた時代、弱者は悪者であり女であり学生であった。その者らは敵つまり善者、男、教員からの自由を叫んだ。が、自由にした先には何もなかった。見かねた社会学者が「自由とは何々からの自由ではなくて何々への自由だ」と述べた。だがこれは敵への自由という意味だけではない。二項対立が一項では成立しない以上、敵への自由をいうのであれば、弱者への自由もまたいわれねばならない。さて弱者は(弱者からした)敵からしたら弱い敵ともいえる。だとするとオルテガは「自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する」とその著『大衆の反逆』で述べたが、まさにその通りだといえる。

教員にとって最も難しい仕事は授業の場にいるにもかかわらず決して授業を受けようとしない学生の扱いについてではないか。授業の場にいながら授業以外の何かしらに囚われている学生の扱いについてだ。この学生を無視することあるいは追い出すことは容易だろう。その二つを禁じ手とするのであれば、教員は授業中、裏返り、その学生のありさまの変化・生成を試みなければならないはずだ。対話的な場に出なければならないのです。ありさまの変化については何があるのかを問い続けてきた哲学的思考(ハイデガー的哲学)が、変化したありさまからの生成については終わり方に注意し続けてきた芸術的思考(レヴィナス的哲学)が力を貸すだろう(ハイデガー的哲学とレヴィナス的哲学の接続の理論は自分の場合、数学が担っていると考えている)。

こうして学生のありさまが一変すれば、必ずしもではないが授業に取り組むようになるかもしれない。ならなくても何かにとらわれているだけの時に比べたらひとつ成熟したといえる。ここで裏返っていた教員は表返り、今度はそのありさまが一変した学生の存在を起点にそれまでの授業のありさまを一変させる。あるいは一変させないという一変をさせる。こうして「落ちこぼれ」以前のおちこぼれを出さない授業が可能となるのだろうか。

この授業の枠組みはメルロポンティの可逆性的思考による。可逆性的思考において伝統的な哲学的思考あるいは芸術的思考(背後には数学)が生きているということです。オルテガの言葉をもじれば「教育者は、哲学的思考との共存、そればかりか芸術的思考との共存の決意を表明する」のです。