「誤配」なんてありえるのかしら?

怖い夢をみてはっと起きてしまうことがある。夢は体丸ごとでみているのだろう。体丸ごとで夢みているとき、その体はベッドならばベッドの上にあるが、夢遊病者的に多少なりとも動きながら夢みているのだろう。その動きはひとつに例えば「寝返り」とよばれるかもしれれないが、それは寝ていて体が疲れたから無意識的に寝やすいように体を動かしたからではなくて、体丸ごとで夢みているからと考えている。こう考えると夢みているときは起きているときの世界にもいるにもかかわらず、起きている世界のことは自分ではどうしょうもできないでいるといえる。

体には他々の体と生きてきた記憶のいくつもの片割れがあるとする。そしてそれぞれの片割れは他々の体の記憶の片割れへとそれぞれ開かれているとする。片割れと片割れとかがつながっているとき、記憶として再会している。再会しているとき、記憶が最新の現在として再生している。他方、再会していないとき、記憶は再生されない。片割れと片割れは切れるようにしてつながっているといえる。全く無関係であるのではないということです。喩としては丘から丘へと渡る蝶にとっての丘と谷のように、アセチルコリンにとっての各神経単位とシナプスのように、です。

とすると体丸ごとでみている夢の何かしらは、体にある記憶の片割れから他々の体の記憶の片割れへと伝わるのだろうか。蝶が谷を渡るように、アセチルコリンシナプスを渡るように、ある体が体丸ごとみている夢もまた、切れるようにしてつながっているというつながりを通して、他の体へと伝わっているのかもしれない。ただし、だとしても伝わるかもしれない他の体が、そこで、夢を見ている自分の体とではない体と記憶を再生していては、伝わりにくいかもしれない。何かに前のめりになっていると別のことが目に入らないように。逆に瞑想は感じるはずのない存在を感じようとあえてつながりを切る(特に目に関するつながりを切る)。が、再生していても伝わるときは伝わってしまうのだろう。戦争中、ダイモンに呼ばれてポカンとしていたというソクラテスの様に。このような現象は「虫の知らせ」と呼ばれる現象かもしれない。

夢の中に憧れのひとが出てきたら、今度、そっと尋ねてごらん。「あなたわたしの夢みていた?」って。ひょっとすると…。