ならずになる(変化-生成する)

時折、「この人、凄いな」と思う人に出会いませんか。その時、その人の「凄さ」が自分でわかっているということですよね。だとすると自分でもそう成れそうな気がしないでしょうか。しかしなぜか成れない(成れていない)とも思いませんか。一度くらいは自分もそんな「凄さ」の境地に到達したくないでしょうか。どうしたら到達できるのでしょうね。「そう問うているうちは駄目だ」とか「ある意味、もう到達しているよ」という応答は禁じ手という条件で進めていきます。

「〈幸福〉について考えないでいられるときが幸福だ」と聞きますが、その如くな状態の時、まさに「凄さ」の境地に到達しているといえます。そのためにまずは「進んで盲(めしい)の如くに生きること」が大切だといわれています。ここで「盲の如く生きる」とは「自分はどのような現実に生きているのかのそのどの、自分は誰なのかということのその誰を忘れて生きる」こととします。これは始まりは何でもいいといえば何でもいいということですね。それ、が始まりということです。しかしそう生きている自分は自分のことながら自分ではわかりにくいです。だが必ずしもわからないということではないです。例えば「考えながら・動く」といった同時に別々の行為をなしうれば可能ですが、通常的にはその行為はし難いです。事後的にわかろうとすることはどちらかといえばし易いです。「事後的にわかろうとする」とは、「自分はどのような現実に生きているのかのそのどの、自分は誰なのかということのその誰を忘れて生きた」後に、そう生きた自分の跡-ここでは「それ」でした―を、そう生きた自分から離脱した自分で、味わうようにすることから初めて、そう生きた自分が何であるのかわかろうとすることです。

しかしそう生きた自分の跡に「おや?」と思えてしまうような違いがありえなければ生きた自分の跡をいくら味わってもそれは生きた自分の跡にすぎません。ありえればわかるかもしれないです。基本的にはないです。しかしあるときは否応なしに見つかります。けども「探そう!」とするとむしろその探そうとする意識が邪魔してありえないこともあります。味わうとは難しい行為なのです。味わう対象に過不足なく接し続けなければならないようです。けども違いがありえればわかりうる。ここでは「部分がわかれば全体がわかる」という考え方に従っています。

ありえてしまった違いの扱い方は、ありえてしまった違いを非対称の二観点からそれが何であると具体化され、その具体化されたものはこういうことだと例示されると、それらではない存在としてありえてしまった違いの違い性が際立つというものです

ありえてしまった違いをそう扱えたまさにその時、離脱した自分は、自分が望む始まりに生きています。その始まりが「凄さ」なら「凄さ」たるように、ここまでの過程をデザインすればよいのです。それにはまず「自分はどのような現実に生きているのかのそのどの、自分は誰なのかということのその誰を忘れて生きる」のです。しかしそのままではダメです。何度もいいますが「成るというのは間違いです」。(『影との戦い』のオジオンもゲドに「鷹になってはダメだ」と忠告していますね。成ってしまうと例えば『沈黙』のガルぺ神父の結末の如くで終わりです)。