オ・ペダナ・ナ・コメフ・ト・デダナ・ト・コメフ

物-例えば石-は音をたてない。たてるとすれば、音をたてるように人工的につくられた物の音か、幻聴だ。が、音をたてるはずのない物から音を聴いたという報告の内容を「幻聴」に分類し、薬を処方するだけが精神科医の仕事だろうか。

古代のキリスト教会では自国語の他に「異言(いげん)」が語られていたと中山元は記している。自国語にとっての他国語という異言と、解釈する者がいなければ他者には全く理解できない言葉(パウロ)という二種類の異言があったという。

こうしたキリスト教会は当時、どのような様子だったのだろうか。日々、神父と信者で行われているキリスト教を支える言語が自国語だ。その教会の外から少なくてもひとりは信者でない者が二人やってくる。二人とも自国語でない言葉を話しているが、そのうちひとりの言葉は聞いたことがあるという者-おそらく商人の血筋の者―が信者の中から名乗り出て、通訳をすることで、意思疎通ができただろう。しかしもうひとりは全く聞いたことのない言葉を話していた。すべてを知るという博学者に尋ねてもわからないという。だが話しかけられているとはわかる。ここで中山元はその言葉の者としてアントナン・アルトーを挙げている。アルトーその残酷劇で「オ・ペダナ・ナ・コメフ・ト・デダナ・ト・コメフ」といった「舌語」を多用しているという(「舌語」とは喃語的、統合失調症の患者の言葉的言語のことです。音楽でいう「倍音」のようなことですしょうか)。この言葉は通訳できない。解釈はできる。解釈は試論的だ(正答がないのだから)。だからどうしても最後に「~と私は思う(あなたは?)」というように解釈の後に「あなた」の余地を用意するいうなれば[印]―ここでは「~と私は思う」-をつけたくなる(試論を通論のように話すわけにもいかないし、仲間と生きている以上、絶対的な自身があるわけではないから)。

「舌語」といえば、かの『天空の城ラピュタ』の「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」(われを助けよ、光よ甦れ)や「バルス」(閉じよ)を思い出さないだろうか。これらも「舌語」と仮設する。シータが「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」というと、死んでいるようだった太古のロボットが動き出す。ハズーとシータが「バルス」というと、究極の科学の城ラピュタが一瞬にして崩壊していく。

中山元は「この意味で、舌語は、普通の意味伝達の役割を放棄した詩的な言語に近いものとなる。詩的な言語は、シンボルと社会秩序にひびを入れ、「切り刻み、語彙、統辞さらには単語さえ変形し、その舌から、声と身振りの差異がもたらしてくれるような欲動を取りだす」ことを目指す」(「異語と舌語」)と記しているが、ラピュタの例はまさにそうだといえると私は思う。

こう考えてくると、音をたてるはずのない物から音を聴いたという報告の内容は「幻聴」ではなく「舌語」を聴いたかもしれないと考えられないだろうか。だとすれば、音をたてるはずのない物から音を聴いたとすれば、かわらなければならない。アクション。死んでいるようだった太古のロボットが動き出したように、究極の科学の城ラピュタが一瞬して崩壊したように(「バルス」には閉じよという意味だけでなく再生という意味も込められているという説もあるが、そうかもしれない)。こうした変化・生成を支えることもまた精神科医の仕事ではなかろうか。

もうひとつの手もある。聴いた音を無視する。無視しても無視しても聴こえてくるのであれば、黙らせるという手もある。こちらは、とかく「助け声を無視するなんてひどい、暴力だ」となる(なぜ「助け声」か。声が出ている時は助けを求めている時だという傾向があるということですかね。もっとも溺れる者は藁をも掴むということもありますね)。ともあれ例えば建築のように何かつくっている時は、聞こえるはずのない音を聴いたとしても、いちいちかわっていたのでは、いっこうに完成しないということもある。あえて無視する。あえて黙らせる。ただしプロは、建築づくりの際に音楽が流れていても、聴こえてこないですね。

最後に。「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」「バルス」が「舌語」だというのであれば、「音をたてるはずのない物から音を聴いた」「幻聴」もまた「舌語」ではないか。これは多様な自国語を認めようと述べているのではない。話された言葉が明らかに自国語だとしても、そして聞き手がいるとしても知っている者がいなければ、それは舌語だという意味で。