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ラカンと時間

1分目(いっぷんめ)の次を2分目と仮設する。1分目から2分目に至ろうとすると、そのあいだは60秒ある。あいだに何があるのかは知ろうとしなければわからない。1秒目と2秒目のあいだも六十で区切ればそのあいだには〈1/60秒〉が六十個あることになる。さらに‥‥と続けることができる。ではどこまで続けられるか(あいだに何があるのかは知ろうとしなければわからないが、知るといっても予め知るべき何かがあるわけではないのです)。ともあれ続けることが終わった時、2分目に触れている。その2分目に触れるひとつ前、〈根底の時間単位〉に到着している(例えば〈1/60秒〉)。そこから翻るようにして間なく2分目に触れている。

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こうした「あいだ」に生きることなく、1分目から2分目に直通的に至る時間観を「普通の時間」、〈根底の時間単位〉なしのあいだの時間を「無限の時間」とすると、上記の考えでは「普通の時間」は「無限の時間」に浮いているようにありえている。この時間制を採用した物語が、『邯鄲の枕』『2分間の冒険』、あるいは「月が2つある世界」を舞台とした『1Q84』だろう。

ラカンの「現実界」「象徴界」「想像界」を、現実界とは「裸系の事物がありえている世界」、象徴界とは、「言語や数学が働いている世界」、想像界とは「字の通り‘想像’の世界。象徴界に入る一つ前の世界」と理解すると、上記の時間観は、現実界象徴界想像界の関連と似た関連を記していると私は思う。

幼稚園や小学校教員をしていればわかりやすいかもしれないですが、最近(平成時代近辺)は母が一番強い。「家父長制反対」的な「父」観は通用しない感がある。だから、最近とは波平が亡くなった後のサザエさんのマスオさんが主役になった時代のようなものといえるかもしれない。その時代、母(サザエに相当)は、自分の思った「学校の価値観」(しつけ、社会性など)を先取りするようにして子供に「学校の価値観」を身につけさせる。「挨拶すること」、「時間を守ること」、「級友と仲良くすること」などなど、と。が、おそらく教員はそんなことは望んでいない。その母のしていることは、今は通用しない古いタイプの教員の仕事―例えば茶髪の生徒を黒髪に染めて仕事完了というように見かけだけを整える仕事―だと思っているかもしれない。教員としては「挨拶すること」は教育のひとつの目的だとしても、挨拶できない子供が挨拶できるようになるまでの間が抜けていると思っているだろうか。これは1分目から2分目のあいだには何かがあるなどとは考えずに生きているということです。そして1分目の次が2分目という時間制は想像されたものですから、この意味で母的な存在に育てられ育つ私たちは、想像界に生きているのです。それが最近の子供の始まりの生の様相です。

そのように想像界に生きていた子供がラカン的には次に象徴界に入ります。1分目と2分目のあいだに何があるのか知ろうとすることは、ある時点までは素材が言葉であれ数学的記号であれ理に沿ってなされますので、それは象徴界の作業のことです。想像界から象徴界に入るきっかけは、ラカンとしては母がいなくなることですから、入るきっかけを抽象的に言い換えれば「自分が生きるにあたりなくてはならない存在を自分の意志にかかわらず失ってしまう」という経験ということです。

次いでそうして象徴界で下位概念を明らかにする作業(穴掘り的な作業)をしているとあるものがあるようにしてあるのでしょう。1分目と2分目のあいだに〈根底の時間単位〉があったように。それが現実界における「裸形の事物」に相当します。そして、それに囚われずに―ラカンの定義的にはとらわれることは無理ですが―(だから自戒を込めて、いわば)「遠く離れた」ところの生が、二分目に触れているということですね。ただし2分目は2分目です。同じです。しかしこうして象徴界を通して触れた2分目は触れない場合の2分目と違うのです。

このように冒頭に挙げた時間観は、現実界象徴界想像界の関連と似た関連を記しているのです。