同級会について

学校生活は意味にあふれている。では同級会の働きとは何であろうか。「近況を報告する」だけだろうか。あるいは「昔はよかったね」と過去を懐かしむだけだろうか。エンカウンター・グループでいうところのシェアリングの働きがそこでは期待されているのではないだろうか。

例えば『臨床心理学』(倉光修)に「ロジャースは、人は元来、経験をそのまま意識できるのだが、成長の過程で、それがしばしば解離していくと考えた。一般に、親は子どもが特定の条件を満たす行動をとるときしか肯定的な反応をしない。すると子どもは、自分の経験の内で、親から肯定された部分をより意識しやすく、否定された部分を意識しにくくなる。そして、意識されない部分は自己にとっての脅威となるので、否定されたり、歪曲されたりする。その結果、神経症や非行などの心理的問題が引き起こされるというわけである」とある。

ここで述べられているように親はとかく子供のあり様を肯定するあるいは否定するという態度で子供に挑む。否定された部分は、引き受け手を失うようにして子供の精神状態を蝕む。子供は親が用意した舞台つまり肯定あるいは否定という枠組みからしかその生を始められないとしたら、子どもは親に否定された部分を、親と関わっている自分から離脱したもうひとりの自分で「それはじぶんの」というように引き受けなおせば、否定された部分に自身を乗っ取られるようにして病むということはなくなるのかもしれない。

こうした非対称的な相互行為は肯定あるいは否定という枠組みだけではない。親が子供に対話的に挑んでも親によって承認されない部分は子供にありえてしまう。その場合でも、その部分を「じぶん」で引き受けなおせば病むということはなくなるのだろう。

ロジャースは、このように心理的問題は自分が経験していることが十分に自己に組み込まれていないために起きると考え、その治療は「経験と自己を一致させること」だとした。その考えでロジャースは具体的な治療の手立てとして「エンカウンター・グループ」を始めた。エンカウンター・グループは例えば講師がクライアントに課題を与えそれに取り組むエクササイズとそのエクササイズから距離をとり見直すことから始めるシェアリングという二部からなる。

ここで普段の学校生活をエクササイズ、卒業後しばらくして行われる同級会をシェアリングととらえれば、同級会の働きはシェアリングにあたるとわたしは思うのですね。

ところがこの「同級会(シェアリング)」はなかなかうまく働かない。学校生活≒エクササイズ、同級会≒シェアリングというつらなりにもうひとつ日々の授業をつらねるー学校生活≒エクササイズ≒授業、同級会≒シェアリング≒授業の振り返りーというようにつらねると教員経験者にはわかりやすいかもしれないですが、授業で振り返りの時間をとっても子供がその学習カードに書く内容は「今日は何々を勉強しました」とか「楽しかったです」みたいなものばかりで、いまいちという傾向がありますが、そのようにです(だから研究授業の指導案作成の時、振り返りまで取る必要があるのかという指摘もある。しかしたまに「(授業に関して授業では扱わなかった事柄について)今度はその事柄についてそれを知ってみたいです」という内容もあったりするのですが)。

なぜ同級会≒シェアリング≒授業の振り返りが上手く働かないかといえば、学校生活≒エクササイズ≒授業を血肉化する時間が経っていないからなのかもしれない。例えばエンカウンターグループの時は、午前にエクササイズ、昼食をとって、午後にシェアリングというように、ここでは「昼食」という間がある(プログラムに何気なくはさまれている昼食にも意味があるのですね)。

リルケが『マルテの手記』で「思い出が多くなったら、それを忘れることができなければならない。再び思い出がよみがえるまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出が僕たちの中で血となり、眼差しとなり、表情となり、名前まで失い、僕たちと区別がつかなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなから燦然(さんぜん)と現れ浮かび上がるのである」と記していますが、授業等を血肉化した間の後、「一行の詩の最初の言葉が思い出のなから燦然(さんぜん)と現れ浮かび上がる」時こそが、同級会の時かもしれないです。それまで待たないといけない。

しかしこの「待つ」というのは、〈現世的な何か〉があると時に例えば悲惨な目にあいますね。例えば時が来て〈皆にあいたい〉と密かに願いつつ同級会に行ったら、もう数人しか生きていなかったとか。「〈待つ〉のその時間に発酵した何か、ついに待ちぼうけをくらうだけに終わっても、それによって待ちびとは、〈意味〉を超えた場所にでる、その可能性にふれたはずだ」(鷲田清一『「待つ」ということ』)と記述されていますが、これかなり凄い境地のことを指摘していますよね(じぶんなんてまだまだ〈現世的な何か〉まみれですかね)。ともあれそのくらいの境地に達しないと例えば「死ぬとわかっていてなぜ生きるのか」という問いの答えや「死ぬの嫌だよ」という欲望の彼方にはふれることもできそうもないことにはふれております。はい。