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新しい日々がはじまる

教職に就くとわかりやすいのではないでしょうか。児童・生徒・学生を総称して「子ども」と呼べば子どもには様々な人がいるということが。そのうちのひとりには教職に就いた自分が、自分が担当するクラスの例えば児童だとしたら「意識の届く範囲、届かない範囲あれこれと試みたがこの子と関わることは無理だ。逃げよう(防御しよう)」という児童もいることもあるでしょうか。村上春樹の術語的には「生まれながらの殺人者」と形容されそうな子どものことです。

しかし子ども同士ではそうした判断はし難いかもしれない。殺されるあるいは殺すまで生まれながらの殺人者的子どもとも関わろうとする例えば仲よくしようと(教員と同じように)意識の届く範囲、届かない範囲あれこれと試みて関わり続けるかもしれないです。〈外〉がない場合、あるいは「級友みんなと友だちになろう」という同調圧力あるいは「同調圧力をなくす」というドウチョウアツリョクが強い場合はそうし続けるかもしれません(←音はわかりやすいのです。それは難しいつまり同じように関わり続けてしまうということです)。特にいわゆる優等生がそうなりそうです。

優等生がそれでもなお、その生まれながらの殺人者的級友と仲よくしようとしたら、一旦、その級友と関わることを止め、壁をつくるなりなんなりして身を守り、壁ならば壁の内側(自分のいる側)で「生まれながらの殺人者」が生まれる以前に赴き、そこで何か手ごたえあるようにしてみつかることを発見するのです。それが‘元凶’です。しかし発見だけで十分です。やり過ごすのです。そこで何かしてはならないです。何かすれば二度と元に戻れなくなります。例えば「生まれながらの殺人者」が「善良な市民」に生まれ変わるようにと「生まれながらの殺人者」が生まれる以前の時(=自分のつくった壁の内側での歴史)を組み替えたくなりますが、そうしてはならないです。が、しかしなのです。発見した段階で、発見しているのですから何もしないということは不可能なのです。それならばむしろイロイロとした方がいいとわたしは思います。イロイロしてもあるいはしなくても結局、元に返りますから。

この仕組みを引き受けることが自覚的に壁の内側の外の場所に行き戻ってくるということです。つまり壁の内側の外の場所で何か発見したら、色々として、最後は元に返すのです。そうしてその場所へと赴く以前へと翻り、壁を取り除く。すると「生まれながらの殺人者」と関わりたいように関われます。仲よくならば仲よくできてしまいます。なぜか自然とできてしまいます。ただし‘元凶’もこちらの時へと(どこからか)やってきます。が、それは‘元凶’ではありません。一度触れていますが、初めての存在として出会います。(U)

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(追記)

これを書いた後、J.ラカンの「精神分析技法における、解釈の共鳴と主体の時間」を読み始めた。冒頭に次の二つの引用があった。「男と愛のあいだに 女がいる 男と女のあいだに 世界がある 男と世界のあいだに 壁がある」(アントワーヌ・チュダル『二〇〇〇年のパリ』より)、「実際わしはこの眼でシビュラが瓶の中にぶらさがっとるのを、マークエで見たよ。子どもがギリシャ語で彼女に「シビュラよ、何が欲しい」と訊くと彼女はいつも「死にたいの」と答えていたものさ」(『サテュリコン』四八)。ラカン、おもしろそう~。