〈読む〉ことを通して精神的生命力を取り戻す

なぜ子供たちはあまり読書をしないのだろう。理由を挙げてみる。解決策も記したよ。

・本がない。

(←本屋や図書館や研究室に行けばあるよ。他にもあるかもね。探してごらん)。

 

・本はあるが読める状況にない。例、読もうと望まない。忙しくて読めない。読みたくても字が読めない、など。

(←基本的には気持ちひとつで読めます。読もうと望み、実際に読むのです。それでは少し無理がかかる。自然に読めるようになりとすれば、そう読めるように自分の抱えている問題なりをどんどんと片付けていかねばならないですね。ひょっとすると一生、読めないかもしれませんが、自分の抱えている問題を〈読む〉ように片づければ、読書経験と同質の経験をすることになります。)

 

・本の内容に囚われてしまう。例、内容に読み流される。内容に深く感化されてしまう。例えば国語的に正しい内容理解に留まっている。内容を娯楽用品の様に次々と消費してしまう、など。

(←それはそれでよいといえばよいのですが、内容の逆側の「内容」といったいうなれば内容もあるよということに気がつくと、もとの内容理解が深まっていきます。たまに国語の先生は「行間を読め」と指導しますよね。それ聞いて「は? 何も書いていないから読めないんですけど…」といぶかしがるかもしれないですが、その先生の言う通り行間を読むのです。子供でも‘決まりきった仕事がきちんとできる社会人風’になると、内容の外に出ることに恐怖を感じるかもしれませんが、もっと子供の頃、あなたは外に出ていました。さらにいえば実は、この世が外なのです。この世の外はないのです。)

 

・精神的生命力を取り戻すような読み方を知らない。その代りに例えばテストで点を取るための読み方、例えば実用を身に着けるような読み方に嵌ってしまっている。

(←内容には外があるということに気がついたら、遠回りかもしれませんが「読むとはどういうことか?」を考えてみましょう。様々な読み方がありますが、そのうちのひとつに「精神的生命力を取り戻すような読み方」があるとわたしはおもいます。)

 

・生命力を取り戻すような読み方を知っていて、実際にそう読んでいるが、ところどころで躓いてなかなか進めない。

(←躓く点について、問題を明確にし、解決のための手立てを考え、そうして問題が解決された自分を、生命力を取り戻す読み方のラインへと戻ることができる工夫もなすことで、ひとつずつ躓く点を超えていきましょう。大切なことは、問題が解決された≠精神的生命力を取り戻す読み方のラインに戻った、ということです。問題が解決された後、もうひと手間かけなければ、精神的生命力を取り戻す読み方のラインに戻れません。)

 

・精神的生命力を取り戻したが、周囲からの応答が以前と違い困るからそのような読み方は嫌だ。

(←様々な応答に触れてしまうことは仕方がないですね。以前の親友の裏的面-例えば邪悪な面-を見てしまうかもしれないです。別もありますね。もっと親友らしくうつる場合もある。今的には「キモく」(千葉雅也)なるのですが、キモくなるだけではないのです。しかし基本的にはどれも無視です。根本的にあなたはそのままでいいのです。だから無視ですが、ここで「これからも生きるぞ」と望むのであれば、わたしとしては次の三人の言葉を紹介します。ひとり目はミルトン・メイヤロフです。メイヤロフはその著『ケアの本質』でこう述べています。「このような全面的な序列化をする際には、ある種の事柄や活動をあきらめなければならず、そのため服従という一要素も含んでいる。しかしながらこの服従は、工芸家が自分の規律や材料に自ら進んで合わせるように、基本的には自分を解放し、確信を与えてくれるものなのである」と。二人目は「「忘れなあかんこと、忘れていいこと、ほいから忘れたらあかんこと」(河瀬直美監督の映画『沙羅双樹』のなかの言葉)。これを後ろ髪引かれる想いでどうにかさばいてゆくのが人生だとすれば」とその著『老いの空白』で記述する鷲田清一さんです。三人目はニーチェです。「だが、これが-私の趣味である。-よい趣味でも悪い趣味でもなく、私の趣味である。私は、私の趣味をもはや恥とせず、ましてや秘めることはない。私に「道」を尋ねた者は私にこう答えた。「これが-私の道だ-、-きみたちの道はどこか?」と。万人向きの道など、存在しないからだ」(『ツァラトゥストラはこう語った』「重力の精」2)。)

こられが以下の文章に触れた自分としては、子供たちはあまり読書をしない理由だと思いその解決策も提案してみました。

バリー・サンダスーはその著『本が死ぬところ暴力が生まれる』で「識字の奇跡」は「未来時制」と「反‐事実」の二つであり、「この二つが衰退し死に絶えなら、私たちがもはや大人として、未来について目的をもって夢を描くことができなくなったら、すべてが失われる。その時、識字は確実に文化から流れ去る。そしてこの本は、見当違いの夢以外のなにものでもない」と述べています。

ここでの「識字」とは文字を読むこと、「奇跡」とは神的な力の働きと理解します。では、「識字の奇跡」である「未来時制」と「反‐事実」とはどのようなことでしょうか。

ここで〈読む〉という行為を以下のように仮に決めます。

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〈対象〉と〈対象を読む人〉と〈対象を読む人がいる場所〉と〈対象を読む人がいる場所以外の何処か〉があるとする。

〈読む〉とは〈読む人がいる場所〉で〈対象を読む人〉が〈対象〉の輪郭の逆の部分を起点にある素材を用いて表現物を制作することです。〈対象〉の輪郭が凸なら表現物の起点は凹ということです。パズルと同じです。パズルとの違いは表現物の終点には定まった形がないということです。しかし表現物が(仮に)完成した後、〈対象を読む人〉が〈対象を読む人がいる場所以外の何処か〉に外出するようにして間をとり、見渡すと終点を発見することができます。そしこの終点が表現物の終点たるように表現物を制作しなおして完成です。こうして完成した表現物は人工物でありながら〈対象を読む人〉(生物)らしさも湛えています。

ここにて〈対象を読む人〉は製作からは離れます。注意することは〈対象を読む人〉はこの製作を通して、〈対象〉をどのように認識するのかその認識様あるいはそう認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型をかえているということです(※)。

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(※)製作する以前は〈対象〉への認識は〈対象〉の輪郭が例えば対象という黒字の内側線ならばならばその線形であり、その線形に認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型は「たいしょう」と呼ぶことでした。なぜ〈対象〉をその認識様で認識するのかという理由は、そう認識するように初期条件として定められているからであり、その認識様で認識した〈対象〉が指示する〈対象〉への関わり型の先に何がくるかは別問題です。あれがくるかもしれません。という前後二点まで〈読む〉という行為は表現します。

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この仮説での〈読む〉は表現する・表現しなおすことと不可分です。そして二つ特徴があります。一つ目の特徴は、想定されている表現物には起点はありますが終点がないため未来志向的であるということです。この性質がサンダスーのいう「未来時制」に相当すると思います。

二つ目の特徴は表現する・表現しなおすといっても、表現者がすべてを統御するようにして製作できないということです。これは(仮に)完成するということ、そして一旦離れるということ、戻ってきて再度触れた仮の完成物に終点を見つけ、仮の完成物を一変させるようにして完成させること、という過程があるからです。この過程は「自分の死後、自分がよみがえり、生前、自分が製作した作品を見直したら、そこにある添え物が添えられていることを発見し、その添え物が作品の見どころになるように作品を制作しなおす」様なものと喩えられます。この過程は事実的には考えられないのですね。この性質がサンダスーのいう「反‐事実」に相当すると思います。

この仮説が実際に「読むことの授業」の枠組みとして採用されているとしたら、例えば一発完成を心底望む表現者(学ぶ者)の表現物は、不在としてしか現前しない指導者によって表現物の見返しがなされ手入れがなされるのです。しかしこれは横領や改作とは違います。そして別日、手入れがなされた表現物をみた一発完成を心底望む表現者は「え?誰か僕の作品いじった?」というかもしれません。しかし誰もいじっていない。ここでその表現者が精神病親和的表現者だと病気にのみ込まれてしまう可能性が高いです。独裁親和的表現者だと陰謀論を唱えるかもしれないです。とすると指導者にはカウンセリング的能力も望まれますが、学ぶ者を自分で危険な状態に陥れ、素知らぬ顔で、今度は自分で救うようなことにならないためにも、指導者には(やはり)スーパーヴジョン的な存在がいなければならないのです。