「呼びかけ」「呼び戻し」について

君、あなた、お前、汝、ワレ、奴、など(←「カテゴリー」の言葉)。

佐々木悟、安倍晋三、など(←「名前」の言葉)。

 

佐々木悟は相手を「名前」で呼ばず「カテゴリー」で呼んだためか、失った人がいくにんもいる。失いたくなかった。

 

「ことばという関係の本質は呼びかけであり、呼格であるからである。他者は呼びかけられたとたん、その異質性において維持され確証される。他者にことばで語りかけることができないと語るにせよ、他者を病人と分類する場合であるにしても、また他者に死刑を宣告するときでさえ、そうである。他者がつかまれ、傷つけられ、蹂躙されるまさにそのときにも、他者は「尊重」されているのである。召還された者は私が理解する者ではない。召還された者はカテゴリーに属していない。召還された者とは私が言葉で語りかけるものである。自己にのみ関係し、なに性を有してはいない。」(レヴィナス『全体性と無限』熊野純彦訳)

 

ここでレヴィナスは「ことばという関係の本質」は「呼びかけであり、呼格である」としている。「呼びかけ」と「呼格」は違う働きでしょうか。「呼びかけ」られた他者は「尊重」されている。他方、「呼格」の他者は「召喚された者」であり「私が理解する者」ではない。そのものは「カテゴリー」に属さず「私が言葉で語りかけるもの」です。この「呼びかけ」と「呼格」の違いは、同じようなことを述べているジャックデリダの説を聞くとわかりやすい。デリダはこういう。

 

「固有名というものは、言語ないしは-実はそれが条件づけている-通常の言語機能には属さないとするならば、また別のところで示そうとしたように、固有名は他の語のようには翻訳できないとするならば(PeterはPierreの翻訳ではありません)、歓待についてそこからどのような結論を引き出せばよいでしょうか。歓待はその純粋な可能性における固有名の呼びかけないしは呼び戻しを前提とする(それはお前のものだ、私が「来たれ」「入れ」「ウィ(oui)と語るお前自身のものだ)と同時に、この同じ固有名の末梢をも前提とします(「来たれ」「ウィ」「入れ」「お前が誰であろうと、お前の名前、言語、性、種が何であろうと、人間であろうと動物であろうと、神であろうと……」(デリダ『歓待について』廣瀬浩司訳)

 

ここでデリダのいう「固有名の呼びかけ」はレヴィナスのいう「呼びかけ」に相当し、レヴィナスのいう「呼格」が「呼び戻し」に相当するととらえると「呼びかけ」と「呼格」の違いがわかりやすいと私は思います。この接続は間違いだろうか。

 

「呼びかけ」と「呼び戻し」、これらは具体的にはどのようなことだろう。

私たちはその人がそっちに行くと危険な目に会いそうなときは名前を呼ぶ傾向があるのではないか。例えば「悟、そっちに行くと危ないぞ」というように(ここで「君、そっちに行くと危ないぞ」と言ったら、その声は名前を呼ぶ時よりも届かない気がする)。これが「呼び戻し」の例でしょうか。

では名前を呼ばないときというのはどういう場合か。ある問題状況に陥りにっちもさっちもいかなくなっている時、助けを求める場合ではないか。「誰か助けてー」と叫び声をあげる(なぜだろう。助け声が届くかもしれない者の人数を多くしようとして名前では呼ばないのだろうか)。これが「呼びかけ」の例でしょうか。

 

「呼びかけ」は「名前」ではなく「カテゴリー」で呼ばれ、「呼び戻し」は「カテゴリー」でなく「名前」で呼ばれる。

 

話を戻す。失うということは呼び戻せなかったということだろう。それは相手を「名前」で呼ばず「カテゴリー」で呼んだ報いともいえる。佐々木悟はこうして大切な人の「名前」を呼ばなかったために、大切な人を次から次へと失ってきたのだろう。

 

でも、それが私にはわからなかった(みんな私より先にレヴィナスを理解していたのだろうか。ずるい?)

 

このレヴィナスの考えがわからないということは、マジで佐々木悟は「名前」を呼ぶように「カテゴリー」で相手を呼んでいたということだ。例えば「悟、そっちに行くと危ないぞ」というところを真剣に「君、そっちに行くと危ないぞ」と言っていた。が、そんな「信」は通じなかった。「言」の方が強かった。で、みんななくなっていった。そんなところなのか。

 

これは自業自得なのか。〈生まれながらの犯罪者は「犯罪者」なのか?〉。

 

この逆転は根深いです。言葉の問題だからです。理屈ではレヴィナスがまっとうだと思っていてもいわば気遣いの瞬間にはやはり「悟、そっちに行くと危ないぞ」ではなく「君、そっちにいくと危ないぞ」といってしまっている。気遣う瞬間、ぐっとこらえて、裏返して気遣うという技も想定できることはできる(その「ぐっ」との一瞬に気遣う相手が死ななければいいが)。

言葉のこうした力について言及している者が鷲田清一さんだとおもいますね。鷲田先生はその著『ぐずくずの理由』の「あとがき」の冒頭でこう述べています。「言葉はこころの繊維であると思う。言葉がこころの襞をつくる。言葉なくしては、ひとはじぶんが浸されている感情の何であるかも、たぶん理解できない」と。

 

自分がレヴィナスにあってしまったからこんな目にあっているのか。あってしまったことは仕方がないとすれば、この、なかなかかわらない自分の言葉が自分の言葉ながら憎い。 次の瞬間からいきなりフランス語をペラペラ話せるようになればとも思うが、そう簡単にはいかない。

 

「言葉ひとつ足りないくらいで 笑顔ひとつ忘れただけで ほんの少しのすれ違いだけで 全部あきらめてしまうのか 愛されるばかりが能じゃないだろう さあ見つけるんだ 僕たちのHOME」(B’z『HOME』)

 

この曲いいですね。励まされますね。自分はこの曲聴きながら、佐々木悟の言葉を別の言葉へと換えようとしています。