ライフコースを考えることを起点として「自分の人生に自分の意のままにならないことがあることはありがたい」「死ぬことは間違いではない」という思いにいたる

ハイデガーは若かりし頃、その哲学を「生老病死」といったライフコースから学んだと聞いたことがある。私も真似してみる。

 

「産まれる以前がある。産まれる。無我夢中的に生きている。気がつく。自意識あり状態。自意識がなくなる。無我夢中的に生きる。死ぬ。死後がある。」という順のライフコースが考えられる。では、そのライフコースを考えているステージはどこかといえば「自意識あり状態」が妥当。というのも「産まれる以前」や「死後がある」では考えられない。「産まれる」「気がつく」「意識がなくなる」は瞬間的な現象。「無我夢中的に生きている」時とはその場その場的なことだけに取り組んで生きている時だと思っているから。とするとそのライフコースは「産まれる以前がある。産まれる。無我夢中的に生きている。気がつく。自意識あり状態。自分的ライフコースについて考える。自意識がなくなる。無我夢中的に生きている。死ぬ。死後がある。」という10のステージにわかれるといえる。

このコース、一見すると直線的な時間観に支配されているように見える。ところが違う。まず気がつき、自意識あり状態にいたらないと何も始まらない。そして自分的ライフコースを考える。そして再度、無我夢中的に生きているにいたる。これは真ん中の5ステージだけが自分の人生ということです。では自分的ライフステージの一部としてありえているが、自分で関りえない前3ステージ、後2ステージは何か。

 

ところでこうした、気がつく・気がつかないという議論をすると時に「気がつかない人は気がつかないまま終わる」といわれる。その時、ライフコース的には無我夢中的に生きていることには変わりない。が、気がついていて、再度、無我夢中的に生きているとは違う。気がつかずに無我夢中的に生きているは「何も気がついていなくてかわいそうだよね。動物的な生だよね」という生。だからか「気がつかない人は気がつかないまま終わる」といわれると「動物的は嫌だ。人間らしく生きたい」と願っている者としては脅されているような気がする。脅されているがどうしようもできないから、とても悩む。

 

さて前3ステージは自分的ライフコースの一部として確かにありえているが自分ではどうしょうもできないステージとしてあった。自分は立てないが確かにステージはあるので、その3ステージに自分以外の者に立って頂くことで、気づきが与えられると考えられないだろうか。そう考えると自分的ライフコースに自分ではどうしようもない部分があるということがありがたいとおもえる。

では後2ステージは何か。ここも自分的ライフコースの一部としてありえているが自分ではどうしょうもできないステージとしてある。自分の死後、そのステージに立った自分以外の者が…というところを想定して、そうあれるように再度、無我夢中的に生きているに入る。自分が死んだあと、そのステージに立った者の〈最高の人生〉がそこで花開くと思えると死ぬことも間違いではないとその自分的には思える。

 

以上、ハイデガーの哲学の仕方を真似したことでありえたいわば「誕生と死の哲学」でした。