「頭の良さ」の根底には「泥臭さ」があるはず

私たち日本人が最初に「証明」について学習する機会は、近年では中学二年生の数学における「合同な図形」の証明だろうか。この証明の仕組みは概ね、まず合同条件の確定があって、それは一旦おき「図形Aと図形Bは合同だろうか」という問題にあたったとき、その二つの図形に合同条件(証拠)が見出されば、その二つの図形は合同であると証明されるという道筋ですね。

ところでこの合同条件自体は、この数学の証明の仕組みにおいて正しさが証明されるようにしてありえているのか、それとも何度も何度も実験的に検討がなされた結果、「これはおそらく妥当」というようにしてありえているのか。

 

少なくても授業においては「合同条件」とは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果としてだろう。証明的に示そうとしたら、まだ学習していないことを用いてこれから学習することを学習するという矛盾に陥るからですね。「合同条件」くらいならば、そう何度も何度も実験的に検討しなくても確定できる気もします。

しかし数学の証明の仕組みをすでに習っているとしたら「合同条件」も数学的に証明しうる。が、とするとこの数学の証明の仕組みはどのようにして身につけたのか。他分野から借りてきたものか、それとも数学独自のものなのか。独自のものとすれば、その妥当さの確定は「数学の証明の仕組み」とは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果としてだろうか。

 

社会学と数学はつながることがある。このつながりは、あるとされる問題について、多くの情報を手に入れ、素早く選別し、組み立て、答えを導き出す、他者にもわかるように導きだすというという「頭の良い仕方」による。どのように社会学において数学がどのように働いているか。社会学はともすると社会学を専攻するものの個人妄総学に陥りやすい(も妄想かもしれないが勘弁)。が、その妄想さが社会学の原動力になっているかもしれない。しかしやはりそれは妄想だ。だからか妄想を語りつつもその妄想を補正するようなかたちで極めて客観性が高い数学を援用するのかもしれない(数学だけではというところもあるが)。

 

「合同条件自体は、この数学の証明の仕組みにおいて正しさが証明されるようにしてありえているのか、それとも何度も何度も実験的に検討がなされた結果、「これはおそらく妥当」というようにしてありえているのか」という問いに惹かれている自分は、この「頭の良い仕方」が退屈なのかもしれない。知についての活動の現場では、ある問いについてそれは何かということについて何度も何度も試行錯誤的に検討がなされた結果、その問いに対するその答えは妥当という答えの出しかたでの活動の仕方が、もっと胸を張ってもいいと私は思っている(そんな私はファラデー‥ファラデーの法則のファラデー‥をリスペクトしている)。