善良な心をリーガルマインドから守るには?

新見南吉『ごんぎつね』(昭和7年)と安倍公房『プルートーのわな』(昭和27年)から。

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『ごんぎつね』の要約。

雨上がり穴から出たごんは河原に行った。兵十の漁にうなぎをみつけて逃がすといういたずらをしていた。そこへ兵十がやってきた。ごんは逃げた。兵十はごんがうなぎを盗んでいると思った。数日後、兵十の母が亡くなったことを知ったごんは、あのうなぎは母に食べさせるものだったのだろうと推測し、いたずらしたことを後悔した。

ゴンはつぐなうためにいわし屋からいわしを密かにつかみ出し兵十の家に投げこんだ。兵十はいわし屋から盗人扱いされ酷い目に会う。それを見たゴンは反省し、拾った栗をそっと兵十の家に頻繁に届ける。栗が届けられることを不思議に思った兵十は加助に相談する。加助は「それは兵十のことを心配する神さまのしわざだ。神さまにお礼したほうがよい」と兵十に助言する。それを聞いたゴンは「つまらない。神さまにお礼が行くのでは、引き合いに合わない」と思った。それでもゴンは栗を持って行く。

その姿を見た兵十は盗人ごん狐がいたずらしに来たと思い銃で撃つ

ごんに近寄った兵十はごんか栗を持っていることに気がつき、ごんに「お前が栗を持ってきてくれていたのか」と尋ねる。ごんはうなずく。兵十は銃を落とす。銃口からはまだ青い煙が出ている。

プルートーのわな』の要約。

倉の二階に、オルフォイスとオイリディケというねずみの夫婦が住んでいた。オルフォイスは偉大だった。他のねずみ達はオルフォイスに「王様になってくれ」と頼んだ。オルフォイスは拒否した。その代り「君主ではない元首を持っている政体」(共和国)を薦めた。採用された。オルフォイスが初代元首(大統領)に選ばれた。倉内は繁栄した。倉外には猫たちがうようよしていた。ある日、倉の持ち主の人間が倉に入ってきて、倉の戸を半分開けっ放しにして出て行ってしまった。倉の中にプルートーという名の残忍で名高い老猫が入ってきた。他のねずみ達は怯えた。

プルートーに鈴をつけさせよう。誰が行くのか」と議論した。「それは無理だ」とオルフォイスは説いた。しかし誰もきく耳を持たなかった。説得をあきらめたオルフォイスは「交渉の余地がないわけではない、それが皆の総意ならばやってみよう」と壁越しに交渉に挑んだ。首に鈴をつけるという取引に成功した。オルフォイスが鈴をつけに行こうとすると、万が一のことがあってはと他のねずみ達がとめた。オイリディケがプルートーのもとへ向かうことを志願した。いくら待ってもオイリディケは帰ってこなかった。オルフォイスもプルートーのもとへ行った。オルフォイス「オイリディケを返してくれ。どこにいる」プルートー「いるところにいる。おれが知っている」。プルートーは、倉の二階に帰るまで後ろを振り向かなければ、後ろからオイリディケをついていかせる、振り向いたら殺すと条件を出した。オルフォイスは振り向かずに二階へと進み始めた。

途中で後ろにオイリディケがついてきていない、だまされたと気がつき振り向くやいなやオルフォイスはプルートーに殺された

プルートーは「おれが悪いんじゃない。約束を破ったオルフォイスが悪いのさ」といい、二階を見上げ、水を飲みに外に出て行った。

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この二つの小説、内容や展開が似ている。解決すべき問題が否応なしに起きてしまう。問題の解決が試みられる。解決しそうな瞬間、「殺行為」(要約傍線部)が起きる。「悲劇」感を醸し出すように終わる。というように似ている。

なぜその終わりに「悲劇」を感じるのか。兵十もプルートーも無自覚的か自覚的かはともかくルールを守ることを最優先することで「殺行為」がなされる。当然だが、当事者たちは何のためらいもなくまさに当たり前にその行為をなす。その当たり前さには問題を解決しようとしている者の善良な心が隠されている。手遅れになってからその心に気がつく。こうした理屈からだろうか。

 

こうしたことが『ごんぎつね』と『プルートーのわな』では裏腹的に描かれている。

 

「統合失調は先駆的に物事を憂う。狩猟生活と馴染む」「うつは後の祭り的に物事を憂う。農耕生活と馴染む」というようなことを木村敏さん、中井久夫さんがどこかで書いておられた。

 

この二つの小説はどちらかというと「後の祭り的」な終わり方をしている。当時の作家は「うつ的な者」が多かったのだろうか。ごんやオルフォイスが「善良な心」でありつつも「悲劇」に終わらないためには、問題解決の手段を講じた直後(あるいはうなぎや猫を見た段階で)、すぐさま統合失調親和者的にこのままではまずいことが起きるかもしれないと憂い、もう一つの手立てを講じることができていたら、小説は違った内容で、その価値を損なわず書かれうるかもしれない。