「自分」の存在様態をかえる

例えば。「自分と自分に親和する誰かには親和性がある。違いはそれぞれのらしさ。親和性はあの第三者(達)にも見出せる。この、基本三者の関係を調節する管理者がいる。管理者の相談にのる管理者がいる。管理者の始祖がいる。この〈基本六者の関係を調節する管理者〉、〈その管理者の相談にのる管理者〉、〈管理者の始祖〉。その他としての【別人】がいる。ここでの登場人物は基本十人。関係づいている。しかし例えば前三者と後三者は別々に、前三者でも自分と自分に親和する誰かは一緒にあの第三者は別に、後三者はそれぞれ別に住んでいるというように、個々がありつつ、全体としてはつながっているが、切れているところもあるようにしてつながって生きている。」とする。

すると例えば自分が傷つくと、その影響は残りの者にも及ぶことになる。そしてそれぞれ連係プレーをするようにして動き、全体的再生へといたるということもあるかもしれない。その時、自分も回復している。

こうした役割は例えば入れかわる場合もあるし、例えば十人の内の数人が別の十人と同じように連携していたりする場合もある。他の場合もとてもある。つまり極めて複雑で重層している。

現代的な自分の存在様態は、あるひとつの名詞(名前)を与えられたこのただひとりとしている。しかし自分の存在様態を、示したように複数で存在しているとすることもできる。それは伝統的には、家族、親族、職人集団、芸能集団などとしてありえていたかもしれない。しかし必ずしもそうでなくてもありえる。むしろ家族等であっても現代的な自分の集まりとしてそれらをとらえていたら、複数で存在している自分を生きられなくなる。