「ある」からありえる別の可能性を損なわない科学の仕方について

同じ現象を経験しても、ない人にはないのだが、ある人にはありえてしまうようにしてその現象の内容についての問いが発生する。ないかあるかは、身体を熟させているか否かと、熟させているとしたらその現象を経験している時、その熟さを一旦解除できているかどうかにかかっているだろう。もっとも「熟させている」などといわずとも身体は「そもそも熟している」。進化論的に喩えれば身体には(例えば)自身が原始スープだった頃の宇宙のきらめきの記憶が保たれているように常にすでにすでに熟している。ただし生れ落ちた時代の文化に深く囚われているとそれはわかりにくい。わりにくいが囚われるなとも言い難い。むしろ囚われることが好ましいのかもしれない。その文化は、是非はともかく、先人から「あなたたちは幸せに生きてね」と祈られるようにして贈られたプレゼントによってありえていると私には思えるからです。例えば現代の文化は飢え死にで何万人も死ぬような文化ではないですよね。そのようにです。
ここで私が「問い」だと思うことは、問いがありえる場合の、問いの解決の仕方についてです。
問いに、極めて妥当な答を与える仕方のある学は、ひとつに科学です。ここでその仕方は、問いに対して仮の答えを立て、その仮の答えの正しさを証明する実験を構築し、実験がうまく行けば、仮の答えの正しさが証明され、仮の答えは答になり、その答を生かすようにして文化がかわる、という仕方で考えています。
しかし・・・と私は思ってしまうのです。この仕方においてふたつ気にかかることがあります。ひとつはこの仕方だと、問いからうまれる別の答えの可能性を奪ってしまうということです。どういうことか。例えば「鉛筆」は確かに書くための道具ですが鉛筆はときに人を傷つける道具にもなります。他の用地ならば用途もありえるかもしれません。この例の鉛筆に問いを相当させて考えると、問いの答えは一つではない可能性が問いにはあり続けているでしょう。たとえ妥当でも「これが答えだ!」としてしまうだけでは、その可能性を塞いでしまいます。塞ぎたくないと私は思っています。
もう一つ気がかりなことは、科学はその答えを生かすようにして文化をかえますが、その科学の態度は、宗教が神話を生かすようにして文化をかえていく宗教の態度と区別がつかないということです。時に科学は宗教を最も嫌うはずですが、なぜ同じ態度を?、という事が気がかりです。
私は、問いであれ、答えであれ、「ある」からありえる別の可能性を封じることなく、問いには答えを与え、答えは文化をかえていくというという仕方の、科学を考えているのです。