「見えているwriter’s dying words」あるいは「見えていないwriter’s dying words」から始めよう?

デカルトの〈我思う故に我あり〉は、そう言い切っている自分も含めて表現するならば「〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり」となる。さて自分自分ひとりで自分だろうか。自分自分させている他者自分にはいるのではないか。いるとすれば「〈〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり思う故に我あり」となる。他者は幾人いるだろうか。無限。少なくても自分だけは含めたい、言葉に乗っ取られたくないとすれば、〈我思う故に我あり〉は「〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり」で完結する。ただしその最後の「我あり」の後には表記されていないがありえているものがありえている。(私は見えないと忘れがちなので)それを☆と記せば「〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり☆」となります。この星の如く存在は、数人の他者あるいは無限の他者の後にもありえています。それぞれ違います。働きは同じです。それにはそこから何かが始まる可能性がありえています(ゆえに最後は例えば数字に親和性があるともいえます)。

 

さて文章には作者がいます。しかしその文章の読者にはその作者は時にうっとうしい。なぜか。作品を読むという行為はまずは個人の取り組みだからです。作品に何か見つけたらそれを自分だけではなく他者にもわかるように表現します。それまでは作者には死んだようにして黙っていてもらいたいのです。「読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない」というバルトも私と似たようなことを考えていたかもしれません。

 

ここで作者=自分とすれば自分が単体で存在しているとすればその作品は「〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり☆」の如くで完結します(とすれば「作者なき作品という作品」も考えられます。作者=言葉の場合です)。作者=自分とその他者、であれば「〈〈我思う故に我あり〉と思う故に我あり〉と思う故に我あり☆彡」の如く作品で完結します。

 

先ほど、そのどの場合も、最後の「我あり」の後には「表記されていないがありえているものがありえている」として、それを「☆」や「☆彡」で記しました。作品を書いている者が作者だとしたら、その記は「作者の死体」でしょうか。違います。「作者の死体」をいうのであればそれは最後から2番目(記の一つ手前)です。それは通常、「作者の死体」ではなく「作者のサイン」と呼ばれるでしょう。「☆」や「☆彡」といった記は「作者のサイン」の後にありえています。強いていえば「writer’s dying words(辞世の言葉)」です。

とすると、バルトのいうように「読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない」としても、そういうよりも「読者の誕生は作者の半ば死によって贖われなければならない」といいたくなります。その意図するところは、作者は死んでも「writer’s dying words」としては生きているからです。

 

「writer’s dying words」を記した場合、その「writer’s dying words」は呪術性をともなっていそうです。それにはその人のすべてがありえているにもかかわらず、その人はそこから離脱しているにもかかわらず、その人のすべはそこにありえているからです。例えばだからそれを例えば踏むと(かつて作者だった)者が生きていればどこかで「ギャー」とかわめいているかもしれません。死んでいれば自然の音が激しく聴こえるかもしれません。できればそこには踏み込まず問うようにして、詩人の如く態度でそこに語られなかったことを他者にもわかるように表現した方がよいのでしょうが、どうしても踏むというのであれば愛撫するようにお願いしますといったところでしょうか。他方、それが記されていなくてもつまり見えていなくてもそれはありえていますから、見えていなくても見えている時と同じ態度でそれに挑んだ方が怖い思いをしなくてすむかもしれません。ただ、見えていないと文章の残響、残り香、残温もりといったものに触れなおすあるいは問うということですから、それはとかく視覚に頼っていると困難だともいえます。

 

よほどの天才でない限り、いきなり作者ということはありえないです。基本的には後の世の作者もまずは読者から始めます。この意味で小説の普遍的スタイルなどと呼べそうなものがあるとしたら、冒頭、「見えているwriter’s dying words」あるいは「見えていないwriter’s dying words」から始める、といったものになるかもしれません。