「手のこんだ暴力戦術」について

以下、「ルワンダ虐殺」についてのウィキからの抜粋です。

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ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。(略)。時には犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された。(略)。ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ、(略)、母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた。妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら、こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた。」

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この抜粋での「犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された」、「ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ」、「母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた」、「妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ、夫は「ほら、こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた」という殺し方には共通性が伺えます。〈殺す者はその圧倒的な力で、これから殺す予定の存在が幸せにならば幸せに生きているそのシステムを逆手にとった仕打ちをすることで「自分」を見失わせ、右に左にふって、最後は結局、殺す〉という仕方です。

こうした殺し方は、昔から今まで手法として確立しているようです。例えばグリム童話の暴力について論じたカールハインツマレはその著『首をはねろ!』のなかで「ネコ」というメルヘンについ「ネコは、自分のパートナーを文句一つ言えないような骨抜きに仕立て上げ、堕落させ、とうとうパートナーから生きる意志まで取り上げる」とか、「老婆」というメルヘンについて「そうすることによって彼女は、ほとんど抵抗しがたい挑発的な状況をつくり、彼女の犠牲者に一定の行為を強要する。それは犠牲者の善意を利用する心理的暴力である」などと「手のこんだ暴力戦術」という項で、その種のメルヘンの特徴をまとめていますが、そのようにです。最近では例えば映画『グロテスク』にもその手法が生かされているようです。要約は以下です(ウィキから抜粋。一部変更)

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会社員の和男とアキは初デート中に突如何者かに襲われた。気がつくとどこかの地下室に監禁されていた。二人の前に謎の男が現れた。「ふたりの愛に感動できれば解放する」と言われ様々な拷問がなされた。 途中、誘拐犯から一旦治療を受け、解放すると言われたが、それは嘘だった。また拷問され最後は殺された。誘拐犯により立てられた簡単な二人の墓の隣にはたくさんの墓があり、他にも被害者がいることが暗に示された。そして誘拐犯がまた別の被害者を狙うであろう予感を残して終わる。

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この映画にもルワンダの虐殺の仕方やある種のメルヘンの暴力の仕方が伺えます。こうした殺し方からすると、同じ虐殺でも例えば「尼港事件」での虐殺が、それほど残忍に見えなくなる気が私はします。例えばこうです。

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「3月13日の夜の間に、12日の午前中に監禁された日本人の女性と子供が、アムール河岸に連れて行かれ、残酷に殺された。彼らの死体は、雪の穴の中に投げ込まれた。3歳までの特に幼い子供は、生きたまま穴に投げ込まれた。野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。まだ生きたまま、母親の死体の側で、雪で覆われた。死にきれていない婦人のうめき声や小さなか弱い体を雪で覆われた子供の悲鳴や泣き叫ぶ声が、地表を這い続けた。そして、突き出された小さな手や足が、人間の凶暴性と残酷性を示す気味悪い光景を与えていた」『ニコラエフスクの破壊』

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ここでの著者が「野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。」と指摘していますが、この点が虐殺の残忍さを下げているように私は思います(「野獣化したパルチザン」のにっちもさっちもいかない苦しみが感じられる)。

 

マレはこうした残忍性の高い殺しの状況から脱出の方策として「わたしたちは自分で自分を放棄してはいけないということ、また必要とあらば、他人がどう考えようとおかまいなく拒絶しなければならない」としています。禅には「もしおまえがこの棒を実在すると言えば、私はおまえをこの棒で打ちすえる。またもし、この棒が実在しないとおまえが言えば、やはり私はおまえをこの棒で打つ。さらに、もしおまえがそのどちらとも答えなければ、それでもこの棒でおまえを打ちすえる。」という問答がある様です。答えは「弟子は手を伸ばしてその棒を師の手から奪いとってジレンマ状況から自己を解き放つ」というもののようですが、残忍性が高い殺しの状況からのマレの脱出の方法と似ています。こうした残虐さは、マレによれば、ギリシャ神話、ゲルマン神話、聖書、新約聖書など太古の昔からあるということですが、それがあることは洋の東西を問わないのかもしれないです。

が、どちらにしても圧倒的な暴力の前では「自分」や「自己」などは無力です。確かに例えばアウシュビッツの収容所の絶望の中でも幸せがあるときはあるし、それに救われてということもあるのかもしれないですが、別の生の相では圧倒的な暴力状況におちいったら無力だとも思います。するとそういう状況に陥らないにはということが論点になります。が、これ以上は話せません。あるにはあるが。というのも、話したら最後、私を殺したがっている者にその手立てが逆手にとられることで私は無力化され、右に左に振られて、最後は結局、殺されるからです(しかしというのも逆手にとられてしまうのでしょうか・・・)。