教育とオープンダイアローグについて

当事者研究全国交流集会 /べてるまつり ー「オープンダイアローグ」リーッカさん、ヘレナさんを交えて

7月28日(金)、当事者研究全国交流集会が浦河町総合文化会館で行われ、フィンランドから心理士のリーッカさんと経験専門家のヘレナさんを交えて、オープンダイアローグについての講演会とシンポジウムが行われました。

リーッカさん(写真左)は、外来で未成年を対象とした心理士をしており、ヘレナさん(写真右)はうつ病の当事者としてオーブンダイアローグを通じて治療を受け、現在は経験専門家として活動しています。

写真中央は今回通訳をしてくれたムーミン研究家でもある森下さんです。

今回は、講演の内容のダイジェストを簡単にお送りします。

 

フィンランドから北海道に1日半かけて来ましたが、まるで自分の家に帰ってきたかのようです。

フィンランドは日本よりも人口密度が低い。だから可能なこともある。
西ラップランドは6つの医療地区で構成されている。人口62000人

ケロプダス病院、成人向けクリニック、未成年向けクリニック、児童向けクリニックがあり、100人の医療スタッフがいる。

年間19000回の外来の訪問がある。
平均一人あたり1回1時間くらい、年間9日くらい(全国平均34日)。
西ラップランドが医療利用日数が短い理由は、オープンダイアローグを行っているからです。

オープンダイアローグで大事なことは以下のようなことです。

・すぐに助けを得られるようにする。24時間以内。

・家族や親しい人たちの協力を得る。

・必要に応じて。need adapted.

・当事者のいないところで当事者に関する話を進めない。

・クライアント自身が自分自身の専門家であれ。
Basic assumption to begin with is that the client is the expert when it comes to his/her life.

 

オープンダイアローグの視点で大事なこと。

問題は人との関係性のなかになにかあるのではないか。
関係性には、問題以外にもいい時間、いい瞬間もある。

経験専門家−どういうことが起きているか、いろいろなことがもっと素直にでてくる、治療の計画をクライアントと一緒に立てていく。素直さには、勇気がいる。

問題は力を持っている、可能性も持っている。

必ずチームでアプローチする。
私たちに必要なのは、ひとつの真実ではなく、多様な視点や考え方です。
経験の浅い人=未熟な人ではなく、オープンダイアローグでは、新鮮な視点を持った人として尊重される。

 

今回のテーマは「経験専門家として生きる」でしたが、ヘレナさんは「病気の前の自分に戻りたいとは思わない。あの時の自分はとてもつらかった。病気を通じて私はとても強くなった」と語っていました。

フィンランドでは国民共通の意識として、「みんなを仲間として大切にする」というものがあるそうです。リーッカさんによると、ケロプダスでは患者さんのみを治療して良くするというだけではなく、スタッフを含めて安心して居やすい環境をつくっているということも大切にされているそうです。

 

統合失調症患者は(創造的である反面、極言すれば病的でもある)モノローグに陥りやすく、そこから開放することを目標とする」(ウィキ「オープンダイアローグ」)。独話に陥りやすいのは患者だけじゃないですよね。日々みんな独話。出た頭一つが「自覚せよ」「表現技法を身につけよ」と言っている?

・・・・・・

数年前、教育現場で「子どもの暴言」-例えば級友に対して「死ね」という―が、解決すべき問題になった。例えば教育委員会は小学校向けには「ふわふわ言葉」と「ちくちく言葉」というように言葉を分類して「ちくちく言葉ではなくてふわふわ言葉を使おうね」という方針を掲げ、教育学の教授はその学生に「あると感じていることについて自分だけでなく他者にもわかるように表現しよう」という方針を掲げていた。

 

その方針自体がある者にとっては「ちくちく言葉」であり「他者にもわかるように表現していない」といえることもあるかもしれないが、その問題は一旦おく。

 

さて教育委員会や教育学の教授の方針的には、統合失調症の患者の表現や前衛芸術家の作品は、ある意味、「子どもの暴言」と同列な存在といえる。しかし言葉の定義的には統合失調症の患者や前衛芸術家は、その表現をふわふわ言葉的、他者にもわかるように的にすることが決してできないから、統合失調症の患者や前衛芸術家といえる。

 

そうした者らのうち、相手の意向を理解し相手の意向にそうことができる者は、相手から「ちくちく言葉ではなくてふわふわ言葉を使おうね」、「あると感じていることについて自分だけでなく他者にもわかるように表現しよう」と「指導」されれば、そうできるかもしれない。その時、統合失調症の患者は統合失調症の患者でなくなり、前衛芸術家は前衛芸術家ではなくなるといえる。が、ここには一回や二回できただけでは見かけが整っただけで本当にかわたとはいえない、再度「ちくちく言葉」的表現、「他者にはわからない」的表現をするかもしれない、というしばし「茶髪指導」にみられる問題がありえている。

こうした問題に対しては教員として覚悟を決めて根気よく関わっていくしかないだろうか。その先に「ふわふわ言葉」的な表現、「他者にもわかる」表現が待ち受けているといえる。が、その表現は当然だが既知の表現である。その表現は教員の方針-「子どもの暴言」の問題を何とかしよう―をかえるきっかけにはならない。

 

教員の方針をかえるきっかけになりえる表現は、意外といえば意外、当然といえば当然だが、「ちくちく言葉」的表現、「他者にはわからない」的表現である。そうした表現に触れた教員が、そうした表現について「ふわふわ言葉」的な応答、「他者にもわかる」的な応答をする。その時、教員の方針は変化しているといえる。にもかかわらず「ふわふわ言葉」的な、「他者にもわかる」的な表現の大切にするという方針は損なわれていない。

 

話を戻せばこうして、教育委員会の「ちくちく言葉ではなくてふわふわ言葉を使おうね」という方針、教育学の教授の「あると感じていることについて自分だけでなく他者にもわかるように表現しよう」という方針自体が、ある者にとっては「ちくちく言葉」であり「他者にもわかるように表現していない」ではないかという問題は解決しうる。

 

 

ここでは教員的存在は、統合失調症の患者の表現、前衛芸術家の作品、「子どもの暴言」を前に、ちくちく言葉ではなくてふわふわ言葉的な表現を心がけようという方針、あると感じていることについて自分だけでなく他者にもわかる表現をしようとういう方針のもと、あの手この手で根気づよく関わっていくのみならず、別方でそうした指導を退け、統合失調症の患者の表現、前衛芸術家の作品、「子どもの暴言」を読むような態度でそれらに挑み、ちくちく言葉ではなくてふわふわ言葉的な応答、あると感じていることについて自分だけでなく他者にもわかる表現の仕方で応答するという二つの関わりがありえている。

これは整合性を求めるのであれば同時には成立しない。同時には成立しないができないわけではない(整合性がないという整合性はありえる)。

 

「それでもどちらかに」というのであれば、問われることは「自分が何としてでも死守しようとしているその既知の表現は、とかくあらゆる既知の表現がパラパラと裏返り、表返りしていくなか、そのままで何億年も維持できるか」ということです。しかし例えば何十億年も劣化しないという物質を持ち出してもダメですね。容易にひっくり返されますよ。だが、その物質がいけないというわけではないです。容易につぶれる砂粒一つでも何百億年もそのまま維持できるということもあります。ともあれ、維持できるというのであれば、教員的存在は、統合失調症の患者の表現、前衛芸術家の作品、「子どもの暴言」を前に、ちくちく言葉ではなくてふわふわ言葉的な表現を心がけようという方針、あると感じていることについて自分だけでなく他者にもわかる表現をしようとういう方針のもと、あの手この手で根気づよく関わっていってしまうでしょう。

 

なければ「そのまま何億年も維持できる既知の表現」に触れるまでは、教員的存在は、統合失調症の患者の表現、前衛芸術家の作品、「子どもの暴言」を前に、それを読むような態度で挑み、ちくちく言葉ではなくてふわふわ言葉的な表現で応答する、あると感じていることについて自分だけでなく他者にもわかる表現で応答するという関わりをしていくしかないでしょうね。この関わりでも、もうひとつの関りと同じ結果にはいたるかもしれない。

 

どちらの関わり方からしてもオープンダイアローグのひとつの胆は「次はいつ」というように次の対話日を決めてコツコツしばらく対話を繰り返すことにあると私は思います。