自己啓発的営みと外傷性記憶の治療との違いはなぜ発生するのか

「講師が非日常的な研修空間を用意し、そこに受講者を招き、講師が指導ではなく聞く態度をとることで、ある受講者に普段は意識していないその受講者の弱さを語って頂き、それについて時に講師も含めた受講者全員でその弱さを無くすことを目指した助言を与えることで弱さを無くし、その弱さを語った受講者の生き様を一変しようとする営み」は、学校の研究授業、企業の新人あるいは管理職研修、ある種の宗教の場などで行われています。このいうなれば「自己啓発的営み」は、例えばトラウマの治療の方法と紙一重です。次の言葉は精神科医中井久夫さんのトラウマ(外傷性記憶)の治療方針です。

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私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の感覚が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快なエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際につげることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―一つの方針」)

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自己啓発的営みは中井さんのいう外傷性記憶の治療方針の②の「記憶を機械的に消去する方法」を採用しています。自己啓発的営みは弱さを無くそうとしますよね。しかし自己啓発的営みが「ファシズム」だとまでは言い難いという思いがそうした営みに参加する多くのものの感想ではないでしょうか。が、「ちょっと痛みを我慢すれば後は天国だよ」という時のその「ちょっとの痛み」を事ある毎に受けている気が私はします。以前、「プチ~」が流行ったことがありましたが-「プチナショナリズム」など-、それに倣えば「プチファシズム」に加担しているように見えます。

ちなみに、この「ちょっと痛みを我慢すれば後は天国だよ」という言葉-例えば子どもが注射を受ける際のお医者さんの言葉―は聞こえは優しいですが、結構、怖いですよね。口の中に銃を斜め上に突っ込まれて「ちょっと痛みを我慢すれば後は天国だよ」といわれるようなものですから。

自己啓発的営みと外傷性記憶の治療は似ていますが、その一番の違いは(営みの語彙でいえば)「弱さ」を無くす-冒頭で挙げた営みが目指していること-か、同じく弱さに着目しつつもその弱さを無くすのではなく弱さはそのままでしかしその弱さを語った受講者の生き様を変えようとする-外傷性記憶の治療が目指していること-かどうかといえるでしょうか。

鷲田清一さんはその著『〈ひと〉の現象学』の冒頭で次の様に記述しています。

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ヘーゲルのいう「意識がなす経験」の「道」については、わたしとしては、未決のものを否応もなく遺しながら、そしていくつかの局面でリヴァーシブルな反転をくり返しつつ、ひたすら認識の初期設定を、あるいは生のフォーマットを換えていくプロセスとしてとらえなおしたい。(鷲田清一『〈ひと〉の現象学』)

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ここに「未決のものを否応もなく遺しながら」とありますが、自己啓発的営みではそれをもじれば「未決のものを否応なく取り除きながら」とでも言い換えることができそうです。外傷性記憶の治療ではその方針において「症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えない」と述べていますから「未決のものを否応もなく遺しながら」と同じ態度といえば態度です。

 

自己啓発的営みと外傷性記憶の治療は同じところを目指しているように私には見えるのですが、なぜ「未決のものを否応なく取り除きながら」と「未決のものを否応もなく遺しながら」という違いが発生するのでしょう。例えば「地球は取り除けるよね。でも宇宙は取り除けないよね」というような違い、つまり「取り除き」の徹底さが不十分だと「自己啓発的営み」にとどまり、十分に徹底するとある諦念に導かれるように「外傷性記憶の治療」へと移行するのでしょうか。

 

自殺者を出した自己啓発的営みの講師は、まだまだ死なれ足りないか、それとも翻る旗のもと「外傷性記憶の治療」を受けているのか。