(メモ)

以下、今朝の朝日新聞、折々の言葉(鷲田清一)から。。

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かなふはよし、かないたがるはあしゝ

 (千利休

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 客と亭主は茶会にどのような心持ちで臨めばよいかと問われ、利休はこう答えたという。茶の湯の心に通じた者同士ならよいが、未熟な人たちが向きあう場合、互いに心をうかがい迎合しようとするので、ともに道を間違うと。相手の心に叶(かな)おうとするのは諂(へつら)いにほかならず、この「無理」が趣向をつくりものにする。茶道研究家・筒井紘一の『利休聞き書き「南方録 覚書」』から。

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以下、名越先生のツイッターから。

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名越康文‏ @nakoshiyasufumi
皆、自分との戦い方が解らない。だからもっともらしい名分を作って、外側の世界で何かにぶち当たって平衡を保つ。内側の集注の楽しみを知らない。

 

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「ともに道を間違わない」でおこうとしたら「内側の集中の楽しみ」を知ろうした方がいいのかもしれない。退職後、妻が強くみえる理由は夫よりも先この「内側の集中の楽しみ」を身に着けているからだろうか。「内側の集中の楽しみ」を知ることを支える環境が「自己啓発的営み」ではなく「トラウマの治療法」的な環境といえるか。

(私は「日々、自分を探して宇宙の果てまで行くような営みを行っている者たちの組織」には入りたくない)