小中学校の九年、夫婦生活の四十五年

「ある」がある。それは生成・変化(へんか・せいせい)した結果であればなんでもよい。しかしそれはそのままでは「ある」を意識している者の生を脅かす(通常とは「ある」を意識していない時のことです)。その「ある」に「自分の物差し」を過不足なく添えて、その接面の感触は何であるか問い、何であると答えを出す。その際、「ある」を「何である」とした「自分の物差し」があった。「自分の物差し」は単体で存在していない。「自分の物差し」を「自分の物差し」にさせている「何かしら」がある。「ある」を「何である」としたその「何である」に「何かしら」を過不足なく添えてその接面が何であるかを問い「何であるはこういうことである」というところまで答えを出す。

「ある」-「自分の物差し」-「(あると自分の物差しの接面)」-「何である」-「何かしら」-「(何であると何かしらの接面)」-「何であるはこういうことである」という連鎖になる。この連鎖における「自分の物差し」と「何かしら」には、例えば「ある」を「何である」と認識するための観点(←「自分の物差し」に相当)、そうして何であると認識した「ある」を生の中の何に生かすための工夫(←「何かしら」)に相当、というように二つの何かが別々にしかし同時にありえる。

これは難しいことではなく具体的には例えば宮崎駿風立ちぬ』で二郎が昼食中、喉に魚の小骨が引っかかるが、引っかかった小骨を取り出し、それを設計中の飛行機の構造のヒントに結び付けるというシーンがありますが、そのような過程を通過して「ある」がありえてしまうことによって訪れる生の危機から再生へと向かう生の試みです。

しかしこの連鎖の後半はとかくしがたいです。なぜか。「ある」が生に危機的な状況をもたらすからです。だからか、ありえてしまう「ある」を「自分の物差し」から何とかするだけでホッとしてしまい終わるのです。ホッとした後があるのですが、それはたとえ通常は好ましいことであっても、そのホッとさに居着いてしまうようにして、なされません。魚を食べていて喉に小骨が引っかかってしまい取り出すことはたまにあることだとしても、取り出した小骨を二郎のように生に生かそうとすることまではなされないのです。しかし二郎のように生かせば、喉に刺さりとりだしただけの小骨が迷惑物という以外の意味合いも生において持ち始めます。

 

「ある」はありえてしまいます。他者からの自分の生を脅かされるようにしてありえてしまいます。例えば小中学校のように多様に様々な児童生徒がいるクラスでは「ある」がありえることが多いでしょう。青春時代のクラスはムンムンしていましたよね。対して高校から会社というように多様に様々というよりもある同一さのもとに人が集っている組織では「ある」はありにくいと想像できます。高校や会社は児童生徒時代のクラスのムンムンさに比べれば爽やかですよね。そのように小中学校では「ある」が多いとしても、小中学校では様々な科目で「あるについて自分のみならず他者にもわかるように表現することができるようになろう」と日々、児童生徒は勉強しています。だから「ある」が高校や会社に比べてありえてしまうとしても「ある」へと適切に挑める者は適切に挑めます。

挑めない者はとかく危機を回避するだけです。それだけでは当然ですが、まだ生には戻っていません。危機のため死んでしまうということはないにしても、いつものようには生きられていない。しかし「ある」がありえてしまう度に適切に扱うことができれば、「ある」への認識は深まり、その生はどんどんと豊かになっていきます。二郎の例で続ければ、飛行機開発に成功した晩年の次郎が当時を振り返り「喉に刺さった小骨の形をヒントに飛行機開発したんですよ」などという思い出話のひとつもできるかもしれないです。対して「三十年前、のどに刺さった小骨を取り出したんです」では、当たり前すぎてか、思い出にも残らないでしょう。

 

小中学校の九年の思い出の方が、その後四十五年近い夫婦生活の思い出よりも濃密な理由はここにあると自分は思います。とすれば四十五年近い夫婦生活も十分に濃密な思い出を残すことができるかもしれないです。それにはまずは相手方にピタリと添ってみることですね。