〈ぼんやり〉からの脱却

例えば机の上に鉛筆がある。鉛筆を机の上からどかせば机の上に鉛筆は無い。もともと机の上に鉛筆が無ければ「机の上に鉛筆が無い」とはいわない。が、確かに鉛筆は無い。この時、無いものは鉛筆に限らないが、鉛筆が無いことも含まれている。含まれているが、もともと鉛筆があった時の無いと同じでもあるが違う。

「無もない」という無いもある。それは鉛筆そのものとして生きている時-つまり鉛筆使用時。鉛筆を使用している以外は何もない時―のことか、あるいはすべてが出そろってある時のことです。鉛筆使用時以外のすべての時にはその傍らに人がいます。

 

無についてのこの分類が妥当かどうかは無の専門家ではない私には定かでないです。ともあれ仮にこの分類を下敷きにして児童生徒の〈ぼんやり〉化からの脱却の道筋を示してみたいと思います。

 

普通日々、児童生徒は机に座り鉛筆を持ち書き書きしています。

 

児童生徒の〈ぼんやり〉化の第一歩は鉛筆使用時以外の時に出てしまうことです。鉛筆と人(=その児童生徒本人)とに分離してしまうことから始まります。分離しない児童生徒は決してしないのですが、してしまう児童生徒はしてしまうのですよね。意図的に分離しているのならばすぐに鉛筆に戻ることもあるかもしれませんが、そうでないとしたら鉛筆にすぐに戻ることは稀です。鉛筆と人に分離しすぐに鉛筆に戻らないことは机の上から鉛筆をどかして机の上を無にしてしまうようなものです。あくまでも「ようなもの」です。実際には鉛筆はありえています。これは机の上に鉛筆以外の何かがありえる可能性が出てきたということでもあります。例えばカードゲームやお弁当などなどいろいろと出てきますでしょうか。それと飽きるまでとことんまみれることをお勧めします。十二分にまみれたら次を出しましょう。どこまで出てくるかな。頑張ってね。様々なものが次から次へと出てきますね。

 

出切ったでしょうか。

 

ここまでくれば〈ぼんやり〉からの脱却の一歩手前です。見どころは次の瞬間です。次の瞬間その児童生徒が出きったものの何に手を伸ばすかです。一つ一つと十分に戯れ、鉛筆以外すべて出し切っていたら、机の上に鉛筆以外のものがあるとしても、必ず鉛筆に手を伸します。まだ鉛筆とは未決だからですね。

 

机から降りてしまうもありといえばありですがそれはまた別の、です。

 

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こう考えると勉強しない子どもは遊び足りないのかもしれません。勉強ができるようになるには遠回りかもしれませんが納得するまで遊ぶしかないです。しかし再度、勉強に向かった時には受験はもう終わっているかもしれないーつまりタイムアップということ―です。が、その子は確かに勉強は続けていくでしょう。その上、その子の学力は本当に身についています。一生ものです。大多数の日本人が児童生徒学生時代それなりに英語を勉強しているにもかかわらず、大人で英語を十分に扱える人はそれほどいないというようなことにはなりません。