時代の方針に生きつつも、同時に、いつでも現状以前に戻れること、そしてそこからもう一度、生きる準備もする

 怒鳴られなければ静かにできない児童生徒がいる。その児童生徒は怒鳴らない教員の授業では騒がしい。授業にならない。こうした児童生徒は教員の授業の力量に問わずいる。

しかし怒鳴る教員と怒鳴らない教員が覇権争いするようなことはない。「私たちは怒鳴ることをしているか怒鳴らないことをしているという異同の共同体だ」と基調認識している。そして問題は「児童生徒の家畜羊化」だと気がついている。「児童生徒か主体的に勉強に取り組んでくれたら私たちはこんな仕事のための無料感情労働をしなくてもいいのに」と合意する。そうした児童生徒に「なぜ勉強する意味はあるのか?」と問えば「勉強する意味なんてないですよ。勉強するそれ自体のために勉強しているのです。そしてそれ自体も意味にはしていません」と答えるかもしれないと夢想している。

それから教員は児童生徒が主体的に勉強できるようにあれこれしはじめた。

だがそれでもしない(できない)児童生徒がどうしてもいる。「自己責任だ」と切り捨てることなく全員が主体的に取り組めるように尽力した。とうとうある日、すべての児童生徒が主体的に勉強しているようになった。教員の授業の力量は瞬くまに上達していった。千回の研究授業を経験するよりとても短期間で力量がついた。主体的に勉強に取り組んでくれる児童生徒のおかげだ。

仕事も早く終わるようになりいい感じで日々過ごしていると、ある子が「佐々木先生がいる意味は何ですか?」「これなら佐々木先生でなくてもいいですよね」といった。「やはり全体化は不可能か…」とおもいつつ教員は絶句した。確かに児童生徒は主体的に勉強するようになったが、これは児童生徒を羊ではない別種の家畜に家畜化しただけではないのかとの思いが頭をかすめた。しかしすぐに「これ以上は教員が関わることではない」と開き直った。児童生徒は卒業を迎えた。

主体的に勉強している児童生徒が卒業して十年後、ゆとり世代のマスコミが彼らを指して「反ゆとり世代」と呼び始めた。いくぶん皮肉かかって聞こえた。それを見ていた当時よりいくぶん老化した教員は「十年前、主体的に勉強している児童生徒を放り出さずに、後にしかわからないその子らの末の扱われ様に事前に対応できていれば・・・」と後悔した。でも何ができたというのだろう。「テロが起きる前にテロを避けるが如くの能力」を児童生徒につけることなどできるのだろうか。が、そうだとしてもそれだけではやはりまた違う別種の家畜にするだけだろうと思った。時代の方針-例えば「主体的に勉強に取り組む」ならば主体的に勉強に取り組む-に生きつつも、同時に、いつでも現状以前に戻れること、そしてそこからもう一度、生きられる準備もしてあれば、いざという時からも皮肉られるようなことなく生きることができるかもしれない。それには自分のなかの裂け目らしきを塞いではいけない。