「ホイミ」の如くを唱える

「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「ある環境に依って生きている自分」』に於いて「確かにあると感じている存在」(=「ある環境」)がありえると、同時に「そのひとらしさ」も誕生する。それがある以前は「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「ある環境に依って生きている自分」』として生きていた。

なぜありえたか。「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』の手に負えなかったから。これは手に負えなくなった理由は二方向から考えられるということです。「確かにあると感じている存在」はその生にとって障害存在といえます。ただし取り込むことも排除することもできないです。取り込もうとしたら毒を取り込むようなものでありますし、排除したらこの先、再度、生きようとした場合、根底的に生きられなくなります。

再度、生きようとするのならばあれこれとして生きられなくなった「環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』がかわらないといけない。どのようにかわるか。障害存在はそのままにしてしかしそれが障害存在でなくなるようにするのです。障害存在が障害存在になる前に戻るということです。難しいことではないです。例えば字がぼやけて見えなくなったらメガネをかければいいというようなことです。しかしそれだけでは不十分でそうして障害存在を障害存在でなくした道具ならば道具が「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにもしなければなりません。

ともするとここで再度、生きている気がするが間違いですね。ここまでして初めて再度、生きられる準備が整ったのです。というのも「確かにあると感じられる存在」がありえた理由はそれまでの「環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』に手に負えないというようにして現れており、手に負えるようにするには「環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』に生きていた自分が今までにはない生をあらしめるようにしてかわらなければならないからです。それはしかし極めて「そのひとらしさ」事です。

そうして「環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」』に生きていた自分がかわると「確かにあると感じている存在」も違って(かわって)ありえます。初めて「確かにあると感じている存在」がありえた時の「環境に依って生きている自分」=「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「環境に依って生きている自分」に生きていた自分とは違っているのですから。するとかわった自分が障害存在(=現在、障害存在ではない存在)に発見してしまうことがあります。必ずあります。その発見したことにかわった自分としてはどう関わるか。そしてなぜその関りなのかを「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにする。ここまでして再度、「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「ある環境に依って生きている自分」』として生きています。

私は幾度かこうしたいうなれば「死と再生の如くの道筋」について書いています(呼び名もその都度かわっている気がします)。なぜなのでしょう。どうやらなんかあった時の後に書く傾向がありますね。じゃあ、この道筋に沿って具体的に書けよとも我ながら思うのですが、ちょっと違う。いや、書いてもいいのですが、それとは別にこうした道筋をことある毎に書く理由はいうなれば回復の呪文を唱えるようなものです(ドラクエでいうところの「ホイミ」ですね)。回復へと向けて呪文を唱えるのですが、いつも同じではないです。ちょっと違ったり同じだったりする。同じものを書きたいのですがブレる。このブレは私は書くことが苦手ということがあるかもはれないです(数学だとブレの予感は少ない気がしている)。

 

あるいはわざわざ書かなくても身体はこうした道筋を常にすでに生きている気がします。こうした道筋を身体的にできる人は体調が崩れてもすぐに未知の回復へと戻ることができるかもしれません。私は脳で生きているようです。何かの拍子に脳の調子が崩れるのでしょう。そしてこうして書いて未知の回復へと戻っているようです。

 

このような道筋、教育にとってはとても大切ですよ。このような道筋を通らない教育はいくら努力しても身につき難いでしょうね。その場ではできても、しばらくしてもう一度しても、できなくなっている。そしてまた…ということを繰り返しそうです。ただそもそも言われなくても常にすでにしているかもしれませんので道筋を筋よく整えていく(増幅する手立てを講じる)ということはありだと私は思います。

ただしこの道筋に進むには基本的には先ほどの‘「ある環境に依って生きている自分」=『「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」にもわかるようにした「ある環境に依って生きている自分」』に於いて「確かにあると感じている存在」(=「ある環境」)がありえると、同時に「そのひとらしさ」も誕生する’、という個所の「確かにあると感じている存在」がありえないと始まりません。ありえるときはありえてしまうしありえないときはありえないままです。それでは教育が始まりません。だから逆手に取って…ということも教育の手法として想定できるのですが、そこまでしていいものかどうか迷います。例えばともすると精神病になるかもしれない種の芽を出させるようなものですから。けどこの一点はというところではありでしょうね。

 

もっと難しい事はいわゆる「自分」はいても「環境」や「自分を自分いたらしめている自分以外の存在」がいない人もいるようです(いわゆる「サイコパス」とでもいうのでしょうか)。

閉じた言葉体系で生きていそうです。言葉が通じるからといって関わると二度と出ることができない森の如くに入り込むことになりそうです。