「守る」ということについて

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自分の子供が幼かった頃のクリスマスの朝。朝起きて枕元に置いているサンタさんからのプレゼントを見つけて喜んでいる子供の顔を覚えているかな(ちなみに私には子供はいない)。その子供が学校で友達に「サンタさんからプレゼントもらったよ」とニコニコ話したら、「サンタなんていないよ」(啓蒙さん)とか「お前、頭の中、お花畑だな」(ネトウヨさん)とか「私、親いないんだよね」(物語さん)とかに、そういわれてしまうかもしれない。そしてそういわれた子供は、テレビ「お宝探偵団」で自分の宝がすごく価値のあるものだと真剣に思っていたが、鑑定を受けたら500円といわれて、人生を丸ごと否定されたかのようなご老人と同様な思いをするかもしれない。

親でも誰でもいいのですが、そうした子供たからか、サンタさんからプレゼントもらって喜んでいる子どもの生を、守れるかどうか。そうした子供の生に於いてこそその子はその子らしさを失わず育っていく。その子供の生の様な生に於いてしか死ねない。

守る際は、当然、何気なく。その何気なさも何気なく。でないと、今度はそう守ろうとする人がいろいろと投げつけられるかもしれないし、守られるだけではその子は、その子らしさを失う。(だとしても、というところもあるので心配しなくてもいいのですが)。

それには、全員とはいわないですが、ある程度の人々が例えば「僕が君に見せてあげたもの、あれはみんな本当なんだ。神もなければ、宇宙もない。人類もなければ、この地上の生活もない。天国もない。地獄もない。みんな夢―それも奇怪きわまる馬鹿げた夢ばかりなんだ。存在するのはただ君ひとりだけ。しかも、その君というのが、ただ一片の思惟、そして、これまた根なし草のようなはかない思惟、空しい永遠の中をただひとり永劫にさまよい歩く流浪の思惟にすぎないんだよ」(マークトゥエイン『不思議な少年』)という様な境地に一度は達しないと、いけないのでしょうね。

写真は「美園遺跡出土 家形埴輪」ですが、この「家形埴輪」は、ここでの守りのあり様が実際に形になっているような気が私はします。