フッサールの「幾何学」を図示する試み、について

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                                                              写真1

 

フッサールの「幾何学」を図示する試み』のその図の書きなおしが書けたのでアップします(写真1)。前回との違いは、今回は「存在」に関する部分の以前と以後の部分を、長方形の後に平行四辺形を、記すことになった点です(写真2、3)。

 

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       写真2                  写真3

 

この「幾何学」は、以下に引用するフッサールとメルロポンティの言葉に共通するような意識がなす経験の道を幾何学を用いて図示しています。

 

フッサールはこう述べています。「出発点は必然的に、そのつど直進的に与えられた対象だが、反省は、そこからそのつどの意識の仕方へと遡り、さらに、このうちに地平的に含まれた潜在的な意識の仕方へ、それから対象が可能的な意識の生の統一において同一のものとして意識されることができるような意識の仕方へと遡る。」

フッサールデカルト省察』)

 

メルロポンティはこう述べています。「それゆえ、つぎのように言えば言えるだろう―構成された三つの角の総和を二つの相異なる布置のなかに入れ、これをかわるがわる三角形の角の総和に等しいものとも二直角に等しいものとも見ること、そこに証明ということが成り立つ、と。だがそれにはつぎのように付言しなければならない-そこでわれわれの手にいれるものは、相継起してたがいに追い合う二つの形状(夢想にふける子供のデッサンにおけるような)ではなく、第一の形状は第二の形状が形成されているあいだも私にとって存続していて、二直角に等しいと私がした角の和は、他方で当の三角形の角の総和と等しいと私がしたものとそのまま同一である、と。しかも、このことが可能となるためには、ぜひとも私は現象または現出の次元をのり越えて、エイドス(形相)または存在の次元にゆきつかねばならない、と。とすれば、能動的思惟のなかで絶対的な自己所有がおこるのでなければ、真理は不可能のようにみえるわけで、さもなければ能動的思惟は、相継起する一連の作業のなかで自己を展開することも、また永久に妥当性をもつひとつの結果を構成することも、ともにできないことになるであろ。」(メルロポンティ『知覚の現象学』)

 

この「幾何学」はⅢ列17行から成立しています。立体的なイメージは、垂直、水平、斜め方向、三つの方向へと向けてなされる螺旋形がひとつの螺旋形としてあり、その螺旋の線の傍らにⅠ列に関して二、Ⅱ列に関して九(←「十」へ訂正です。七月二十日にメモ、七月二十六日に九から十に訂正。bの反省で通し番号⑭の反省がなされた後、その⑭からの反省でひとつ加わります。訂正前はこの二つを同じ一つにみなしていました)、Ⅲ列に関して二の合計十三(←したがってここも「十四」に訂正です)の脇道がありえているようなものです。この脇道はその終点の部分で螺旋の部分を換えます。脇道はフッサールの用語でいえば「反省」が通る道です。点線の矢印で示されています。実線の矢印は「意識」が通る道です。Ⅰ列の①の形を起点に、Ⅱ列、Ⅲ列と進み、Ⅲ列の③の形で一旦、終わるという働きの幾何学です。

 

 特にⅡ列目の道は、ポンティさんの引用の「第一の形状は第二の形状が形成されているあいだも私にとって存続していて、二直角に等しいと私がした角の和は、他方で当の三角形の角の総和と等しいと私がしたものとそのまま同一である、と。しかも、このことが可能となるためには、ぜひとも私は現象または現出の次元をのり越えて、エイドス(形相)または存在の次元にゆきつかねばならない」という部分と同じようです(どこがどこに対応するかは図に記してあります)。フッサールの「幾何学」というよりメルロポンティの幾何学と名づけた方がいいくらいピタリとしています。

 

前回の図を眺めていて、基本的にはこの図でいいのですが、何かおかしいと思いこうして書きなおしたわけですが、その「おかしさ」は、各形のつながりを形成していく際のルールがすべての場面で守られていなかったということです。一番は長方形の後に平行四辺形が位置づかなかったことです。それにともない「反省」の道が増えました。

見落としていることはないかと見直すと、このルールが「存在」に関する「地平」について半分しか適用されていないことがわかり、その半分にも適用しました。その結果、「存在」に関する「地平」以前と以後の、「地平」を記すことになりました。

 

すると当然ですが、前回わからなかったこともわかるようです。気がついたことを二つばかり記しておきます。

 

一つは、細かく記すことはここではしませんが、新たに書き記したⅠ列の「地平」のa、bの「反省」は、デリダのいう「差延」の働きを示しているようです(写真4)。

 

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                 写真4

 

aの「反省」により起点①の具体的な形が始まりと違くなりますが、それはbの「反省」をなした後でなければありえないという仕組みがその部分には記されています。斎藤慶典さんはその著『デリダ』で「こうしてあの「ディフェランス(différence)」は「異なる(差異化)」ことと「遅らせる(遅延化)」ことという二つの事態がこの世界の始原において折り重なりあいながらも、そのいずれの現場にも私たちの思考が、そしてこの世界自身が居合せそこなうことを、みずからの指示作用の挫折において告知するのである」と述べていますが、「幾何学」のその部分の仕組みもこれと同じようです。(「脱構築」のデリダがこうした「幾何学」は二項対立的なものに依っているとするのか、それともデリダの哲学の主要概念である「差延」がこうしてありえているとすれば、これは脱構築幾何学とでもいえるのだろうか)。

 

もう一つは、Ⅱ列に関して「たこ形(内接円も外接円もある)」についてです。この形はレヴィナスのいう「他者の顔」に相当するようです(写真5)。

 

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                 写真5

 

「反省」の道を示す点線の矢印がこの部分だけ、一又(一直線)のものもあるからです。他の部分はすべて二又の「反省」の道です。ここでこの二又の仕組みについて説明しなければですが、簡単にいうと、二又の先のひとつの形は必ず内接円と外接円をもつ形で、もうひとつの形は内接円あるいは外接円をもつ形ですが、そこでの「意識」の仕組みは、必ず内接円と外接円をもつ形の例えばその内接円ならば内接円をその外接円や形を物差しとするようにして何であるとした結果が隣接する内接円をもつ形の内接円や形に示されているというようなものです(詳しくはパースやハイデガーを参照)。「反省」はその内接円を換えることで―外接円はそのまま。形はかわる―、その外接円や形からそれが何であるとした結果である隣接する形の内接円や形も換えるというようになされます。この「意識」や「反省」のありかたが「たこ形(内接円も外接円もある)」(以下、「たこ形(内外)」と表記する)にもありえています。それは「反省」のhに関してです。ところがこの形には、一又の「反省」がありえている。ⅾの「反省」ですね。この「反省」は④の形との関係で成立しています。これは、④の形は、それぞれの形の結節点となるような形ですが、この結節点的な形との関係で「反省」がなされているということです。

 

レヴィナスはその著『全体性と無限』で「顔は、内容となることを拒絶することでなお現前している。その意味で顔は、理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである。顔が見られることも触れられることもないのは、視覚あるいは触覚にあたっては〈私〉の同一性が対象の他性を包含し、対象はまさしく内容となってしまうからである」と述べています。この部分の前半、「顔は、内容となることを拒絶することでなお現前している。その意味で顔は、理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである。」が「幾何学」のⅡ列の「反省」hに相当するようです。「反省」は何度でも繰り返しえる。これは「理解されえない」ということです。後半「顔が見られることも触れられることもないのは、視覚あるいは触覚にあたっては〈私〉の同一性が対象の他性を包含し、対象はまさしく内容となってしまうからである」が「反省」dに対応するようです(ここでは④の形=結節点の形=レヴィナスのいう「〈私〉」としています)。

 

今ほど「理解」という言葉が出てきました。この言葉からもその部分についての説明ができそうです。この部分での「理解」という言葉は、ハイデガーの「開示性」概念に関するようです。ハイデガーの「開示性」は、「情態性」―「理解」を契機とし、「解釈」―(自分の論理へ取り込み)―「語り(明示化・隠匿)」という順でなされます(’自分の論理への取り込み’についてハイデガーは「チョーク」を例に示しています)。この「開示性」の一連の働きは、「幾何学」の働きでは「たこ形(外内)」-「たこ形(内)」―「ひし形(内)」―「正方形(内外)」―「長方形(外)」という一連と同じです。この一連の働きは開示的なのです。こう考えると、「他者の顔」=「状態性」=「たこ形(外内)」、「理解」=「たこ形(内)」と対応するといえ、「他者の顔」は「理解」の対象になりえるが、そこには「反省」hが働くため、「理解されえない」とも説明できます。

 

(以上、気がついたことですが、それらしいことを話しているようですが、専門家からしたら間違いなのだろうか?)

 

この「幾何学」は(なんというか)'筋よく'つなげていかないと、ああもつながるよね、こうもつながるよねというようにして、絡まり合ったたこ足のような図式になってしまいます(体験談です)。そのことからすると、ドゥールーズの「ツリーとリゾーム」のような考え方は、この「幾何学」にはあわないのかもしれないと思いました。しかし「構造主義こそが、発生的方法の志を実現する唯一の方式であろう。発生とは、いかに微小な項であれ、現実的な項から別の現実的な項へと時間的に進むことではない。そうではなくて発生とは、潜在的なものからその現実化へと進むこと、すなわち、構造から受肉へと、問題の条件から解の場合へと、微分された要素とそれらの理念的な連結から、さまざまなリアルな関係へと進むことである」(ドゥールーズ『差異と反復』)と述べているので、ドゥールーズとしてもこの「幾何学」はありかもしれないとも思います。

 

この「幾何学」は、いわゆる「初等幾何学」で扱いは難しくないです。ここでしていることは中学生程度でも理解できるでしょう。一方、ドゥールーズの「微分方程式」は最低でも昔の高校三年生程度ですね。本格的にしようとしたら理系の大学に進まなければならないかも。ただしこの幾何学も、おそらく妄想的な手続きは踏んでいない数学的幾何学であり、なにやら仕組みらしきがありえていますから、式化ならば式化できるのかもしれないです(それこそ微分方程式がかかわってくるかもしれない)。それなりの理系の方はできるのかもしれないです(かって理系でしたがしばらく理系から離れている今の私にはなかなか大変な作業です。面白そうな予感はしますが)。

 

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自分の思い違いかもしれませんが、この「幾何学」の図があると現象学の全体像のようなものが、初学者でもあっさりわかる気がします。特に時間論をしようとすると参考になるかもしれない予感がしますね。

原著や解説書を何度も読んで頭の中で全体像をなしていくという作業もできないことないですが、地図のようなものを広げてこの議論は今ここでこういうことしているのだろなとしたほうがわかりやすいこともあるのかもしれない。

こうして書いてみると、我ながらそうかもと思い当るところも多々あるのですが、正式に発表的なことをしていないので間違っているかもしれないとも思いつつも、結構、簡単に図示できるとも思うので、今までなぜこうした図がなかったのかということがとても疑問ですね。あっ、でも九鬼周造さんは『「いき」の構造』で「幾何学」と似たような図を書いていました(写真6)

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                                                             写真6