フッサールの「幾何学」を図示する試み、について2

三つのことについてメモ

 

一つ目。「他者」と「たこ形」について。

 

例えば『現象学辞典』の「他者」の項目にはこうある。「主題的な〈対象〉としての他者ではなく、それに先だって私の意識にいつもすでに非主題的に含蓄されているものとしての他者、〈地平〉として機能するような他者を、開示する途が求められねばならないわけである。」(鷲田清一)。

 

なぜ「幾何学」において「たこ形」が「他者」に相当するか。それは、そうした現象学的な「私」と「他者」との関係と、「幾何学」における「台形領域」と「たこ形領域」との関係は、関係的に同じありかたをしているからです。

 

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(当然といえば当然ですね。フッサールもメルロポンティもデリダ幾何学について言及している)。

 

二つ目は、「幾何学」の図、の‘訂正’(?)二つです。下の図は'訂正'(?)後の図です。

 

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「メモ帳」に、最初のアップした図、七月二十日にアップした図に於いては、Ⅱ列目の点線矢印部つまり「反省」の道に関して、a~ⅰの九つの道がありました。ところで「反省」は対角線を引いた四角形から出て行く道のことです。とするとおかしいところがその図にはあった。

通し番号④からbの反省が出て行きます。それが通し番号⑭を換えて、換えた⑭の形から反省の道が出て行きます。ここをひとつの道に数えていました。それが七月二十六日に’訂正‘した箇所です。しかしよく眺めていくと、だとすると、通し番号⑭の形からの反省はその形を二度通過するので、もう一回分加えなくてはならないです。前回の’訂正‘で、ℊがhになり、iの通過後、もう一度、換わった通し番号⑭の形から反省の道が出るそれをjとし、最後にkの反省へと続きます。こうしてⅡ列目において、反省は十一の道だということです。この二つです。

 

ここで「九」に囚われていた理由は、ハイデガーの哲学やそれと親和性のある仏教の書物には「九」がよく出てくるからかもしれません。例えばこの『〈在る〉ことの不思議』のこの図です。九つの部分と一つの星から成立しています(が、この図、よく見ると「図11」と付されているのですよね。何かあるのかもしれないです)。

 

 

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 似たようなことをしていて違いがあることに気がつくと、何が同じで何が違のだろうと疑問におもい、ただこの図ならこの図を理解している時よりも、この図に丁寧にかかわるようになりますね。丁寧にかかわるだけでなく、この図について何か気がつきそれを起点に語ろうとしたら、その語りをどのようにするのか、少し考えこみます(同じようなことを考えていて異同があると、とかく善悪や二項対立的に物事をとらえて、どちらかに統一していこうとする動性に踊らされているような近代人の自分としては、激しく攻撃したり、逆におもいっきり傷ついたりしますから、それはできれば避けたいですから)。

 

またこうしてアルファベッドをふりなおすと、一ヵ所を除いて他はすべて、反省が二つの形にかかわるのに対して、その一ヵ所はひとつの形(双心のたこ形)にのみにかかわっています(ここの反省はレヴィナスのいう「他者」についてはじまる場面のようです)。ところで『哲学の密かな闘い』(永井均)に、他のどのアルファベッドでない「E」について書かれている個所があります。『語りえぬものを語る』(野矢茂樹)の「十八章」に言及して次の箇所が引用されています。「そして私はそれに「E」と名前を与える」、と。おそらく、この「E」は、「幾何学」の図に於ける反省eの「e」と同じかもしれないです。また反省eが出る形は十八番目の形ですが、この「十八」は「十八章」の「十八」と同じかもしれないです。(ここからするにすでに論じている人間はいるでしょうが、おそらくレヴィナスの哲学とウィトゲンシュタインの哲学は、触れうるでしょうね)。

 

‘訂正‘(?)とした理由は、九を十一にということが訂正なのかどうか迷ったからです。「訂正」というのは、もともと正しさがあって、それをうっかりならうっかり書き間違えて、後でそれに気がついて「すいませんそこ訂正です」というように用いる言葉だと思うのですが、ここでの取り組みには、まず真実があるわけではないからです。しかし嘘をついているわけでもない。何か違うと気がついたとき、してきたように書きなおすのですが、そのことをそうした理由で何というか迷ったからです。「修正」は、「歴史修正主義」の修正のようで、あったことなかったこと誰かの思う通りに書き変えていってしまうという意味のようで用いにくいですね。仮に訂正としました。

 

 

三つ目は、Ⅱ列についての説明をメルロポンティにして頂いたらどのようなものかと考えたときの引用部分についてです。以前と同じ部分ですが、その部分の前後含めてかなり長く引用しました。その部分は何となく、Ⅱ列の通し番号①~③からスタートして、あれこれして戻ってきて、通し番号①~③で終わるかのような内容をしているように私には読めました。

 

この部分です。「私がもう証明ずみだと思っているのは、前提を構成している所与の総体とそこから引き出す結論とのあいだに、私が必然的な連関をみとめるからである。こんな必然性があればこそ、私は経験的には何度でも同じ図形を描く作業をくり返し得ることを確信しているのであり、しかもこの必然性は、私が証明するごとに、また私があたらしい諸関係を導入するごとに、その諸関係によって明確化されこそすれけっして消えることのない安定した構造として、その三角形が一貫して私に意識されつづけている、という事実から由来しているのである。それゆえ、つぎのように言えば言えるだろう―構成された三つの角の総和を二つの相異なる布置のなかに入れ、これをかわるがわる三角形の角の総和に等しいものとも二直角に等しいものとも見ること、そこに証明ということが成り立つ、と。だがそれにはつぎのように付言しなければならない-そこでわれわれの手にいれるものは、相継起してたがいに追い合う二つの形状(夢想にふける子供のデッサンにおけるような)ではなく、第一の形状は第二の形状が形成されているあいだも私にとって存続していて、二直角に等しいと私がした角の和は、他方で当の三角形の角の総和と等しいと私がしたものとそのまま同一である、と。しかも、このことが可能となるためには、ぜひとも私は現象または現出の次元をのり越えて、エイドス(形相)または存在の次元にゆきつかねばならない、と。とすれば、能動的思惟のなかで絶対的な自己所有がおこるのでなければ、真理は不可能のようにみえるわけで、さもなければ能動的思惟は、相継起する一連の作業のなかで自己を展開することも、また永久に妥当性をもつひとつの結果を構成することも、ともにできないことになるであろ。」(メルロポンティ『知覚の現象学』)