フッサールの「幾何学」を図示する試み、について3

・「一貫した変形」について

メルロポンティのいう「一貫した変形」とは、同じくメルロポンティの例えばこの部分に記されていることと関係するといえるだろうか。

 

「表現の操作は、それがうまく行った場合には、単に読者および作家自身にひとつの忘備録を残しておくことではなくて、テクストの深部そのもののなかに、意味を一つの物として存在するようにさせ、その意味を語のつくる一つの有機体のなかで生きるようにさせ、その意味を作家または読者のなかに一つのあらたな感覚器官として据えつけ、われわれの経験に一つのあらたな領野または次元をきり拓くのである」

(メルロポンティ『知覚の現象学』)

 

この部分の「表現の操作」が「うまく行った場合」「テクストの深部そのもののなかに、意味を一つの物として存在するようにさせ」くらいまでのことが「一貫した変形」の結果の起点とします。

ここでのこの「意味」はフッサールの「幾何学」(仮)ー違いがあるかもしれないので(仮)をつけるとにしたーではひし形にあたります。なぜひし形か。意味形成の仕組みの働きが「たこ形~長方形」の関係の働きと同じだからですね。ひし形はその象徴のような形(例えば九鬼周造ハイデガー講義の現象学的還元の図以下参照)。

 

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さて、フッサールの「幾何学」(仮)は、現実的には日本では小学校五年生の算数で基本を教わる「四角形の関係図」、を「現象学的還元」の操作によって、「四角形の関係図」が「意識」にあるだけにしたものに由来します。ただしその操作以前に「意識」には関与できない「何か」あったから「意識」に「四角形の関係図」がありえているため、「形相的還元」を行うようにして、つまり「意識」をいわば「さらの意識」にして、「さらの意識」が、「意識」にありえている「四角形の関係図」に「何か」を施すことで、もう一度、(仮にそう呼べば)'「意識」に「四角形の関係図」をあらわそう'としています。

 

「さらの意識」が、「四角形の関係図」に施すことは「一貫した変形」ですが、施す前に具体的に何かあるわけではないです。あれこれして「一貫した変形」がうまくいくと、「四角形の関係図」がフッサールの「幾何学」(仮)になり、そのとき同時に「さらの意識」もまたフッサールの「幾何学」(仮)としてありえると考えています。

 

そのようにありえると「さらの意識」はフッサールの「幾何学」(仮)に触れてしまう触れられてしまう(強調しますが「触れてしまう触れられてしまう」のです)。うまく変形できているのに「たこ形」だけ反省的には形の換えが起きていない、助けるように換えようと触れてしまう('無自覚の怪我'の功名的に)。その触れはひし形の内接円の大きさを、三度一組で換えます。三度とは(「さらの意識」の)フッサールの「幾何学」(仮)においてひし形を三度、通過しますが、その三度ということです(この三度で、以前とは違うが同じ大きさの内接円、以前の大きさより大きな内接円、以前の大きさより小さな内接円の三つの場合が起きるのかもしれない。ここは数学的に検討しないとはっきりしたことは言えない)。

 

そのように三度一組で、フッサールの「幾何学」(仮)のひし形に触れてしまう触れられてしまうと、換えが起きるのですが、その換えはひし形を起点に両側へと展開していきます。

 

ひし形から右側への展開は27部分から成立し、左側は33の部分から成立します。部分の差は6です。「たこ形~ひし形」の部分が左側の右側に対する多さとしてありえています(右側にその部分を足せば部分の差はなくなるということです)。形は右側は左側の換えよりも同一的に形が換わりえます。反省において主に平行四辺形(平行四辺形的台形)がかかわっているからです。左側では主に平行四辺形ではなく一般四角形がかかわっているため形の大小が異なるようにして換わりえます。右側の関係はメルロポンティのいう「横の関係」、左側は「親近関係」に相当するようです。

この右側への展開と左側への展開がフッサールの「幾何学」(仮)の直線(意識)的な曲線(反省)的な一本の線を容器として、二重、三重に重なり合い諸々の形がありえています。例えばひし形に関していえば、右側への展開で一回、左側への展開で二回あらわれます。たこ形に関していえば、右側への展開で一回、左側への展開で三回あらわれます(たこ形がレヴィナスのいう「他者」に相当するとすると、ここは多重化する「顔」、「彼」(第三者)のことに関わってきます)。

 

この状態のフッサールの「幾何学」(仮)はメルロポンティのいう「キアスム」のようにありえているようです。触れられることでフッサールの「幾何学」(仮)は、キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)へと誕生しなおしました。

 

冒頭の引用ではここが「一貫した変形」の結果の起点である「意味」がありえた後の「その意味を語のつくる一つの有機体のなかで生きるようにさせ」ということにあたるでしょう(ここは小説を書いていると、主人公が作家の手をはなれて自ら動き出したという話を聞きますがそのような瞬間のこととか、物は決して語りませんが物が語ることがあるというようなことに喩えられるかもしれないです)。

 

話はもう少しづきます。

 

触れるとは触れられるということでもありました。フッサールの「幾何学」(仮)に触れてしまったことにより触れられてしまったことは「さらの意識」にそれとしてありえているフッサールの「幾何学」(仮)のひし形です。こちらはフッサールの「幾何学」(仮)のひし形から「そう反省、反省しなくてよい」「反省することについて自覚的になろうぜ」ということを伝えられるようにして触れられてしまいます('無自覚の怪我'を治そうよと)。ここはメルロポンティのいう「絶対的反省」に関わることでしょうか。ただし「さらの意識」の側はそのように触れられても、すぐに換えはなされません。

なぜか。仕組み的には、フッサールの「幾何学」(仮)は、もとの「四角形の関係図」から連続して扱われているためその変化も連続的に起きますが、それがありえている「意識」の方は、「意識」がありえた後、それをさらに戻すという作業をしているつまり「意識」と「さらの意識」のあいだには間があるためと説明できます。最終的に「意識」=「さらの意識」となるのですが、その手前があるということです。そこにはフッサールの「幾何学」(仮)に触れられたが換えが起きていない状態の「さらの意識」としてのフッサールの「幾何学」(仮)があります(この状態の図は「たこ形~長方形」の部分だけがありえているようです)。

その傍らで換えがなされるのですが、なされると、キアスム的なフッサールの「幾何学」(仮)がありえているキアスム的なフッサールの「幾何学」(仮)としての「さらの意識」=「意識」(「=」は間)、という意識ついての構図が成立します(「差延」というよりは「隔たり」ですね)。複雑です。簡単に言い換えれば、ここにて、キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)とキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)がありえている「変化・生成した意識」がありえたということです。

 

さて「わたしは自分の風景の中で、差異の作り出す勾配に導かれて動く。そしてわたしはここにとどまろうとするなら、あるいはかしこに赴こうと思うなら、この差異を維持し、あるいはこれを縮める必要がある」(メルロポンティ「問い掛けと直観」)とあるのですが、ここでの「差異」とはフッサールの「幾何学」(仮)のひし形のことで、「差異の作り出す勾配に導かれて動く」とはフッサールの「幾何学」(仮)に触れられてしまうこととすれば、「差異を維持する」のは間のことであり、「縮める」のは間の傍らで「さらの意識」としてのフッサールの「幾何学」(仮)を換えることだと読めます。

 

仮にここで、フッサールの「幾何学」(仮)に触れられてすぐに「さらの意識」としてのフッサールの「幾何学」(仮)も換えてしまうと、それこそ意識を失うようにして、正体不明の如くになります。しかし意識が絶対的にありえ続けているというわけではないです。複雑です。間に蓋をしてはいけないというようなところがあるのです(このあたりに関することをメルロポンティは「超反省」といったのかもしれない)。

 

この部分は冒頭の引用では「その意味を作家または読者のなかに一つのあらたな感覚器官として据えつけ」の箇所に相当するでしょう。

 

そしてその引用の最後、「われわれの経験に一つのあらたな領野または次元をきり拓く」という箇所が、この、キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)とキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)がありえている「変化・生成した意識」に、意味や働きを与えるようにして、現実に帰還させるということにあたるかもしれない。

 

それは例えば、キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)とキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)がありえている「変化・生成した意識」が、それと同根的にありえているようなリーマンの「幾何学」とどのような関係があるのかないのかとか、例えばキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)とキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)がありえている「変化・生成した意識」からすると「神像筒形土器」の文様等はどのように読めるのかなどが考えられます。

 

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ここで少しだけその「神像筒形土器」と、先ほどの引用。

 

「わたしは自分の風景の中で、差異の作り出す勾配に導かれて動く。そしてわたしはここにとどまろうとするなら、あるいはかしこに赴こうと思うなら、この差異を維持し、あるいはこれを縮める必要がある」(メルロポンティ「問い掛けと直観」)

 

とキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)の説明のこの部分。

「ひし形から右側への展開は27部分から成立し、左側は33の部分から成立します。部分の差は6です。「たこ形~ひし形」の部分が左側の右側に対する多さとしてありえています(右側にその部分を足せば部分の差はなくなるということです)。形は右側は左側の換えよりも同一的に形が換わりえます。反省において主に平行四辺形(平行四辺形的台形)がかかわっているからです。左側では主に平行四辺形ではなく一般四角形がかかわっているため形の大小が異なるようにして換わりえます。右側の関係はメルロポンティのいう「横の関係」、左側は「親近関係」に相当するようです。」

「この右側への展開と左側への展開がフッサールの「幾何学」(仮)の直線(意識)的な曲線(反省)的な一本の線を容器として、二重、三重に重なり合い諸々の形がありえています。例えば、ひし形に関していえば、右側への展開で一回、左側への展開で二回あらわれます。たこ形に関していえば、右側への展開で一回、左側への展開で三回あらわれます」

 

からこの「神像筒形土器」の文様について次のようなことが仮にいえるかもしれない。

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キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)が具体的な造形になっているのが、土器の後ろ姿の部分に相当するとします。全体的な方向性は、キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)の右左と、土器の右左は対応するようです。キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)において右側は「横の関係」、左側は「親近関係」でしたが、土器でもそのようです(右側の文様は長方形、台形というような横っぽいものが多く、左側は斜めの文様に関して小さな円が大きな円と関わっていたりするよう親子っぽいものがある)。

 

さて後ろ姿の下に大きな蕨形がありその右側にたこ形とひし形を合わせたような形-銅矛?のような形―があります。ここの蕨形がキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)の左側展開の33の部分に相当するかもしれないです。というのもその蕨形に押し上げられるようにして、たこ形(ひし形)のイメージがある後ろ姿の部分がありえているからです(キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)の左側展開は、レヴィナスの「他者の顔」に関する部分。多重化する「顔」そして「彼」(第三者)に関するところに相当としましたが、その土器の姿の頭部もそのような顔や彼(=目の中に丘?)のつくりになっています)。

 

そしてこの蕨手は右へと巻いていますが、その下にピタリとおさまるように「たこ形~ひし形」の文様があります。さてキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)において、「ひし形から右側への展開は27部分から成立し、左側は33の部分から成立します。部分の差は6です。「たこ形~ひし形」の部分が左側の右側に対する多さとしてありえています(右側にその部分を足せば部分の差はなくなるということです)。」ということでした。そしてメルロポンティは「わたしは自分の風景の中で、差異の作り出す勾配に導かれて動く。そしてわたしはここにとどまろうとするなら、あるいはかしこに赴こうと思うなら、この差異を維持し、あるいはこれを縮める必要がある」と述べましたが、とすると土器の蕨形の右側に「足す」ようにある「たこ形~ひし形」の文様は、右側と左側の差の6を「縮め」ようとしているのかもしれない(「差異」はここでは後ろ姿です)。

 

同様に考えれば、蕨形の左側に大きなひし形がひとつ、右側に大きなひし形が二つありますが、ここにも「縮め」ようとする思考が働いているかもしれない。キアスム的フッサールの「幾何学」(仮)の左側展開でひし形は二回、右側展開で一回あらわれました。その差は一回です。右側に一回足してあげれば左右等しくなる。

土器においては、蕨形の左側の渦巻きが二つつき二つの文様の部分から成立しているひし形がありますがそれがキアスム的フッサールの「幾何学」(仮)の左側展開のひし形の二回のことであり、蕨形の右側の渦巻きが一つつき二つの文様の部分から成立しているひし形が「幾何学」(仮)の右側展開のひし形の一回に相当するとします。土器の右側のひし形の下にもうひとつ同じ文様から成立するひし形がひとつありますが、このひし形が左右の差を「縮め」ようとして「足し」たひし形だとすれば、ここでも「縮め」ようとしているようです。

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