フッサールの「幾何学」(仮)について4

○今回のメモは以下の枠組みで本文を書いています

普段通りの生活を一旦やめる。普段通りの生活では気にもとめていなかった事物が確かにあると感じられる(問題の所在)。

Ⅰ【確かにあると感じられる事物】がある。だがなぜその事物なのだろう(他の事物でもよかったではないか)。しかしその事物がある。これは何だろう。答えが出たとする。

Ⅱ、その答えは「これは何だろう」と【問うた自分】からしたら何なのだろう。答えが出たとする。

Ⅲ、ではその答えは【普段通りの生活をしている自分】からしたら何か。答えが出たとする。

Ⅳa、最後、その答えは普段通りの生活において【自分を自分へといたらしめている存在】-〈他者〉-からしたら何であろう。答えが出たとする。

Ⅳb、その答えを〈他者〉にもわかるようにする工夫は、どのような工夫が考えられるだろうか。

 

Ⅰ~Ⅳabは、本文では具体的に次のことです(簡易目次)。

Ⅰ「四角形の関係図」から「四角形の変化・生成図」を誕生させる。

Ⅱ誕生させた自分としての「四角形の変化・生成図」が明らかになる。

Ⅲ自分としての「四角形の変化・生成図」に触れてくる者(第三者的存在)を見つける。

Ⅳabその者に触れられた自分としての「四角形の変化・生成図」が両側(右側がⅣa、左側がⅣb)に展開し終える。

 

 

○本文

「問題の所在」

図1を見てください。

 

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 図1

これは台形、平行四辺形、ひし形、正方形、長方形とそれ以外の四角形の関係を示したベン図です。平成30年頃では小学校5年生の算数で習う内容です。各形の具体的な定義はここでは説明しませんが、ベン図からは、台形の特殊な形が平行四辺形、平行四辺形の特殊な形がひし形、正方形、長方形、ひし形と長方形は別の形ですが、長方形の特殊な形が正方形、ひし形の特殊な形が正方形ということがわかるようになっています。

このベン図は初等幾何学の一部です。幾何学といえば『ユークリッド原論』ですが、そこには、こうした形について次のようにあります。「四辺形のうち、正方形とは等辺でかつ角が直角のもの、矩形とは角が直角で、等辺でないもの、菱形とは等辺で、角が直角でないもの、長斜方形とは対辺と対角が等しいが、等辺ではなく角が直角でないものである。これら以外の四辺形はトラペジオンとよばれるとせよ」(ユークリッドユークリッド原論』)

四辺形と四角形の異同は何かという問題はありますが、ここでは四辺形≒四角形程度に考えて進みます。四辺形で図1を書きなおすと次の図(図2)のようになるでしょうか。

 

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図2 

 ユークリッド以来からでしょうか、私たちは四角形といえば、台形、平行四辺形、ひし形、正方形、長方形について長い間、考えてきました。最近では、それらの形に等脚台形やたこ形が加わりました。台形の特殊な形が等脚台形で、等脚台形の特殊な形が長方形と正方形です。たこ形は台形ではないですが、たこ形の特殊な形がひし形と正方形というように、台形の領域ともつながっています。この形を加えて書き直したベン図が図3です。

 

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 図3

 しかしユークリッド以来、相変わらず台形等の有名な四角形以外の四角形―「一般四角形」とします-は、考えられていないようです。二千年以上、尻に敷かれ続けているが如くにありえているのです。あるいは実際に一般四角形を書こうとすれば、台形等の有名な四角形を書くことと違い、どうしても思いつきでかく子どもの落書きのような四角形を大人でも書かざるをえません。台形等の有名な四角形との関係で一般四角形を書くことはできるだろうか。

 

Ⅰ、「四角形の関係図」から「四角形の変化・生成図」を誕生させる

図4は図3のベン図に、ある大きさの形を幾つか書き込んだものです。

 

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 図4

 有名な四角形は、「いつものやつだね」とわかりやすいのですが、一般四角形は、普通はあまり見たことのない形があることがわかります。蝶々のような形の四角形や鏃のような四角形もあります。蝶々のような四角形は「ねじれ四角形」、鏃のような四角形は「凹四角形」と呼ばれることもあるようです。「ねじれ四角形」は、角が四つあるという意味での「四角形」ではないですね(ユークリッドにならい「四辺形」と呼んだ方がよいですが、ここでは四角形とします)。

図5は、大きさのみならず、内接円や外接円が必ずある形には、それを書き込んだベン図です。

 

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 図5

 一般四角形の一部(「ねじれ四角形」)には内接円と外接円―三角形は必ず内接円と外接円を持ちます-、たこ形とひし形には内接円が、正方形には内接円と外接円が、等脚台形には外接円が必ずあることが分かります(ちなみに内接円と外接円、両方もつ四角形は「双心四角形」と呼ばれています)。図5から形を消すと円形だけが残ります。図6です。

 

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 図6

 これらの円形は四角形の形が無くてもある意味、関係してありえているといえます。

さて、ここでもう一度、形を書き、さらにそれらの形における内接円や外接円の大きさを任意のある大きさに定めて、書いたベン図が図7です。

 

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 図7

 一般四角形には、内接円も外接円も無い形もありますが、その形は対角線を一本引くことで、三角形を二つあらしめ、その三角形において内接円や外接円を考えています。では、なぜ平行四辺形や台形でも内接円や外接円の無い形に、対角線を引かないのかといえば-後では引くのですが-、一般四角形には、「ねじれ四角形」(蝶々のような四角形。必ず内接円と外接円を持つ)もあったからですね(一般四角形は扱いがちょっと複雑なのです。二重の性質があるという、か)。

そして、この各形における同じある大きさの内接円や外接円を通路とするようにして、各形を一本の線でつなぐことを試みます。その際、内接円と外接円の両方がある形は、前の形から例えば、内接円でつながってきたら、その形の内接円へとつながり、その形で外接円へと翻り、その外接円で次の形の外接円につながるというルールに従い移動することにします。そうして一本の線を書こうとした図が、図8です。

 

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 図8

 平行四辺形と台形の内接円も外接円も無い形のところで途切れています。この形に対角線を一本引き、三角形を二つあらしめ内接円と外接円を書き込んだ図が、図9です。

 

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 図9

 次いでつなげた図が、図10です。

 

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 図10

 ここにてベン図に大きさの関係が導入されました。

ここで先ほどと同様に、調べなくても必ず内接円や外接円がある形の形を無くして円形の形だけをみます。内接円や外接円があるかどうか調べなくてはわからない形は、たとえ他方に必ず内接円や外接円がひとつあっても消します。そうして円形の関係がありえている図が図11です。

 

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 図11

 話を戻します。ベン図に内接円、外接円、対角線の力を借り大きさの関係が導入され、各形が一本の線でつながりました。ここで一般四角形のまとまりの右側の形を起点として、右へ進み、対角線の引いてある形の二番目の三角形から来た線へと戻る線と、同じくその三角形から対角線を引いた台形へのつながりの線を明らかにしていきます。図12です。

 

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 図12

 これは、ある大きさを換える手続きを導入するということです。ベン図に大きさの関係を導入して、大きさを換える手続きを導入することで、台形等の有名四角形との関係で一般四角形が書けるかもしれないということです。

図12で来た線へと戻る線を青線、他方の線を赤線で書いています。この二つの線は性質が違います。来た線へと戻る線(青線)は「内部に関わる」ような、そうでない方の線(赤線)は、「元の線に別の線を足して伸ばした線の始点と終点をつなぐ」ような性質があります。(これはマルローのいう「一貫した変形」における「一貫性、歪曲・逸脱」という働きと同じようです。「一貫性」が最初の一本の線で、「歪曲」がその線の「内部に関わる」という意味で青線、「逸脱」が「元の線に別の線を足して伸ばした線の始点と終点をつなぐ」という意味で赤線に相当します)。

図12の一本の線と青線あるいは赤線の交わる部分では形の大きさの換えが起きます。それは、対角線を引いた四角形の二番目の三角形の部分では、例えば前の形と外接円でつながったら内接円に翻り、その内接円の大きさで二番目の三角形を書くのですが、その内接円を書く位置は一番目の三角形との関係で移動することができ、その移動によりつながった外接円の大きさとは別の大きさの外接円を書け、その外接円で例えば来た線へ戻ったその形の大きさを換えるというようになされます。そこでは三日月のようなイメージが蠢いています。

 

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ここにて「四角形の変化・生成図」の主要部分が誕生しました。残りの部分は何か。それは、話はかなり戻りますが一本の直線を書く際の別方向についての線のことです。図13です。

 

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 図13

 一般四角形のまとまりの左側(内接円だけある形)から出て、対角線を引いた四角形を通過し、たこ形の内接円だけあるたこ形に接続する線です。この線は、逆もありえています。つまりたこ形のまとまりの右側(内接円だけある形)からでて同じ線を通るという線です。この二つの線は見かけは同じ線ですが、起点が違うことに注意です。

この線から形を無くすと図14の円形の関係がありえています。

 

 

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 そして一本の線のときと同じく、赤線と青線を明らかにします。図15(たこ形を起点とした場合)、図16(一般四角形を起点とした場合)。

  

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 図15

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図16

最後に、一本の長い直線と、非対称の二本の短い直線の関係を明らかにします(ここは複雑です)。目指すことをまず確認しておくと、三本の直線にありえている形、全部を通る一本の線を書くことです。結論の線から示せば、図17最上部の線です。

 

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 図17

つながりは三つの場合があります。

A、一本の長い直線の一般四角形のまとまりの左側の形を起点として、短い線のうち一般四角形のまとまりを起点とした線の、そのまとまりの左側の形とつながる。

B、たこ形のまとまりの右の形を起点とした短い直線が一本の長い直線のたこ形とつながる。

Ⅽ、一般四角形のまとまりの右側の形を起点とした短い直線が一本の長い直線の一般四角形のまとまりの右側の形とつながる。

なぜそうなるか。細かい説明はここでは行いませんが、図的に示せば、図17の上から二番目からにありえています。

緑の線はAに、青の線はBに、赤の線はⅭに関する移動です。ⓈがスタートでⒼがゴールという移動です。それぞれだけでは、通らない部分がありえてしまいますが、三つを一つとするとすべて通ることができます。

色分けした理由は(後から気がついたのですが)この線の引き方も先ほどのマルローのいう「一貫した変形」の「一貫性、歪曲・逸脱」と同じ働きをしているからです。ここでは「一貫性」(基本となる長い線を書く)が緑の線、「歪曲」(緑の線の途中に触れる)が青の線、「逸脱」(書けた緑の線の始点と中点をつなげる)が赤の線という対応です。

この緑、青、赤、この三つの線を一つで書くと、図18最上部の図になります。ここで一応、「四角形の変化・生成図」が完成しました。

 

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 図18

 一応といったのは、ここから簡易目次のⅡが始まるからです。どういうことか。(仮にミスが無いとして)完成した「四角形の変化・生成図」を眺めると、二つ気にかかることがあります。

ひとつは、全ての形を通るとしておきながら、たこ形のまとまりを起点とする短い線の一般四角形のまとまりの左側の形をひとつ通っていないことです(通れないことです)。他の二つの線ではその形に相当する箇所は通っています。そのひとつの形は通ってはいないですが、全ての形を通る線を引くことで何をしようとしていたかといえば、四角形の関係図(ベン図)に大きさの関係と大きさを換える手続きを導入することで、台形等の有名四角形との関係で一般四角形を書こうとすることでしたが、それが達成されています。そのためその一つの形は通っていないが、それはそれでいいというところがある(その形がなければそうはありえないのです)。

もうひとつ。ひし形についてです。この形は、他のどの形ももちろん先ほどの通っていない(通れない)一つの形ですら、換えが可能となっているのに、ひし形だけは換えがなされていないことです。

ひし形は、他の形との関係で形の大きさが換わるとしても、ひし形から換わるということがない。ひし形から換えようとするのであれば、ここまで産まれたての自分が「四角形の関係図」と自他の区別なくありえていたその関係から、自分と「四角形の関係図」(今は「四角形の変化・生成図」を区別するようにして自分を誕生させ、対象にした「四角形の変化・生成図」のひし形に触れるようにして、ひし形からその大きさを換えることしかできないでしょう(〈ひと〉の誕生の瞬間?)。

そうだとします。そうして自分がひし形に触れる。すると図的に二方向に展開することが分かります。図18の下二つです。図19の図はその二方向展開を一つに図に書いたものです。

 

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 図19

 どちらの展開においても、一本の長い線の途中に触れるたこ形のまとまりを起点とする短い線を通過していないことが分かります。

そして簡易目次Ⅱはこのひし形を巡る経験から始まります。

 

Ⅱ、誕生させた自分としての四角形の変化・生成図が明らかになる

ここまで自分も何もなくただただ「四角形の関係図」に関わってきました。そしてそれを「四角形の変化・生成図」へといたらしめ、それに触れた。触れるさい、「四角形の変化・生成図」と自分とを分離するようにして「四角形の変化・生成図」のひし形に触れた。分離したさい、「四角形の関係図」に関わりそれを「四角形の変化・生成図」へといたらしめたことが、同時に自分の過去になった。つまり対象にした「四角形の変化・生成図」に触れることは、自分の過去に触れるということでもあるということになった。

しかし自分の過去に触れる(=「四角形の変化・生成図」に触れられた)からといってすぐには換わらない。というのも、確かに自分の過去には「四角形の変化・生成図」がありえているが、その図は形を無くしてもありえている円形の関係があった(ある)からです。図20の最上部①の図です。

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図20

この図は確かにありえているのですが、とかく気がつき難いかもしれません。この段階があることがわかっていないと、触れて触れられたらすぐに反応してしまっても仕方がないです。すぐに反応することは、いきなり「四角形の変化・生成図」の両側展開の図を展開してしまうということで、それまでが一切なくなります。特に第三者的な存在(対象にした「四角形の変化・生成図」に触れたかつての自分的な存在)に触れられるという経験がすっぽりとなくなります。〔第三者的な存在=(対象とした「四角形の変化・生成図」に触れることによって)触れてきた「四角形の変化・生成図」〕としてしまい‘チガイ’がなくなってしまうのです。

 

Ⅲ、自分としての四角形の変化・生成図に触れてくる者(第三者的存在)を見つける

対象にした「四角形の変化・生成図」のひし形に自分として触れたら、その触れは自分の過去としてありえている「四角形の変化・生成図」に触れてきますが、まずは図20の①からです。

 そして図21、図22と続きその⑬で「四角形の変化・生成図」が再誕生します(①`は⑬に潜在的にありえています)。

 

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 図21

 

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図22

順に増えて、あっちいったりこっちいたりしながら、もう一度「四角形の変化・生成図」が誕生します。最初にした通りと同じようにはなされていきません。しかし同じに再現されます(試行錯誤的だった最初よりは機械的にありえていきます)。

図22の⑬で再誕生した「四角形の変化・生成図」のひし形に触れてくる第三者的な存在は、対象とした「四角形の変化・生成図」に触れた自分でも、そうして触れたことによって触れてきた対象としての「四角形の変化・生成図」でもないです。それが見つかることがあります。見つけなければならないです(違いをなくさないためには)。

 

Ⅳab、その者に触れられた自分としての四角形の変化・生成図が両側(右側がⅣa、左側がⅣb)に展開し終える

三者的な存在が、自分(の過去)としてありえている「四角形の変化・生成図」のひし形に触れると、「四角形の変化・生成図」は両側展開します。図22の⑭です(右側がⅣaで左側がⅣb)。

 

 

以上で、本文は終わりです。

 

・・・・・・・

今回、あえてフッサールやメルロポンティなどの用語を用いませんでした。その方々の用語に引きずられることを嫌がったからです。高橋哲哉さんはその著『デリダ』の「主要著作ダイジェスト」の『〈幾何学の起源〉序説』の項で「フッサール晩年の遺稿「幾何学の起源」の精緻を極めた読解から、あらゆる「意味」の伝統の可能性の条件であり、同時に不可能性の条件でもあるエクリチュールの働きをとりだしたデビュー作。後期フッサールに「生きられた世界」への帰還を見るメルロ=ポンティ流の解釈に対して、フッサール現象学の超越論的問いかけを突きつめることが大事だという線を打ち出している」とその著について解説を書いています。じぶんの書いた幾何学からすると、後期フッサールはメルロポンティがいうように「生きられた世界」への帰還が見られると私も思いますね。が、それに「対して」というよりも「生きられた世界」への帰還において(じぶんのいう)「「第三者的な存在」とは何か」という点で、デリダのいうように「超越論的問いかけ」が重要だと思いますね。「差異」は大切です。しかし「突きつめる」とか『〈幾何学の起源〉序説』のデリダの言葉でいえば、「起源へと前進」とか「奇妙な行進」というように(あるいはドゥールウズの『差異と反復』も?)、根本的な差異へと向かっていけば、それでいいとは思えないですね(デリダさんドゥールウズさん、違っていたらごめんね)。そうではなく、差異のあと、つまり本文でいうⅣabではないでしょうか。そこはメルロポンティの言葉でいえば「わたしは自分の風景の中で、差異の作り出す勾配に導かれて動く。そしてわたしはここにとどまろうとするなら、あるいはかしこに赴こうと思うなら、この差異を維持し、あるいはこれを縮める必要がある」(メルロポンティ『問い掛けと直観』)がなされています。メルロポンティの『フッサール幾何学の起源』講義』の最後には、「〈大地〉と精神とは、相互内属Ⅰneinanderしており、錯綜しているのである」とありますが、そのようです。

じぶんの書いたこの幾何学は、数学的な妥当さがいつも心配ですが-今回も短い列についての書き直しがありましたが-どう考えても、フッサールやメルロポンティの幾何学のように思いますね。

またこの幾何学は、ひとつだけ通ることができない形がある図の場合つまり三つの線が一つの線としてありえることで成り立った場合の図のありようは「神像筒形土器」の文様と、同じ図でもひし形から両側展開した場合の図は「双眼深鉢」の文様と、ともてもとても近いようです。これですね。冊子『井戸尻』から。

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