フッサールの「幾何学」(仮)について5―ゲーデルの不完全性定理との関係で-

内田「橋の上と四つ辻は世界共通で「異界との通路」なんじゃないかな」(内田樹釈徹宗『現代霊性論』)。フッサールの「幾何学」(仮)からしても確かにそうかもしれないですね。橋が図の真ん中の長い線、四つ辻がその長い線の隅々まで含めた線として、ひし形が「異界との通路」という対応で考える、と。

 

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仮に以下の証明がフッサールの「幾何学」(仮)についてなされれば、そのような言説も妥当さを増すかもしれないです。

フッサールは自身の「確定性」の考えがヒルベルトの「完全性の公理」と近い関係にあると言っているが、形式的に定式化されていないために疑義を残していると『現象学辞典』にある。その後、一般的に、ヒルベルトの「完全性の公理」(ヒルベルトプログラム)はゲーデルの「不完全性定理」により諦めざるを得なかったといわれている。しかしそうではないのではないかとゲーデル特集の『現代思想』の対談で数学の研究者、田中一之さんは述べています。例えばここ「むしろヒルベルトのプログラムというのは、非常に逆説的ですが、ゲーデル不完全性定理によって葬られたというか、頓挫した、そこの部分のことをそう呼んでいるというイメージがあります」。

 

同じ雑誌の岡田光弘の論文「フッサールゲーテルから線形理論へ」で岡本さんは、ゲーテルの不完全性の定理を次のように表現しています。

 

「数学世界は公理をいくら追加しても意図して狙っている数学の構造を完全に記述することはできない」(第一不完全性定理

「特に整合的な数学のどんな公理的理論体系もその体系自身の整合性を主張する命題は体系内では証明できない」(第二不完全性定理)。

 

フッサールの「幾何学」(仮)の真ん中の長い線を「意図して狙っている数学の構造」とすれば、確かにフッサールの「幾何学」(仮)でも、それを「完全に記述する」ことはできていないです。「一貫した変形」がなされない非対称の二本の短い線、そのため長い線に接続しないがありえてしまうからです(図の最上部と最下部の線)。ゲーテルは第一不完全性定理について「システムが正常であるときは、それは不完全である」(同書籍、編集後記)とも述べていますが、「完全に記述する」ことができないフッサールの「幾何学」(仮)は、「正常」だろうか?

第二不完全性定理についてはどうだろう。先ほどの対談で田中さんはこうも述べています。「そもそもヒルベルトのプログラムが何だったのかということですが、ゲーデル自身も不完全性定理を証明した後で、ヒルベルトのプログラムが何かということを詳細に検討しているわけですね。その中でゲーデルが発見したというか、強調したのは、相対矛盾性の考え方だと思います。つまり、大きな体系の無矛盾性を直接有限の立場で証明するのではなく、その無矛盾性を小さな、より矛盾がないと思われる堅固な体系に還元するという、そういったことしかやりようがないのではないか、ということです。ゲーデルにとってヒルベルトのプログラムというのは、そういう形で実行されるものです」。ここでいう「大きな体系」をフッサールの「幾何学」(仮)の真ん中の長い線(隅々含む)として、それと関係しながら別にありえている三つの異なる短い線-どれも「一貫した変形」がなされる-を「小さな、より矛盾がないと思われる堅固な体系」とすれば、「大きな体系の無矛盾性を」「証明」できる予想がたちます。

 

(このようにフッサールの「幾何学」(仮)は、ヒルベルトのプログラム(ゲーデル不完全性定理)と親和性があるようです)

 

うまく証明できれば、「フッサールは自身の「確定性」の考えがヒルベルトの「完全性の公理」と近い関係にあると述べているが、形式的に定式化されていないために疑義」がいくらかは、晴れるかもしれないです。

岡田さんはその論文の途中で「視覚化可能なゲーテルの不完全性定理」として次のような図も掲載しています。

 

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そうだろなと思いますね。その論文の最後では「様相概念を含まない線形理論の高階構成では実は論理的な強さが増さないことがわかっており、高階概念や虚的対象の導入と線形理論の様相概念との融合こそが言語を豊かにするのに深く関わっていることが明らかになるのである」としています。