フッサールの「幾何学」(仮)について7

◎土器部分の見かけから

この土器の各々の文様の特徴は、非対称さにあるようです。非対称といっても、例えばある事物があるとして、その事物もうひとつつくり裏返して、最初の事物の傍らに添えたというような非対称さではないです。

そうではなく基の事物があるとします。その事物を左右逆にして、それでも通るようにして、もう一度左右逆にすると、見かけは違うが同じ働きの事物が別にできます。この二つは別々にあるのですが、同じ働きでして、そうして二つ並んでありえているありようが、ここでいう非対称さで、それは基の事物をいわば隈なくみさせているということです。そのように土器の各々の文様もあります。

とするとこの土器自体を隈なく見せるということはどういうことかという問いが、その土器製作後に起きていたはずです(たぶん。ここまできちんとつくっている土器でもありますから)。

 

冊子『井戸尻』的には答えが出ていますね。先ほどの言い方―「基の事物があるとします。その事物を左右逆にして、それでも通るようにして、もう一度左右逆にすると、見かけは違うが同じ働きの事物が別にできます。」―にならえば、「〈神像筒形土器〉があるとします。〈神像筒形土器〉を左右逆にして、それでも通るようにして、もう一度左右逆にすると、見かけは違うが同じ働きの〈双眼深鉢〉が別にできます」というようにです。

〈神像筒形土器〉と〈双眼深鉢〉があって初めて〈神像筒形土器〉が隈なくみえるのです。

 

では幾何学的には〈双眼深鉢〉に対応する図は何か。

 

幾何学で「双眼」は、最上部文様、3、5、3と記した部分に関係します(あっ。ここ、三段ありますが、下二つ逆ですね。それは単純な張り違えのミスです。変換お願いします。ちなみにここでの議論に影響はないです)。その部分の二段目、三段目の一番左の内接円が、文様側(背の方)からみた「神像」の頭部、一番左の穴に相当します。ここで「神像」の逆に回り「神像」を土器内部の方から眺めます。同時に幾何学の図も逆にします。すると先ほどの左の穴は右の穴になりますが、同じ方向から眺めた〈双眼深鉢〉にはその右の穴の造形が無いです。逆にした幾何学のその部分で右の穴が無い段は一段目です。この一段目は、もとの幾何学でいえば「重要な同じ働き」と付した部分の長い方の線のことです。

 

その線と幾何学で、幾何学が隈なくみえると考えられるということです。

 

だとすると、その線と同じ「重要な同じ働き」をする短い線に対応する土器があるのだろうか。あるいは他の各々の土器の文様(幾何学の各々の線)についても同じことがいえるのでしょうか(『井戸尻』では次のページへと続いていくようです)。幾何学の部分的にはその二つ以外、後三つです。台形に関する部分(左上)、たこ形に関する部分(右上)、台形(等脚台形)に関する部分(右下)の三つです。

 

(以下は驚いたことです)

 

◎「潜在的な意識」について

フッサールが「出発点は必然的に、そのつど直進的に与えられた対象だが、反省は、そこからそのつどの意識の仕方へと遡り、さらに、このうちに地平的に含まれた潜在的な意識の仕方へ、それから対象が可能的な意識の生の統一において同一のものとして意識されることができるような意識の仕方へと遡る。」という、この「このうちに地平的に含まれた潜在的な意識」に、むやみやたらと関わることは例えば臨床的心理学では人権侵害になるおそれがあるといわれている。教育学的には教員といえども少ししか教えられないことだと言われている。これらは余程のことがない限り相手の内面へとずけずけと踏み込んではいけないというようなことです。

この土器でもそのような‘考え’がありえていようです(断言はできない)。土器(幾何学)では、「出発点は必然的に、そのつど直進的に与えられた対象」というその「対象」は、「重要な同じ働き」と付してある長い方のラインの一番左の三つのまとまりに相当します。そして「潜在的な意識」の最も深いところに「たこ形」が位置します。この「たこ形」は土器の文様では右肩の右にある文様に相当します。土器の文様と幾何学の対応を書いていて、その部分の文様だけ、文様の意味が他の部分の文様と統一し難い気がしました(間違いないとして)。例えばひし形は穴の表現ですが、その部分にはひし形がないにもかかわらず、穴の文様がありえている(たこ形がその役割を担うようにして)。あるいは三つのまとまりの表現(鱗的楕円)が、他二つの三つのまとまりの部分では「長方形―正方形-ひし形」というまとまりなのですが、そこでは違うのです(一般四角形三つのまとまりです)。

土器(幾何学)的に「潜在的な意識」(の最奥)は統一できないといえそうです。この統一のできなさを無理にでも統一しようとする人権侵害的な行為になるのでしょう。

相手の内面にむやみやたらと踏み込んではいけないというのは、何かしらの概念―例えば「人権侵害」とか「教員のマナー」―のためが第一義的にあるではなく、土器(幾何学)的にはそういうものですから、痛くもない内面に軽々しく手を入れるというようなことをすると基底的にダメになってしまうということでしょうね。