フッサールの「幾何学」(仮)について8

書いた後にわかったことも記した図をメモしておきます(部分的に拡大したものも)。それとその下にそれぞれ「神像筒形土器」の対応していると考えている部分の写真も貼っておきます。

 

全体図↓

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頭部と左肩の左の文様↓

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右肩の右の文様↓

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右肩の右の文様の下の文様↓

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背の部分とその下の文様↓

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左腕の左の斜めの文様↓

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自分がなぜ幾何学や土器について考えているかといえば、教育について考えているからです(一応、教育系出身です)。倫理を完成させないと、教育が倫理にのっとられてしまう気がしているからでしょうか。

 

土器の文様の解読のようなことは、伝統的にどちらかというと教育系ではなく、他分野で考えられてきたようです。当然といえば当然ですね。同じものについて考えるにあたり、教育のセンスと他分野のセンスでは、他分野の方がセンスがいいような気がします。あれこれしていて思うことは、教育の人間はその、自分(教員)のことを棚に上げて子供をどうこうしようとする態度や、素早く最新の教育方法を手に入れそれを日々の実務に生かそうとする態度が、物事をきちんと考える上でのバイアス(偏見)になるようです。

 

自分には、完成するまでは残しておいた方がいいと思う作業の跡資料がこれだけあります。

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 それでも結構、捨てました。かなり試行錯誤的な作業です。こんなに「見落とす」のも偏見つまり近代の成果のおかげかしら。縄文時代当時のひとは(なんというか)もっとスマートにかたちにすることができたのでしょうかね。あれだけ考え込まれているように思える文様を、土器を制作しながらつくりつけていったとは考えにくいですが、とすれば、おそらく紙も鉛筆もない時代どこでその下書きの如くを考えたのかなどのことを知りたくなります。それにあの土器の文様を制作したひと、かなり頭が良いようです(それとも当時は私がいう「頭の良さ」が他のひとにとってもスタンダードだったのだろうか)。頭が良いだけでなく手もきちんとしています。

 

岡本太郎さんが縄文の美をいいましたが、こう考えてくると縄文の科学といってもよいと思えるくらい理的に造形しているようです(昔の小学生が読んでいた漫画・日本の歴史の「縄文人」のイメージー土埃のついた未開の原人がウホウホのようなーとはとても違うようです)。また「今のところ、一般言語学とは私にとって、幾何学の体系のようなものに思われる。結局は、いくつかの定理を証明することが問題となるのである。ところで、定理12も、別の角度から見れば、定理33と同じことを言っていることがわかる」とはソシュールが弟子のゴーチエとの対談で言っていたことだと『ソシュールの思想』(丸山圭三郎)にありますが、これだけ幾何学的にしっかりと考えられることがあった地域なので、言語的にも確かな何かがあるかもしれないです。