フッサールの「幾何学」(仮)について9

フッサールの「幾何学」(仮)について9

 『てつがくこじんじゅぎょう』(鷲田清一×永江朗)のレヴィナスの項の引用句にはこうある。

 

「〈同〉の審問は〈他〉によってなされるのだ。他者の現前によって私の自発性がこのように審問されること、われわれはこれを倫理と呼ぶ。〈他者〉の異邦性とは〈他者〉を〈自我〉、私の思考、私の所有物に還元することの不可能性であり、それゆえ〈他者〉の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就される」(レヴィナス『全体性と無限』)

 

その後の対話の箇所では内田樹さんは「レヴィナスは同じ袋の中に複数のレベルのことを入れている。」と述べている個所がある。『現象学辞典』の『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』の項では斎藤慶典さんが、「理性とはこの等質な公共空間を設定しうる能力のことなのである」と書いてある。その「等質な公共空間」が内田さんのいう「同じ袋の中に複数のレベルのことを入れている」に相当すると考える。

 

斎藤さんはその著『レヴィナス』で「このようにして開かれた空間においては、およそ思考しうるかぎりのすべてが、あの「望ましからざるもの」の前に、いわば横並びになる。この空間は一切の方向性・偏差・歪みを許さない均質で透明な空間であり、その中では、決定的な次元の差異をもっていたはずの私と「他者」ですら、「等しい」ものとなってしまうのだ」とし、「そのような空間の内部ではじめて、「正しい」行為と「不正な」行為が、「正義の」人と「よこしまな」人が、裁かれるのだ」と書いている。

この空間において私が「顔」としてあらわれた(あらわれている)「他者」の「よさ」へと向けて計量的に裁きを行う(「顔」は、「「見えるもの」と「ひょっとしたら幻かもしれないもの」とが重なり合った事態」)。しかし計量的といえどもそもそも比較できないことを比較している(=「正義」している)のだからその裁きは暴力といえば暴力。私は正義が虚構であることに覚醒してもいる。

 

斎藤さんはこう書いている「「正義」のこの不可能性は、「よさ」が、「顔」を見てしまったのかもしれないという疑念に取り憑かれた私の「欲望」する理性にとってはもはや取り憑いて離れないいわば「原事実」でありつづけているのと、この「純粋な可能性」から見て「不可能な」正義、虚構として要請されるにすぎない正義が、つまり計量する理性が、むしろ私たちの現実を支配しているように見えるのだとすれば、ここでもう一度問わなければならない。「純粋な可能性」として見てとられたものと、厳として存在している「現実」として見てとられたもの、いったいそのどちらが「幻」なのか。虚構なのか。」

 

こうした思想を幾何学のこととして述べることは、なかなか困難ですが、つなげてみます。例えばレヴィナスは「顔はかたる。顔の〈あらわれ〉はすでに言説である」と書いています。そこにソシュールの「今のところ、一般言語学とは私にとって、幾何学の体系のようなものに思われる」という言葉をつぐようにすれば、「顔」と「言」と幾何学がつながります。

 

レヴィナスは同じ袋の中に複数のレベルのことを入れている。」「理性とはこの等質な公共空間」、というその「袋」や「等質な公共空間」が、「神像筒形土器」と重ね書きしているフッサールの「幾何学」(仮)のことです。その空間に「神像筒形土器」的な思想つまりレヴィナス的な思想が働くという構図です。

 

そして(もう幾度か述べていますが)フッサールの「幾何学」(仮)において「たこ形(二種)」は「他者の顔」に相当します(たぶん)。ベン図的なたこ形の性質と顔の性質が同じということからです。「神像筒形土器」の右肩右の文様では、たこ形=ひし形として表現されているようでして、「幾何学」(仮)においても「土器」においてもひし形には穴性がありますから、その穴に触れるようにして穴からまさに顔を出すようにしてたこ形がありえています。このたこ形が先ほどの思想の「この空間(等質な公共空間)において私が「顔」としてあらわれた(あらわれている)「他者」の「よさ」へと向けて計量的に裁きを行う」その対象です。

で、その顔へのどのような計量的な正義をということに関する「幾何学」(仮)での形は、右下の正方形と長方形です。「土器」の文様でいえば、正方形や長方形が積み重ねられているようなとても細長い文様のところです(この正方形や長方形が積み重ねられているようなとても細長い文様は、顔つまりたこ形への計量的な理性による正義ということに関してもっともらしい表現です。この「土器」の制作者、レヴィナス的な思想に生きていたような気がとてもします)。

 

そしてこの二つつまり顔とその顔への正義は、顔は「見えるもの」だけでなく「ひょっとしたら幻かもしれないもの」でもあり、正義は「よさ」であるだけでなく「虚構」でもあるというような、(いわば)見え隠れするような性質が共通しています。そしてそのこと自体もというところがありました。

 

この顔と正義に関することが、「幾何学」(仮)では、中央下部にある一般四角形から台形までの線におけるたこ形(二種)と正方形・長方形の箇所のことに相当します。「土器」としては、その二つの部分にそれぞれ服の如くが着せられています(「幾何学」(仮)を手がかりとして考えるとわかりやすいということです)。見え隠れするようにして表現されています。そしてそのこと自体が、「土器」の後ろ姿の部分とその右側部分の文様との関係にありえています。

 

顔に触れられていたり、顔に正義をなそうとしている私が居る場所は、後ろ姿(中央下部の長い線)ではひし形であり、後ろ姿右側の文様では斜めの文様においてのようです(斜めの文様は後ろ姿右肩右の文様と右肩右斜め下の文様の間に位置づいています)。

 

そうして顔に正義がなされると、「幾何学」(仮)では、「幾何学」(仮)の初期的の数学的な目的であった新たな一般四角形が三つ描かれるということが起きます。「土器」的には左腕の先の平らな部分に何かありえるはずです。斜めの線、斜めの文様に関しても同様なことが起きるはずです。線的には新たな長方形・正方形・ひし形が描かれる。「土器」的には斜め文様下側の円形に何かありえるはずです。

こうした顔の経験や、顔への正義的な働きやその結果が、それらだけでなく「幾何学」(仮)や「土器」自体においても働いています。「幾何学」(仮)では同じ図でも、ひし形に触れる前と触れた後では図の展開の仕方が違う二枚目の図(触れた後の図)がありえるというように、「土器」的には「神像筒形土器」だけでなく「双眼深鉢」がありえるというようにでしょうか(ここはブツだけでなくそれへと関わっているひとのことも論じなければなりませんが)。

 

(下。前回の図を少し手直しした図。主に手直しした箇所は、形のまとめかたと対応するであろう文様の関係)

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(レヴィナスの思想がそれなりにきちんとわかっている方からすれば、もっといろいろ見えてくることがあるのでしょうね)